253話 アンジェラとヨールカ 3
シグルスは、口を閉じた。ミシェルは焦りを止められず、聞いた。
「……どうして、名前を変えたんですか」
ヨールカが、どうして「アンジェラ・D・ヒース」になったのか。
「アンジェラは、芸名ですよ」
シグルスはそう言ってから、首を振った。
「そうではありませんね。あなたが聞きたいのは、そういうことではないでしょう。……アンジェラの名を欲しがったのも、ヨールカのほうです」
そう言って、シグルスは、ララがアンジェリカからもらった予言のことを、教えてくれた。
――ララ、あなたは生涯で、三人の“アンジェ”に出会う。
ひとりは、あなたの生涯を支えるよき相談役となるでしょう。
ひとりは、あなたに狂おしい恋の苦しみを教えるでしょう。
ひとりは、あなたの眠りを見届ける。
これらは、あなたが前世でいただけなかったもの。それゆえに欲しかったもの。
芸術にその身を捧げ、孤独に生きて死んだあなたに、足りなかったもの。
あなたはこれらを得ようとするでしょう。そしてそれは手に入るでしょう。――
「よき相談役って……」
「おそらくはサルディオーネである、アンジェリカさまのことでしょう」
ミシェルの予測は当たった。
「ヨールカが、いつ、どうして、だれから、ララさまが受けた予言を知ることになったかは、わかりません」
あの予言は、ララと、側近であるシグルスしか知らないはずのものだった。けれど、ヨールカはそれを知った。
――ひとりは、あなたに、狂おしい恋の苦しみを教えるでしょう。
「ヨールカはきっと、出会ったときから、ララさまに恋をしていた」
シグルスは、うっすらと微笑みを浮かべた。皮肉げにも見える笑みを。
「だから、欲しがったんです。アンジェラの名を。ララさまが恋をする、本当の“アンジェ”が現れる前に」
「……」
ミシェルは絶句して何も言えないでいたが、やがて、聞いた。
「ララさんの周りに、今のところ“アンジェ”はふたりだけなの?」
「いいえ。アンジェリカさまだけ」
シグルスのその言葉は、「否定」だった。
「あなただって、彼女を“アンジー”と呼んでいるでしょう。……アンジェ、ではない」
「……!!」
ミシェルは詰まった。そんな。――それでは。
それでは、アンジーの恋は。
じゃあ、ララは。
「不思議なもので、ララさまは今まで数え切れない人々とお会いしてきましたが、その中に、“アンジェ”の名を持つ者は、ほかにいなかった」
「ララさんが恋をする、運命の相手は、アンジー?」
「……さぁ。その話を、ララさまとしたことはないんです」
シグルスは言った。
「でも、アンジーは信じているんですよね? 自分がララさんの運命の相手だって」
「……それは、どうでしょうね」
シグルスはどうも歯切れが悪かった。いつも明確に返事をくれる彼は、今日は迷い気味だ。
「じゃ、じゃあ、アンジー……ヨールカさんが、看取る人だって、可能性は?」
恋をする相手じゃなくても、運命の人に変わりはあるまい。
「それもあるかもしれません。けれど、ララさまは、アンジェラを抱いたことはない」
「えっ……」
「ララさまは、あれでいて、一度もアンジェラに手を出されたことはないんですよ。私を、彼女の夫に据えましたが」
シグルスは、また彼らしくない笑みを浮かべた。
「アンジーは、アンジェではない」
ミシェルには答えられなかった。ララの心中など、推し量るのは無理だ。
「愛とか恋というものは、時に惨いことをする」
シグルスの表情もまた、ミシェルが推し量れるものではなかった。
「あなたは、彼女を危ういと思いましたか? だから、この絵を?」
「え?」
ミシェルは聞き返した。表情がないなかにも、どこか不安そうな影が、シグルスの瞳にあった。
「え? いいえ――あっ、あたしは。その、絵をもらった日に、アンジーの絵画があったことで、興奮して。ええと――でも、今日までクローゼットにしまっていて、今日、初めてこの絵を見たんです」
シグルスは辛抱強く聞いていた。
「危うい? とかは――。あたしは、ルナじゃないし、アンジェみたいにZOOカードもつかえないし、そういうのは分からないけど、ただ、この絵は、あたしが持ってていいものじゃないって、っていうか、」
ミシェルは一生懸命言葉を探した。
「きっと! きっと――ララさん、この絵を手放せば後悔すると思うんです! だれかにあげてやったりなんかしたら。この絵は、アンジーの最高傑作だと思うから――」
そこまで言い募って、シグルスの眉間が固く引き絞られ、苦しげに目を閉じているのに気づいて、ミシェルはしゃべるのをやめた。そして、聞いた。
「――アンジー、なにか、まずいんですか?」
聞き方。
ミシェルは自分でも思ったが、咄嗟にそれしか、言葉が出てこなかった。
シグルスは、奇妙な笑みを浮かべた。
「いいえ」
シグルスは最後に、「あなたなら、この絵に、なんてタイトルを?」ともう一度、聞いてきた。
ミシェルは、この絵は、アンジーそのものだと、そう思った。最初にこれを見たときの驚愕と感動は、もう言葉にすらならないが、ただ、「これは、アンジーそのものだと思います」とだけ言った。
シグルスはなぜか、「ありがとうございます」と言って、絵を受け取った――。
ミシェルは、黙っていられなかった。お昼もまだだし、おなかもすいていたが、もうそれどころではなくて、屋敷に帰らず、そのままK33区に向かった。なぜかリズンの近くのシャイン・ボックスに出てしまったのは、よほど動揺していたのだろう――そこから、K33区に飛んだ。
K33区役所のシャイン・システムから出ると、雨が降っていた。
ミシェルはここまで来て気づいた。広場までは、馬か馬車を駆っていかなくてはならない。けっこうな距離がある。居住区までは、もっとある。
でも、もどってアンジェリカに相談するには、まだ彼女は本調子ではない。だとしたら、ペリドットしかいない。ルナは、自分の好きなようには、ZOOカードをつかえないから。
馬車を待つのももどかしいし、ひとりで馬には乗れない。
「ええい!」
ミシェルは、雨の悪路を、走り出した。
三キロもあったのではないだろうか。広場に着いたが、今日はだれもいない。
すでに全身びしょぬれだった。雨脚は強くなるばかりだ。
ミシェルは目の中に入ってくる水滴をのけながら、広場から見える集落の屋根を見つめる。一度行ったことのある、ペリドットの家を目で探した。
今さらだが、いなかったらどうしよう。しかも、こんなびしょぬれで訪問する迷惑も考えていなかった。足は泥だらけで、ジーンズにまで泥が跳ねている。
ミシェルは自己嫌悪に陥ったが、ダメもとだ。追い返されたらそれまで――と思って、見覚えのある玄関先に立ったら、ペリドットの妻のザワが、タオルを持ってドタドタ駆けてきた。
何か言っているが、ラグバダ語なので分からない。ただ、ミシェルがビショビショだったので、心配していることだけは分かった。
「入ってください。父、呼んできます」
カタコトの共通語でそう言ってくれたのは、ラルガの弟のイスピオだった。彼は大きな葉っぱを傘代わりに、外に飛び出した。
ザワは、お風呂をつかわせてくれ、衣服を貸してくれた。おまけに、バターチャイまで作って出してくれた。温かくてこってりした飲み物が、すきすきの胃に染みた。ミシェルの言葉が通じているか分からなかったが、「ありがとう、ありがとう」と繰り返し伝えた。ザワは、ずっとニコニコ笑っていた。
やがて、ペリドットがイスピオを連れて帰ってきた。
「どうしたんだ?ミシェル」
ミシェルひとりの訪問はめずらしい。ペリドットは目を丸くしていた。
「ペリドットさん、ZOOカードで調べて欲しいことが――」
言いかけて、ハッと気づいた。最近、ルナがつかえるようになったので忘れていたが、本来、占いには何億とかかるのだ。
それにも今さら気づいて、ガクーッと肩を落としたが、ペリドットは大笑いした。
「おまえさんから金なんぞ取らねえよ! なんだどうした。なにか心配ごとか?」
こちらのZOOの支配者は、親切だった。ミシェルはお言葉に甘えて、遠慮なく言った。
「は、――“羽ばたきたい孔雀”のカードを見て欲しいの」
「羽ばたきたい孔雀?」
ペリドットはそう言って、「カードの名は分かってるのか。なら簡単だ」と気安く請け負ってくれた。
指をパチンと慣らすと、彼の手のひらの上に、一枚のカードが煙とともに現れる――ZOOカードボックスも、近くにないのに。
これがほんとうのZOOの支配者かと感動しながら、輝かせていたミシェルの目が、一瞬にして色を失った。ペリドットの顔を見てだ。
「――なんか、ヤバい?」
ぺリドットは、すぐには答えなかった。ザワとイスピオも様子を伺っていたのだが、顔色が変わった。ラグバダ語でなにか言っているが、ミシェルには分からない。
やがて、ザワが、ミシェルを励ますように背を撫ぜ、首を振り、イスピオを連れて部屋を出た。
雨脚が、ますます強くなってきた。
「……これは、おまえも通ってきた道だ」
ペリドットが、やっとそれだけ、言った。
「え? それじゃ意味が……もっとはっきり言って」
ルナがここにいたなら――気づいていただろう。
カードを覆う黒い靄と、“死神”の姿に。
「ルナはこれを見たのか?」
「ううん? ルナは勝手にZOOカードつかえないし……」
「そうか。そういや、そうだったな」
ペリドットは嘆息し、カードを消した。そして、もう一度言った。
「これは、おまえも通ってきた道だ」
「いやそれじゃ、わからな……」
「おまえのそれは、ルナの、イマリに対する思いと同じだ」
「は?」
「おまえには止められない。だが、おまえのせいでもない。ただ、この魂の運命なんだ」
ペリドットはつぶやいた。
「天命が帰結する、場所なんだ」
結局、ミシェルには分からないことだらけだったが、ペリドットは、「これ以上は有料だ」といって切り上げた。本気で有料にする気などないことは、ミシェルにだって分かった。
ペリドットは、あれ以上占う気がないだけだ。
濡れた服を袋に入れてもらい、ラルガの服を借りて、帰りはペリドットが呼んでくれた馬車で帰路に就いた。
さんざん振っていた雨はだいぶ弱まっている。けれど、スニーカーは泥でぐちゃぐちょだし、こんな泥だらけの人間をよく嫌な顔せず上げてくれたものだ。ミシェルは、そのうち、なにかお礼を持ってこなきゃなあ、と思いながら、馬車の幌の中から、曇り空を見上げていた。
不思議なことに、ペリドットの言葉を聞いたあとは、ソワソワがおさまっていた。
けれど、胸騒ぎが鎮まらない。
部屋に帰って、みんなに気づかれないように泥だらけの靴を風呂場に持ち込み、洗おうとしたが、pi=poのキックに見つかってしまった。ミシェルはこれ幸いと、みんなキックにお任せして、自分の部屋に向かった。キックはミシェルのスニーカーを洗い、服を洗濯してくれるだろう。それがクラウドに見つかったら、追及されるかもしれないが。
寝室で着替え、時計を見ると、もう午後四時を過ぎていた。そろそろ、ルナが夕飯の支度を始めるかもしれない。
そう思ったら、急におなかが鳴った。
今日は昼食を食いそびれたのだ。
夕飯の前に、なにかつまみたい。もしかしたら、ルナにも相談した方が、いいかもしれない――そう思っていると、いきなり目の前にだれかいた。
最初は、キックかと思った。
しかし違った。
孔雀青、とは言えない、もっと水色に近い色合いの――ネコ?
ミシェルと同じくらいある。いつもの、十五センチのぬいぐるみではない。
(偉大なる青いネコだ)
そう認識したとたん、ネコは消えていた。
途端に、携帯電話が鳴った。
ミシェルは飛び跳ねた。今日は、あまりにも感情が揺さぶられ過ぎている。いつもはそんなことはないのだが、ビクリと肩を跳ねさせると、おそるおそる、相手を見た。
シグルスだ。
さっきの今で――もしかして、アンジーになにか?
ミシェルは素早く電話に出た。
「――シグルスさん!?」
『ミシェルさん……』
シグルスの声が、震えている気がした。
彼の背景には、たくさんの人の声と、それから――パチパチと、気がかりな音が。これはなんだ?
――火が爆ぜる音?
『来てください。K11区の、本邸のほうです。ナンバーを言います。K11―05……』
声だけは、ひどく落ち着いていた。ミシェルは電話が終わる前に、シャイン・システムに向かって駆けだしていた。




