254話 羽ばたきたい孔雀 Ⅴ Ⅰ
さっきミシェルが訪問したのは、中央区にある、ララの別邸だ。
本宅は、K11区にある。そちらはアンジェラのアトリエもあるほうだ。かつてルシヤが誘拐され、クラウドとジェイクが忍び込んだ屋敷――。
シグルスに教えられた番号を打ち込むと、道端の電話ボックスと思しき場所から飛び出した。そこからでもはっきり見えた。
炎上する屋敷の全体像が――。
燃えている。
ララの屋敷が、燃えている。
次々集まってくる野次馬、消防隊、警察。ミシェルは人混みのほうへ走り、シグルスとララを見つけた。
一番大きな声で、名を呼んでいるのはララだ。すぐ分かった。
「アンジー! アンジェラ……!!」
「危ないです! 下がってください!!」
ララが警察に抑えられていた。屋敷はもうずいぶん火が回って、大炎上だ。だれも近づけない。だいぶ距離のあるこの位置でも、すさまじい熱風を感じる。
「シグルスさん!!」
ミシェルの絶叫に、呆然とたたずんでいたシグルスが振り返った。
「ミシェルさ……」
「ミシェル! ミシェル!!」
シグルスを突き飛ばし、ララがこちらへやってきてつかみかかった。
「あんたのせいじゃないからね!?」
ララはそれだけ言った。ミシェルにだけ聞こえる小声で。
「あんたにあの絵を渡したのもあたしで、――アンジェと九庵の忠告を聞かなかったあたしのせいだ! あんたじゃないよ」
ミシェルは、なぜ、ララがそんなことを言うのか分からなかった。でも、ララにそういってもらえなかったら、きっとあとで、自分を責めていたかもしれないと思った。
自分が、アンジェラに会ってしまったから。
だから、こんなことになった。
真相を知ったその時は、わずかでも、そう思った。
アンジーは、あたしに、素晴らしい“ギフト”をくれたのに。
「そうです。あなたのせいですよ」
ララの言葉を肯定したのは、シグルスだった。
「あなたのせいです。よくごらんなさい。これが、あなたの、恋の末路ですよ……!」
石を、ちょうだい。
告げられた屋敷の者は、意味が分からなかった。分からなかったから、シグルスに尋ねた。
アンジェラが言っている石とは、ただの石でなくて、ミケリアドハラド鉱山の色彩石だった。
アンジェラのために、それはすでに取り寄せてある。屋敷には、世界中から集められた、すべての画材があった。絵の具もクレヨンもパステルも、なにもかもが。
アンジェラは、ミケリアドハラドの色彩石を手にすると、白い壁に向かって絵を描き始めた。絵を描くというよりか――石で壁面を塗り始めた。絨毯をはがし、家具を窓の外に投げ捨て、屋敷のあらゆる場所に石をぶつけ描いた。
その狂気じみた姿に怯えたメイドたちが、アンジェラの部屋に近づかなくなって、数時間――なにやら、焦げ臭い匂いがし始めた。
絵を描いている最中は入ってはならないと厳命されているのだが、それでも、この匂いはもしや――。
押し入ったメイドは仰天した。アンジェラが、カーテンに火をつけていたのだ。
防火用のはずのカーテンは、なぜかみるみる燃え上がり、火を周りに移していく。転がったテレピン油の瓶に、メイドはやっと気づいた。木のキャンバスが積み上げられた場所、紙が散乱した床――。
「今日はお祭りなの! 火のお祭り!」
悲鳴をあげて、メイドは部屋を飛びだした。
「悔しいですか。彼女の最高傑作が、この目で見られなかったこと」
表情はなかったが、シグルスの声は、屋敷を包み込む炎のようだった。
アンジェラが屋敷中に描いた絵画を――ララは、ひと目も見られなかった。
「……うるせえな」
ララは、ミシェルの肩から、顔を上げた。乱れた髪の下にあったララの目は、炎を反射して、金色にぎらつき、シグルスを睨み据えていた。
「あの子を抱いた男が、みっともねえ嫉妬すんじゃねえよ」
爆発音がした。屋敷の端が、轟音を上げて吹っ飛ぶ。ひとびとの悲鳴。ガスかなにかに引火したのか。「危ないから下がって!」――警察官たちの絶叫。
「こっち! こっちへ、早く!!」
「突入はもう――」
愛してた。
愛してた、ララ。
あたしを拾った人。あたしのすべて。あたしの恋。
あたしはアンジェラ。
あなたの恋の相手。
でも、あたしが欲しくてもらった名だから、あたしはあなたの運命の相手じゃないのかな。
だってあなた、一度もあたしを、“アンジェ”と呼んでくれなかった。
「下がって――!! ――の用意を!!」
ミシェルは、だれの言葉も聞こえなくなるような騒音とざわめきと、怒声、爆発音の中で、その姿を見た。
アンジェラが、屋上にいる。
世界は明らかに日が落ち始め、暗くなりつつあり、黒い煙と時折オレンジに震える炎の中に、はっきりと、彼女の姿を見た。
“アンジェ”が現れるのが怖かった。
あなたの運命の相手が現れるのが怖かった。
ほんとうのアンジェが現れたらきっとあたしは用無しだ!
ねえ、寂しいよ。
いつからあたしはひとりなんだろう。
ずっとずっとひとりだった。
鉱山からパパは帰ってこなかった。ママはいつのまにかいなくなった。
足が悪いあたしは、きっと捨てられたのね。
あたしはいっそのこと空に飲み込まれたかった。
空に消えてしまえば、パパとママにも会えるんじゃないかと思ったの。
それとも、火があたしを天まで連れて行ってくれるのかな。
パパに抱っこされて、ママといっしょに見に行った、お祭り。
一番楽しかった思い出だった。
あたしは空に消えたかった。
ララ、ララ、ララ。
あたしは空と火と、鋼と土、森しか知らなかった。
でもあなたが、あたしに海を見せてくれた。
生まれて初めて見た海。
ああ、あなたはきっと海なのね。
果てしのない海。
――あなたに、最後に名前を呼んでもらったのは、いつだったのだろう。
「ヨールカ!!」
ララの叫びに応えるように、アンジェラが、両腕を上げた――彼女のドレスは、光を浴びてきらめきを変える孔雀緑で、その真っ青な髪色と相まって、孔雀が羽ばたいたかに見えた。
彼女の背後でぶわりとふくらんだ炎は、まるで真紅の、孔雀の羽根だ――。
ゆっくりと、アンジェラの身体が傾く。前倒しに。
屋上から、ひらりと、孔雀が落ちた。
足の悪い孔雀が。
――飛べない、孔雀が。
ミシェルの声なき悲鳴は、届かなかった。
アンジェラの身体は、まっすぐに、消防隊が用意した防護マットに落ちた。
シグルスは駆け出す態勢で固まり、ララは、猛然と門内に入ろうとするのを、大勢に阻まれて止められた。
ララもシグルスも動けないでいたのだが、「無事だ!」「無事です!」の言葉を拾って、すべてを振り切って、駆けだしていった。
「シャインへ! 早く搬送して!!」
ララの支えを失ったミシェルは、がっくりと膝をついた。地面にへたり込むところを、だれかの強い腕に抱えられて止まった。
クラウドだった。
なぜ、こんなところに彼がいるのか。ミシェルは思ったが、そういえば、コイツは無敵のストーカーだったのだ。
ルナもいた。アズラエルもだ。ふたりは心配そうに、ミシェルを見ていた。
みんな、何も、言わなかった。
クラウドとルナに支えられるようにして屋敷に帰ると、皆が心配そうな顔でミシェルを待っていた。
それぞれが、なにか聞きたそうだったが、「無事でよかった」「おかえり」と口々に言って、部屋に戻っていった。
ルナの部屋のキッチンに残ったのは、ルナとクラウドとアズラエルだけで、ルナは温かいうどんを煮てくれた。ミシェルの分の夕飯は残されていたが、うどんのほうが嬉しかった。お揚げがあんかけに包まれて乗っていた。たっぷりの生姜とねぎが、今日さんざん冷やした身体を、暖めてくれる。
「おいし……」
クラウドが肩にかけてくれたカーディガンを引き寄せ、熱いお茶を飲んで、ようやくひと心地ついた。
「アンジェラは無事だったよ」
席を外していたクラウドが戻ってきた。
「病院に搬送された。火傷は負っているし、落ちたときに腕を骨折したみたいだけど、そのほかは異常なし。無事」
ミシェルは、ほっとしたのかなんなのか、複雑な顔をした。代わりにルナが、メチャクチャ素直に、ほっとした顔をした。
「……よかった」
「よかったってのも、複雑だがな」
言ったのはアズラエルだった。
「おまえら忘れてないか? アイツは、ルナを宇宙船から降ろそうとしたり、下手をしたら殺そうとした相手なんだぞ。ルシヤを人質に取って――」
「エレナさんだって、あたしを売ろうとしたよ?」
ルナはほっぺたを膨らませた。
「一度は関係のあった女だろ」
クラウドも嘆息した。ミシェルにもルナにもわかっている。アズラエルが一番複雑な顔をしている。しかたなく、彼は聞いた。
「いったい何が起こった? アイツが火をつけたのか?」
「それはまだ不明。でも、アンジェラ以外のメイドや使用人は、避難していて無事だった。ほかに怪我人も死人もないよ。――ミシェル」
クラウドが、遠慮がちに聞いた。
「話せる? 今日、なにがあったの?」
ミシェルは、もう一杯お茶を催促してから、ポツポツと話し始めた。
朝、クローゼットを開けたときに、アンジェラの絵を見つけて、それから起こったできごとは、あまりに怒涛だった。今日一日に起こった出来事だというのが、信じられない。もう数日たった気がする。
まるで、ミシェルの化身である「青いネコ」が、今日という日に、わざとあの絵を見つけさせたみたいだと、ミシェルは思った。
「午後三時ころ、だったかな」
クラウドが思い返すような仕草をした。
「ルナちゃんが、こう、ぴょーんっ! て、ウサギみたいに跳ねながら、俺のところに来たんだよ」
様子が想像できて、ミシェルはちょっぴり笑った。少し元気が出た。
午後三時ころは、ちょうどミシェルが、ペリドットのもとに行っていた時間だ。
ルナも言った。
「部屋に入ったらね、ZOOカードが開いてて、アンジェラの羽ばたきたい孔雀のカードが出てて、真っ黒なもやがついてたの」
「真っ黒?」
ミシェルは、ペリドットのところで見た、黒いもやを思い出した。
「死神みたいな、怖いのがくっついてて……」
「死神!?」
「クラウドのGPSじゃ、おまえはララの屋敷だのK33区だのに出入りしてるし、もしかして、アンジェラ関連でなにかあったかと思って、追ったらあの通りだよ」
火事に、出くわしたわけだ。
三人にとっても、青天の霹靂だったろう。
「クラウド! あたしの行動追わないでっていったよね!?」
「ご、ごめん――でも、君になにかあったのかと思って、不安になって、」
クラウドは、オドオドと言い訳をした。
いつものように、真砂名神社に絵を描きにいったはずが、あちこちに行って、夕飯にも帰ってこない、なんの連絡もないとすれば、心配されるのは当たり前だった。その点は、ミシェルも素直に謝った。
「アンジー……いったい、なにがあったんだろ」
ミシェルの頭の中は、シグルスから聞いた、アンジーの半生のことでいっぱいだった。
ペリドットが言っていた言葉も、ぐるぐる、頭を駆け巡る。
アズラエルが、腕を組んで嘆息した。
「死神がついたとしても、生き延びたってことだろ」
「――ララだって、アンジェラだって、善人じゃない。恨みの線で放火ってことも考えられるよ」
「まぁそうだな。アイツが自殺なんぞするわけがない」
アズラエルは言い切ったが、ミシェルが困惑顔で、ポツリと言った。
「みんな、見てなかったの」
「なにを?」
「アンジー、孔雀みたいだったのよ……」




