247話 エーリヒ、襲来 Ⅱ 3
ミシェルがトイレに向かってえづいている。
「ミ、ミシェル、だいじょうぶ?」
背中をさすってやりながら、ルナは聞いた。女子トイレに入れないクラウドが、外で心配そうに様子を伺っている。
「だ、だいじょ、だいじょうぶ……」
この宇宙船に乗ってから、真砂名神社で卒倒した以外は、風邪を引いたことも、おなかをこわしたこともないミシェルである。飲みすぎで吐いたこともなかった。
――それが。
(やっぱり、あの人が“華麗なる青大将”さん?)
ミシェルは、クラウドが厨房からもらってきた水でうがいをし、やっと人心地ついた。
「ミシェル? どうしたの、おなかいたい?」
「ご、ごめん――ほんとに、あの、悪いけど、あたし、あの人ダメかも――」
「え?」
ルナとクラウドは顔を見合わせた。
「悪い人ではないんだと思う――あたしだって、人に対してこんなふうに思うの、はじめて――ヤダな。――言いたくないけど、なんだか、あのひと、怖い」
ルナは息をのんだ。ルナもさっき、ベンと目が合ったとたんに、怖さを感じたからだ。
まるで、ヘビに睨まれたウサギだった。
「怖いっていうか――不気味な怖さっていうの? ああ、ヤダ。これ以上言いたくない。あのひと、悪い人じゃないもの――でも急に、あの人と目があったら気持ち悪くなって――信じられない。あたし、ホント失礼だよね――ごめん、あたし、いないほうがいいわ。帰る」
ミシェルも、自分の状態が信じられないようだった。目が合っただけで、吐きそうになるなんて――ルナも信じられない――だが、分かる。
ルナにはミシェルの気持ちがわかった。ルナも一瞬、「うぐっ!」となったのだ。
ルナは確信した。
(やっぱり、ベンさんが、“華麗なる青大将”)
クラウドも、同じことを考えていたようだった。ルナと目が合うと、うなずき返してくれた。
『ルナは、気持ち悪いって思うかもしれない。もしかしたら。初対面で受け付けないかも』
アンジェリカは、そう言っていた。
外見的には、ヘビのような部分はまるでないベンである。どうしてもヘビに近いというなら――どちらかというと外見的には、エーリヒのほうがそうだ。するどく細い目が、ヘビの目に見えなくもない。
ベンは、目も大きくて、ヘビに似た個所などどこにもない。ZOOカード的名前をつけるなら、『平凡な黒い犬』とか、『温厚な大型犬』と名付けてもいいような容姿だ。
信じられないことだったが、ルナは確かに、「気持ち悪い」と思ってしまった。
「あたしも、怖いと思ったの――ヘビににらまれたウサギってゆうか、」
「あ、そう、そう! すっごぉぉおーくでっかいヘビに睨まれた感じ!」
ルナの意見にミシェルも同意した。クラウドは、「なるほど」と納得した。
「ベンは、見かけは悪くないのに、ほんと、モテないんだ。エーリヒ以上に女の子に避けられる」
自分がモテないのは、心理作戦部にいるせいだと思っているようだけど、とクラウドは納得したように言った。
「――あ、待ってミシェル、送るよ」
ふらふらと裏口に向かおうとしたミシェルを、クラウドが追いかけた。ルナは慌てて止めた。
「あたしが送ってく」
ミシェルもクラウドも振り返った。
「あたし、ジュリさん連れてこなきゃ」
ルナがジュリを連れて帰ってきたときには、もうベンはいなかった。
「ウィスキーを一杯飲んで、帰ったよ」
セルゲイが教えてくれた。
ベンが喋り出したとたんに、ミシェルは逃げていき、ルナもジュリを連れてくるために姿を消した。悪気はなかったのだが、歓迎会なのに歓迎していないようで、ルナは、ベンに、気分を悪くさせてしまっただろうと、しょんぼりした顔でいった。
「かまわんよ。彼はもともと、すぐ帰るつもりだったから」
ベンのいた席には、アルコール一杯分の紙幣が置いてある。
「ところで君はどこへ行っていたの――私は、君といろいろ、しゃべりたいんだが」
エーリヒが自分を待っていたのが意外で、ルナは驚いたが、
「あのね、もうひとり、ともだちを呼びに――ジュリさん!?」
連れてきたはずのジュリはいなかった。
ルナが裏口へ回ると、ジュリがうずくまって泣いていた。
「ジュリさん……」
「ふえっ……えぐ、ええっ……カレン、カレン……」
ジュリをここまで連れてくるのは、実際ひと苦労だった。行きたくない、カレンのところに行く、ジャックに会いたいと泣くジュリを、ルナはなだめになだめて、連れ出したのだ。
ルナだって、落ち込んでいるジュリを、無理に連れてくるのは気が引けた。
ほんとうは、もうすこし落ち着いてからでもよかったかもしれない。だが、いつジュリが、「エレナのところに帰る」といって、宇宙船を降りてしまうかわからない。
セルゲイやグレン、マックスも、ジュリをエレナのもとへ送る方向で、話を固めているのはたしかだった。
だからルナは、すぐにでも会わせてあげたかったのだ。
ジュリが待ち続けた、本物の、「運命の相手」に――。
「ぶ、ぶえっ、ぶえっ……エレナ、エレナあああ、会いだいよぉ……」
マタドール・カフェの外を歩く人々が、なにごとだと振り返っていく。ジュリは人目もはばからず、子どものように泣き続ける。
店内にも、盛大に泣くジュリの泣き声は届いたのだろう、セルゲイが出て来た。
「ジュリちゃん、中に入ろう。――もうすこしで、エレナちゃんのところに帰ることができるからね」
さすがセルゲイは、ジュリのなだめ方が上手かった。ジュリはぐずぐずと泣きながら、セルゲイに支えられて、店内に入る。ルナも追った。
クラウドが席を開けたので、ジュリがエーリヒの隣に座った。
なぜかそのタイミングで、バックの「社交ダンス同好会」がかけている曲が、実にムードある音楽に変わったので、クラウドは吹き出してしまった。
エーリヒは、号泣する女が隣に座ったことで、あいさつをしていいものか迷ったようだったが、「どうも――私は、エーリヒ・F・ゲルハルトです」ととりあえず名乗った。
ジュリが、泣きながら顔を上げた。――それで、じゅうぶんだった。
エンジェルが、ハートの矢をつがえ、狙い定めて放つのは一瞬。
「……王子様?」
ジュリの、滂沱の涙と鼻水が、やんだ。目はエーリヒにくぎ付けである。エーリヒは、何の表情もない顔の中で、ごくたまに動きを見せるまぶたを瞬かせたあとで、周囲を見渡した。ジュリの視線の方角には、自分しかいない――つまり。
「王子様?」
と自分を指さした。ジュリは、うっとりとうなずいた。
二矢目が放たれた――今度は、エーリヒのほうに。
――それで、すべてが整った。
エーリヒは小気味よく音を鳴らして、ポケットからバラの刺繍が入ったハンカチーフを取り出し、お姫様の涙を拭いてあげた。そして、
「どうか、一曲」
と手をさしだした。
ジュリが、そのままジャックを追ってあの世まで行きそうな、浮ついた足取りでその手を取ったのは、無論である。
ふたりは、手を取り合って、「社交ダンス同好会」のほうに消えた――。
「――え?」
ついていけていないのは、事情を知らないアズラエルとグレンのみである。
セルゲイは「よかったねえ」とのほほん顔で笑っているし、クラウドは、さっきの曲調の変化がツボに入ったのか、身体を丸めて笑い転げている。
仕方がないので、ルナは説明してあげた。
「ジュリさんの運命の相手はね、エーリヒさんなの」
「はあ!?」
気の毒なことに、筋肉兄弟のあごは外れかけた。
「昨夜、ちゃんとZOOカードに出たんだよ」
ルナは真面目くさった顔つきで言った。昨夜、ルナははっきりと見たのだ。
“英知ある黒いタカ”と、“色町の野良ネコ”を結ぶ、くっきりと赤い、太い線を。
ルナは、上記の組み合わせの衝撃で、もう片方のカップルの存在を忘れていたのだが、昨夜ZOOカードから飛び出してきた二枚のカードは、たしかに“英知ある黒いタカ”と、“色町の野良ネコ”のカードだった。
(“華麗なる青大将”と、“真っ赤な子ウサギ”のカードは、出てこなかった)
ルナはそれを不思議に思ったが、月を眺める子ウサギに、なにか考えがあるのかもしれない。
「エーリヒと、ジュリ、ねえ……」
アズラエルが、なかよくダンスを踊る二人のほうを見て、苦笑した。
「いや、なかなかお似合いだ」
「まさか、ジュリがね……」
ルナから、ジュリの運命の相手がエーリヒだと告げられたときは、さすがに信じられなかったとクラウドも言った。
だが、エーリヒの好みを考えると、あながち間違ってもいない気がした。
自分が到底かなわないと思うほど、賢い女性か、底抜けの――ジュリがそうだとは言わないが。
「エーリヒも、通算四十九人に振られたけど――五十人目で、やっと“運命の相手”に出会えたってことだね」
「社交ダンス同好会」の面々は、突然の参加者を歓迎してくれているようだ。それこそ新婚とでも思われているのか、祝福の声が上がる。
ピエトがすっかり寝てしまったので、そろそろ歓迎会はおひらきである。
もともと今日のパーティーは、ジュリとエーリヒを出会わせるために開いたパーティーだったから。
社交ダンスを知らないジュリは、動きがいまいちおかしい。だが、エーリヒがちゃんとリードしている。
きっとジュリは、これからエーリヒに社交ダンスを習うだろう。
(よかったね、ジュリさん)
カレン、ジュリさんはきっとだいじょうぶだよ、と、ルナはL系惑星群へ向かっているともだちに、ちいさく告げた。




