253話 アンジェラとヨールカ 2
「あっ……」
それは、引っ越し祝いに、ララにもらった絵のひとつだった。
あのとき、驚きすぎてぶっ倒れてしまったせいで、四枚目の絵画はそのままクローゼットにしまいこまれていたらしい。
ミシェルは、ごくりと息を呑んで、包みに手をかけた。
サイズは、とても小さい。A4もないだろう。
しかし、小さくてもアンジーの絵だ。
もういい。なんでもいい。感動の予感だけはある。
できればあのときみたいに興奮で失神しないように。鼻血くらいですんでほしい。
すでにファースト・インパクトは超えているが――ミシェルは半ば覚悟して、包みを開いた。
結わえられた紐を解き、包み紙を丁重に剥がした。
そこにあったのは、剝き出しのキャンバスだった。
ミシェルは、その絵に、一瞬で目を吸いつけられた。
絵――いや、その、色彩に。
赤。
ただ――一面の、赤だった。
キャンバスの表層が、真っ赤に塗りたくられているだけ。
――なんて、美しい赤だ。
百ミリ四方ほどのキャンバスが、真紅に染められている。
その赤からほとばしるものが、いったいなにか、ミシェルには分かっていた。
――これは、火だ。
けれど、恐ろしい火ではない。鮮やかで、華麗で、きらびやかで。見ているだけでワクワクと楽しくなってくるような。
このあいだの祭りを思い出す。
「アンジー」
こんな色を出せる人を、ミシェルはほかに知らない。
ミシェルの双眸からボロボロと涙がこぼれ落ち、溢れた。
号泣しそうだった。
声なき嗚咽が、喉から溢れ出た。
やっぱり、やっぱりちがう。
どんなに同じものをつくったって。
自分が作ったグラスでは味わえない。
こんなものに出会ったのは、“何百年”ぶりだろう――。
ああ。
これは忘れていたもの。ミシェルがはるか昔に失ったもの。憧れていたもの。欲していたもの。
ミシェルの魂を揺さぶり、呼び覚ます。
――新鮮な“情熱”だ。
ミシェルは画材を放り出し、その絵を抱えたまま、シャイン・システムに走った。行き先は、真砂名神社ではなかった。
「突然ごめんなさい」
「いいえ。かまいません」
アポも取らずに飛び出し、駆けつけた先にシグルスがいたのは、まさに奇跡だった。ララが「いつでもおいで」なんて、屋敷のシャイン・システムのナンバーを教えてくれていたのを、こんな形でつかうことになるとは。
しかし、今ミシェルが会いたかったのは、ララではなくシグルスだった。その点では助かった。ララは不在だった。広大な屋敷の二階フロアのシャイン・システムから出て、近くにいたpi=poにシグルスの所在を訪ねた――すぐに、彼自ら迎えに出てきてくれた。
ミシェルは、二度もシグルスを驚かせることになった。
突然の訪問と、頬に伝う涙とで。
すぐ近くの部屋に入れてもらったミシェルは、メイドがお茶を運んでくるのも待たずに、持ってきた絵を差し出した。
「……これは?」
「見たことありませんか?」
シグルスの表情は、動かない。
「いいえ。アンジェラの絵ですね。たしか、ララさまがあなたに差し上げたはず」
「これ、あたしが持っていていいはずのものじゃありません」
ミシェルはシグルスへ突きつけたが、彼は受け取らなかった。
「これはたしかに、アンジーの最高傑作のはずです!」
シグルスはちらりと絵を見つめて、それから立った。
「ちょっと来てください」
彼にしては、口調が少し、焦っている気がした。
すぐ見ていればよかったのかもしれないが――今さら、この絵を持ってきたことに対して、シグルスはなにも言わなかった。
ミシェルは彼に案内されるまま、廊下に出た。彼の足はまっすぐ三階に赴き、分厚い扉を開けて、部屋に入った。
だだっ広い部屋の中央に、テーブルがぽつんと置いてあった。
そこには、真白い布がかけられた、三枚の絵。大きさは、この赤い絵と同じくらいだ。小さなイーゼルに置かれただけの、ララにしては、あまりにぞんざいな置きようだった。
シグルスは、一枚一枚の布を取っていく。そこにあったのは、やはりこの赤い絵と同じように、ただ、色を塗りたくられただけのキャンバスだった。
絵具を覚えたての子どもが、手のひらを使って、べたべたと――色を塗るのが楽しいだけの営みで、好き勝手に塗ったキャンバスのようにも見えるが、色が、「普通」ではない。
これは、アンジェラの「色」だった。
地上に――世界に。
こんな色があったのかと、思わせるような色だった。
左から――白。いいや、白には見えるが、色がついている。ミシェルには分かる。これは白であって、白ではない。
まるで、どこかの大地の色のように見えるのは、なぜだ?
「これは、“シグルス”というタイトルだそうです」
シグルスは、なんの感情も伺えない顔で、自分の名を言った。
中央にあったのは――この色も、なんといっていいのか、ミシェルには表現しがたい色だ。
鋼。銀色。灰色。――固い鉄を思わせる色。
「これは、“アズラエル”」
ミシェルははっとした。
アズラエルのコンバットナイフ? いや――しかし、これは。
最後の右端の一枚は、緑だった。光こぼれる、森をイメージしたような――。
「これは、“ジルド”」
シグルスは、ミシェルが持ってきた、赤い一枚を受け取り、愛おしげにも見える指先で、表面をなぞった。
「アンジーは、その三枚にはタイトルをつけたが、この一枚には名をつけなかった」
ミシェルは泣いた。この広い部屋に、響き渡るような声で。
「あなたなら、この絵に、どんなタイトルをつけますか」
――アンジェラが生まれたのは、L42の、ミケリアドハラド色彩石採掘鉱山である。
L42のラグバダ名は、「パジャトゥー・ラ」であり、マ・アース・ジャ・ハーナの神話では、色彩の神の名を表す。
この灼熱の星には、大陸がいくつかある。そのひとつ、メラギ国内の、色彩石採掘鉱山地帯は恐ろしく広大で、宇宙船から見ても広さが分かる。
その東方の、ビスロッチェ村で、アンジェラは生まれ育った。
色彩石鉱山とはその名の通り、顔料や染料のもととなるさまざまな色の石が取れる。
色彩石というからには、さぞかしカラフルな街なのだろうと期待したものは、上空から見た景色に、一瞬戸惑う。
――真っ白なのだ。
大地が白い。まるで、真っ白なキャンバスのように。
土は白く、道は白く、家々の壁も白い。
その白い画用紙に、人々雨は、色彩石で、あらゆる絵や文字を描きまくるのだ。
子どもも、大人も、年寄りも。
雨が降れば、風が吹けば、一瞬で絵は消え去る。刹那の芸術があちこちにあった。
街の住民も、また不思議なくらいカラフルだった。黒や茶の髪色よりも、真紅だったり、群青だったり、深緑だったり、オレンジにピンクに紫色――染めたのではなく、生まれつき、そういった色彩豊かな毛髪を持つ者が多かった。
瞳の色もさまざまだ。光の加減で金にきらめいたり、左右の目の色が違うオッドアイなどめずらしくもない。朝と夕方で、目の色が変わる者もいる。
そういう環境もあるのか、ミケリアドハラドで生まれたものは、色彩感覚が抜群だった。
アンジェラも例に漏れず、そうだった。
「あの子を、ララ様が拾ったのは、あの子がいくつのときだったか。知りません。だれも分かりません」
アンジェラはみなしごで、だれも年を知らなかった。だから、今のアンジェラの年は「推定」ということになる。美しい子だったから、人買いにさらわれてももどってこられるように、近所の大人が名を教え込んでいた。
「あの子は、われわれに名乗りました」
ヨールカ・ビスロッチェ・ミケリアドハラド・メラギ・パジャトゥー・ラ、と。
「あの土地は、ミドルネームはありませんから、父母の存在も名もわからない。だが、名をすべて覚えれば、生まれ土地がわかるので、もどってこられると思いこんでいたようです」
「アンジーの本名は、ヨールカっていうんですね……」
思いもかけず知った、憧れの人の本当の名だった。突然号泣したミシェルを厭いもせず、シグルスはハンカチを貸してくれた。
「すいません……」
「父親は鉱山での仕事中に事故死。母親は、買い物に出たところを、人買いにさらわれて行方不明、だそうです。それもほんとうかどうか……。ヨールカは生まれつき、足も悪かった。近所のひとびとが食事を恵んでいたようですが、ほとんど放置されていた状態だった。家というには、ただの掘っ立て小屋でしたよ。ララさまがこの子を連れて行くといってもだれも反対しなかった」
あれは、火の祭事の日でした。
ララさまは、お抱えの画家を連れて、星に降りられたのです。ミケリアドハラドは、絵の具をつかって絵を描くイラストレーターや画家には、憧れの地でしょう。あそこで手に入らない「色」はない。鉱山ではありますが、観光地化もしています。
……そう、あの日は、年に一度の祭りの日で。
パジャトゥー・ラは、年中暑くて、灼熱の星と言われています。ミケリアドハラドももちろん、そうです。
一番暑い五月に、火の祭事があるのです。
街はにぎわっていました。火と星を祝う祭事のさなかで。
あまりに暑いので、道端では、水やドリンク類が数メートルおきに売られています。その屋台も物珍しくて、ララさまは、ひとりで出歩いて、郊外に行ってしまわれました。
そのとき、見たんです。
極上の“孔雀青”を。
陽炎が立つような灼熱の大地に、真っ白なキャンバスの大地に、空があったんです。
ララさまも――いいえ。駆けつけた私も、目を疑いました。
どこまでも続く空と、地面の境目が、なかった。
しばらくして、それが絵だと気づいた。
足の悪い少女が、いくつかの石で空を描いていたんです。地面を塗っていたんです。
その子の髪の色は、深い海の青でした。――ええ。それがアンジェラです。そのころは、ヨールカでしたが。
ララさまは、ヨールカを連れて帰りました。そして、育てることにした。
ヨールカをサヴァンだとも思ったかもしれません。専門家に見せたわけではないので、正確なところは分からないのですが。
あの色彩感覚は、生来のものだ。だからララさまは、彼女を生のままに育てようとした。
ガラスも、油彩も、すべてヨールカが自分で始めたことばかりです。ララさまは一切強要していない――名声を望んだのも、彼女です。
ララさまの、唯一絶対の、お気に入りになりたいがために。




