246話 エーリヒ、襲来 Ⅰ 2
ピエトとアズラエルが自宅に戻ると、ルナが大輪のバラの花束を抱えたまま、リビングに立ち尽くし、宙をただようくらげのようにアホ面をさげていた。
「ただいまルゥ――なんだそれは」
ルナのアホ面は今に始まったことではないし、今日はカレンが旅立ってしまったこともあって、アホ面も極みだろう。アズラエルは、今日一日くらい、ルナがアホ面でいることを許してやろうと思ったが、なぜ花束を持っているのかくらいは聞いてもいいはずだ。
「タカさんが来たよ!」
ルナは、いま、アズラエルとピエトの存在に気付いた顔をした。
「タカさんが来た! エーリヒさんが!」
「あァ?」
「“マリアンヌの日記”って――これが?」
クラウドは、プラスチックの透明ケースに入った、ラベルもついていないディスクの裏表を眺めて、興奮気味に問うた。
「どうやって手に入れた?」
「マリアンヌの足跡をたどり、L31の文書保管センターまでいって、マリアンヌの日記のデータが残っていないかたしかめた」
エーリヒは、つづけた。
「メイン・コンピュータにデータはかろうじて残っていた。前半六冊分だけ。マリアンヌが書きつづけてきた、分厚い百科事典のような手書きの日記十三冊を、彼らは電子文書化し、複雑なロックをかけたディスクをつくった」
「六冊分……」
「いいかねクラウド?」
エーリヒは身を乗り出し、声を低めた。
「マリアンヌが残した“マリアンヌの日記”というディスクは、かなり複雑な仕掛けがほどこされていた。――おそらく、“君”以外の人間が読めないようにしたのだろう。驚異的な速さで文章が流れ、一度再生された部分は、二度と読めない。リカバリーもできない。片っ端から消えていくのさ。つまり、驚異的な速読力と記憶力をもつ君しか、解読できないのだ」
「それでユージィンは、俺を宇宙船から拉致しようとしたのか」
傭兵グループ、「ヘルズ・ゲイト」をつかって、クラウドを拉致しようとした――「マリアンヌの日記」の解読のために。
エーリヒは「そうだ」と同意したあと、
「君がマリアンヌ嬢から聞いたIDは、ディスクを再生するパスコード、パスワードは、一時停止できるコードだ。それも、一時停止は三回しかできない」
クラウドは、あのときカサンドラが教えてくれたIDとパスワードを思いだし、ごくりと息をのんだ。
IDは、『船大工の兄』、『船大工の弟』、『夜の神』、『月の女神』。
パスワードは、『マ・アース・ジャ・ハーナ』。
「ユージィンが、“マリアンヌの日記”にドーソン一族の滅亡を食い止める秘策がないかと、血眼になって探している。だがいまだに、あのディスクをどうすることもできない――最先端の科学技術でも、どうすることもできないのさ。
コンピュータに読み上げさせたり、記憶させたりしてスロー再生するなど、あらゆる方法をためした。だが、ダメだ。データは消えるだけで、ユージィンが情報を得ることも、中身を読むこともできなかったというわけだ。おかげで、“前半六冊分ほど”、消えてしまったらしい」
クラウドは、ディスクを思わず見直してしまった。
「そう。ちょうど六冊分――私も、ちょうど六冊分残っていると言われたときは、顎が外れそうになった――これは、L03ではふつうのことなのかな?」
エーリヒは首を傾げた。
「それとも、マリアンヌ嬢のマジックか? ――とにかく、六冊分を焼き直してもらった。だが、このデータが最後だ。もうL31の書庫保管センターにもデータはなくなる。たいせつにあつかってほしい。実は、マリアンヌのディスク作成にかかわったエンジニアがL18から帰ってこないという話でね」
「――!」
「彼らは、私のためにデータを焼き終わったあと、コンピュータに残ったデータはすぐさま廃棄した。おまけに、センターから外に出たら、ドーソン子飼いの秘密警察が私を張っていた。――まくのに苦労したよ」
「……」
「そのディスクは、何の仕掛けもほどこされてはいないから、君の速読も暗記力も、IDもパスも必要ないな――どうだね、今すぐ」
「ああ。もちろん見よう」
エーリヒとクラウドは即座に立ち上がり、会計を済ませて店を出た。
「ルナちゃん、いる? ――あれ?」
セルゲイが、ルナとアズラエルの部屋のリビングに顔を出した。
「どうしたの? そのバラ」
セルゲイは、キッチンテーブルの真ん中で、ずいぶん存在感を示しているバラの花束を見て言った。真っ赤な大輪のバラだ。
ルナがぱたぱたとリビングから走ってきて、まくしたてた。
「黒いタカさんが来たの! やっと! フラレたからあたしにバラをくれたの。エーリヒさんはフラレるとバラをかざるくせがあるんだって! それから、きょうのあたしはアホ面だから、お昼も夕飯もつくらないから、みんなでリズンにいったりしよう?」
小首をかしげてダメ? といわれてしまえば、基本的に妹にメロメロのお兄ちゃんはうなずくだけだった。でも、リズンよりかは、たまにはいいレストランにルナを連れていきたい。
「黒いタカさん?」
セルゲイが今度は小首を傾げたが、それへの返事は、面倒そうなアズラエルの解説だった。
「エーリヒ・F・ゲルハルト。心理作戦部隊長で、クラウドの元上司だ」
セルゲイは、そろそろ乗ってくるかもしれないと言われていた、クラウドの元上司の名前を思い出した。
「なるほど……新しいルーム・シェアのメンバーは、男性か」
セルゲイがのんきな顔で言ったのに、アズラエルが噛みついた。
「は!? 冗談じゃねえ。アイツがいっしょに暮らすって?」
ライオンの遠吠えを、セルゲイは無視した。
それにしても、ルナは元気そうだった。さっきミシェルに声をかけたら、「今日はあたし、なにもしたくない……」と情けない返事が返ってきたので、セルゲイはあきらめたわけだが。
「ルナちゃん、手伝ってほしいことがあるんだけど」
「うん、いいよ!」
ルナには、頼めそうだった。
セルゲイがルナに頼んだのは、ジュリの荷物の整理だった。どうやら、今日中にこの部屋から荷物を撤去しないといけないらしい。
「ひっこし?」
ルナは、驚いて目を丸くした。この様子だと、ミシェルもまだ、引っ越しのことは聞いていないだろう。クラウドは、さっき部屋にいったらいなかった。ルナにそれを言うと、
「うん。ミシェルもまだ知らないと思う。クラウドは、エーリヒさんとマタドール・カフェに行ったよ」
引っ越し先はどこだろう、とぶつぶつ言い始めたルナに、セルゲイは、
「たぶん、K35か36、あるいは、K20区あたりになるんじゃないかって」
「え!? K27区から出るの?」
ルナは叫んだが、セルゲイは苦笑した。
「いままで暮らしていた部屋が、K27区でいちばん広い部屋だったんだ。――となると、いいところがなかなかなくて」
「……」
「今はシャインもあるし、K27区から出てもいいんじゃないかなって。急ぎだったものだから……勝手に決めちゃって、ごめん」
「う、ううん……」
ルナは首を振ったが、口調は元気がなかった。
ほかの区画に行くということは、レイチェルたちとも離れ離れになってしまうし、なにより、リズンやマタドール・カフェや、慣れ親しんだ公園が、遠ざかる。
「引っ越しのことは、午後にでも話があると思う――私はそのまえに、病院に行ってくる。ジュリちゃんの目が覚めたらしいから」
ルナはぴょこんとうさ耳を跳ね上げた。
「……セルゲイひとりでだいじょうぶ?」
「いや、私だけじゃない。グレンも一緒だよ」
目覚めたジュリに、ジャックが亡くなったこと、カレンが降船したことを告げねばならないのは、だいぶ重荷だった。
「それでも、告げなきゃならないからね――ルナちゃんは、どうかジュリちゃんの荷物の整理を頼む。ひとりでぜんぶやらなくていいからね。ただ、その、下着とか、私たちはなるべく触らないようにしたいから、そのあたりをまとめておいてくれれば。荷物は、私とグレンの部屋に運んで」
そういってセルゲイは、ルナの手に合鍵を置いた。
クラウドとエーリヒは、K29区に移動した。クラウドの持つカードで、シャインを利用して。
クラウドが案内した先は、K29区の科学センターの一室にある、クラウドの研究室だ。
エーリヒは、クラウドの研究室にはたいして興味を示さなかったが、シャイン・システムのカードについては、ひとこと言った。
「そのカード、私ももらえないかなあ」
「君が、俺たちの任務に協力してくれるなら、貸してくれるところはあるかもね」
「任務?」
エーリヒの目が興味深く光ったが、クラウドは、「その話はあと」と言った。エーリヒがわずかに――ほんとうにごく、わずか――不満げな顔をしたのを、クラウドは見逃さなかった。エーリヒの顔色を変えさせてやる機会などそうそうない。クラウドは胸の中だけでガッツポーズを決めた。
クラウドが研究室に入ると、自動的にさまざまなシステムが起動する。エーリヒは、ざっと眺め渡して言った。
「情報分析科の部屋に似てるな――ここは、君の遊び場かね」
「そう思ってくれていいよ」
クラウドはエーリヒにソファをすすめ、自分は回転いすに座って、メイン・コンピュータにディスクを読み込ませた。
数秒も経たずに、スクリーンが浮き上がる。
ディスクの中身が、再生された。
「――これは」
クラウドが目を見張ったが、エーリヒには予想通りの内容だったらしい。彼は言った。
「エンジニアは、“子どもが書いた童話のようなもの”だと言っていたが――なるほど」
「ああ――たしかに童話だ。でも、これは――」
――むかし、むかし、マ・アース・ジャ・ハーナは楽園の島と呼ばれていました。――
最初に再生されたのは、「マ・アース・ジャ・ハーナの神話」にある、船大工の兄弟の話だった。
一話目が終わり、二話目からは、「ウサギ」が主人公の童話になった。読み進めていくうちに、クラウドは確信した。
クラウドには、覚えがあった。この「童話」を、クラウドはすでに読んだことがある。
(――これは、ルナちゃんの“夢”だ)
ルナは、セルゲイから鍵を預かったあと、さっそくジュリとカレンの部屋へ行った。
ちこたんも引き連れて。
警察はいなかったが、部屋のまえには立ち入り禁止のロープがあったりして、ルナは一瞬、立ち止まってしまった。だが、今日中に撤収しなければならないというなら、入ってもいいのだろう。
ジャックの死体があった場所は、しっかりと隠されていたが、ルナはなるべくそちらを見ないようにして、慌ただしく室内に入った。
カレンと共同の日用品や雑貨の数々は、すでにセルゲイが片付けておいたのか、部屋はチェックアウト時のホテルのようにすっきりしていた。
おとついまで、ここでカレンたちが生活していた気配は、微塵も残っていない。
ルナはまた、急にさみしさが込み上げてきたが――そういえば、泣くつもりが、エーリヒの来訪のためにうやむやになってしまった――ちいさな頭をぷるぷると振って、ジュリの部屋のドアを開けた。
「わあ……」
『わあ……』
ルナはぽっかりと口をあけた。ちこたんに口はなかったが、きっとちこたんもだ。
ベッドのうえのシーツはぐちゃぐちゃ、下着も靴もかまわず、脱ぎ散らかされている。転がっているカップラーメンのカップ、目にも見える大きなホコリ。部屋の中は惨憺たるありさまだった。
セルゲイもこの部屋を見て、「うわあ……」と思ったのだろう。真っ赤なブラやヒモだけのショーツが、ほこりまみれになってゆかに転がっている。
『……これは、大変そうですね、ルナさん』
「そうかも」
ルナは、ふうとためいきをついたあと、腕まくりをして、「ウサギパワー発動!」と意味不明な気合いをかけて、ゴミ部屋に挑んだ。
ベッドやゆかに放り投げられている衣類をかきあつめて、セルゲイが用意してくれたダンボールに入れた。一回、ぜんぶ洗濯してしまおうと思ったのだ。
クローゼットの中はまさにゴミ箱で、ルナは異臭に鼻をつまんだ。
「これはたいへんだ!」
『ルナさん! マスクと手袋を!!』
「はい!」
エプロンのポケットに入れておいたマスクと手袋を着け、完全防備になる。
クローゼットの中のものを一切合切外へ出すと、三分の二がゴミだった。買ったはいいが、紙袋から出してさえいない服や靴、バッグも結構あった。汚れすぎてもうどうしようもないもの以外はダンボールへ。ダメなものはゴミ袋へ詰めた。
ジュリが持っている唯一のトランクを、クローゼットから引っ張り出し――これは存外大きかった――ので、無事な衣服を詰めはじめる。
トランクがいっぱいになると、ちこたんは、洗濯ものをつめこんだダンボールを抱えて、階下の部屋へ飛んで行った。
ジュリの服は、ひどい汚れのもの以外はぜんぶ洗濯した。
靴を磨いてバッグを拭き、一度も開けたことがない服や雑貨類も整理して、ダンボールにつめたら、五箱にもなった。それらをリビングに避けて、シーツを洗い、いつのものかわからない、開けっ放しの袋菓子やカビの生えたケーキやらが、クローゼットから出てきたのを処分し、埃だらけの部屋に掃除機をかけて、拭き掃除までしたら、すっかり夕方になっていた。
『キックにも手伝わせるべきでした……』
そういって、ちこたんの充電は切れた。
「ちこたぁん!!」
頼もしい相棒の充電切れに、ルナは悲鳴を上げた。
量販型ステラ・ボールの唯一の欠点――それは、バッテリーの容量が少ないことだ。新品なら三時間の充電で一週間は動けるのだが、ちこたんは古い型なので、まめに充電しないと持たない。
ルナが設定したカレンのpi=poシャープナーは、あまりに便利すぎて、エレナが買い取って、持って行ってしまった。このアパートにあるpi=poは、ちこたんとクラウドのキックだけで、キックはあまり、家事の役には立たない。
まだ、このたくさんのゴミを集積場に持って行かなくてはならないのに。
「ルナ」
グレンが顔を出した。彼は車いすではなかった。ケガをした足のほうに、機械式の固定装置がつけられている。
「グレン、車いすやめたの」
「ああ――すげえな。あのゴミ部屋、掃除したのか」
グレンはすっかり綺麗になったジュリの部屋を覗き込み、あきれたような、感心したような口調で言った。
「ちこも頑張ったのか」
『ちこたんは、充電が必要です……』
最後の力を振り絞って、ちこたんは、よろよろと、充電器に帰っていった。
ルナはプンスカして言った。
「ジュリさんにはこれから、お掃除のしかたを教えてあげなきゃいけないかも」
「そうだな。――ああ、ジュリが帰ってきたぞ」
ルナのウサ耳がぴこたんと揺れた。
「だいじょうぶだった?」
「だいじょうぶなわけはねえな」
グレンは、つかれきった顔をしていた。
「今、俺とセルゲイの部屋にいる――マックスもな。病院からずっと泣きっぱなしだ。カレンのところに行くって泣きわめいてるよ。ガキと一緒だ」
「……」
「セルゲイもマックスも、あれに付き合ってやってるんだからすげえよ――俺には無理だ。――ああ、そのゴミ、俺が出してきてやる」
グレンは、ルナが持っていた大きなゴミ袋をふたつ持ち上げた。同じものが、まだあと三つある。
「いいよ。グレン、足をケガしてるのに。ちこたんが充電完了したら、持って行ってくれるから」
「平気だ」
補助装置を付けたグレンは、健常者と同じように歩いていた。両手にゴミ袋を持つと、部屋を出ていく。ルナもひとつ引きずりながら、グレンのあとを追った。




