30話 傭兵のライオン 1
宴会は盛大だった。
雪も降り始めるころだというのに、肌寒いはずの河原は、ストーブと熱狂と酒のおかげで、まったく寒くはなかった。
ルナは料亭まさなの寿司弁当とシオミ酒造のお酒をいただき、「おいしい!」とウサ耳を立て、ステーキや焼き鳥や焼きホタテをもふもふ食べながら、ナキジンがハゲ頭を磨きながら踊るのを見ていた。
みんなといっしょにはやし立てながら、気分がずいぶんほぐれてきたのをルナは感じていた。
夢とはいえど、セルゲイの過去も、グレンの過去も、相当に重いものだったのはたしかで、今夜見るはずのアズラエルの夢に対しても、気が重かった――見なくて済むなら、それに越したことはないのだが。
(いったい、なんの意味があるんだろう、あの夢には?)
楽しい時間に、ふと訪れる疑問。ルナの頭の中だけでくりかえされる問答に、答える声など、あろうはずはなく。
唯一の返事の主であるアンジェリカは、結局この日は来なかった。
宴会は、昼ころからずっとつづいて、午後六時にはお開きになった。
「ルナちゃん! あした! あしたK02区やよ! 忘れんといてね!」
すっかりいい気分のヨシノが、隣のダンジに引きずられていくのに手を振りながら、ルナは「はい! またあした!」と答えた。
大路のみんなとは、すっかり仲良くなってしまったルナだった。
三羽烏とナキジンと、カンタロウに宿まで送られたルナは、酔い覚ましのコーヒーついでと、椿の宿の食堂でふたたび引き留められ、最終的に、「帰りたくない」「ルナちゃんとお話ししたい」「ついでにいっしょに泊まりたい」と駄々をこねるカラス三羽を年寄りが引きずって帰った――カンタロウが。
やせているのに、ずいぶんな力持ちなじいさんだ。
大浴場をゆっくり満喫して、十時前には床に就いたルナは、楽しかった宴会を思い浮かべながら、大満足の眠りについたのだった。
楽しすぎて、かなりはしゃいだ自覚はあったのだが――意外と疲れていたルナは、あっというまに眠りに落ちた。
そして。
ルナは、最後の扉の前に立っていた。
「傭兵のライオン」――アズラエルの過去を見せるドアのまえだ。
アズラエルの過去を見るのに、グレン、セルゲイ以上の困惑を感じながらも、ルナがドアノブに手をかけると、かち、かち、かち――時計が三回鳴った。
「たああいへんだああ!!」
大きなガラガラ声に、ぴょーん! とウサギらしく、飛び上がった。
ルナは、アパートとおぼしき建物の廊下に立っていた。すごく古い建物だが、廊下の窓は大きく明るく、古いのにボロ臭いイメージはない。程度の落ち着いた赤い色彩の、壁や絨毯。どちらかというと、アンティークともいえそうな、オシャレな建物だった。
「生まれるって。生まれたって。女の子だって!」
ルナのまえで携帯電話をもってあわてているのは、大男だった。
――すごく大きい。縦にも横にも。
アズラエルどころではない。二メートル以上あるのだ。キスケたちと同じくらい。
プロレスラーみたいな体格で、高い廊下の天井に頭がつきそうだった。おそらくルナとは人種が近い――アズラエルと同じコワモテなのに、どこか憎めないというか、愛嬌のある顔というか、まったく怖くないのが不思議だった。
大男は、いきなり、にへら、とコワモテ顔を崩した。
……すごい。クマが笑ったみたい。
「アズう、女の子だぞ♪ 妹だぞー? よかったなー」
そう言って、ルナの下にある物体を大きな掌でぐりぐりと撫でた。
――なんだかぬいぐるみのようだ。
(ん? アズラエル?)
ルナが下を向くと、大きなクマさんのジーンズをぎゅっと握った黒髪の子どもが、頭をぐりぐりされているのだった。
「よおし、よし、俺、病院行ってくっからな! アズはいい子だな、ひとりで留守番できるな?」
アズラエルは小さくうなずいた。むっつり、拗ねた顔で。
言うが早いか、大男は古い床が踏み抜けそうな感じで、どすどす走って行った。思わずルナはその後ろ姿を見て笑った。
走り方もユニークというか、アニメキャラのクマさんみたいだ。
アズラエルは、座った目で父親が去ったほうを見つめていた。
「……なんだよ、女かよ……」
ぼそりと、つぶやく。
ルナはしゃがんで、アズラエルと目線を合わせた。やはりアズラエルにはルナが見えていないようで――目線は合わなかったが――驚いた。
ずいぶんと、美形なお子様で。
グレンは天使のような可愛さだったが、こっちは恐ろしく美形だった。子どもに美形と言うのもおかしい気がしたが、その表現できっと間違いない。
エキゾチックな顔立ちで、目鼻立ちがはっきりとしていて、眉がきりっとして、ゆるいウエーブのかかった肩までの髪が、長いまつげが、女の子みたいに綺麗だった。
(アズラエルって、こんなに綺麗だったんだ)
コワモテすぎて分からなかった。
しかし、顔立ちに比べて、服がずいぶんとみすぼらしかった。
グレンは、半ズボンの、小奇麗な子ども用の正装だった。あのときは葬儀ということもあったが、グレンは、成長過程も、通じていい衣服を着ていた。名門の家の子だったし、シャツもシンプルだけれどいい生地だった。そのグレンを見ていたせいか、どうもアズラエルの服が気になった。
ちゃんと洗ってあって、不潔というわけではないが、どうもアズラエルには大きいTシャツだ。しかもずいぶんくたびれている。着倒して、今にも破れそう。
これはだれかのお下がりか。スニーカーも一回りは大きそうだし、ぼろぼろで破けている。
アズラエルの家は貧しいのだろうか。たしかにこのアパートは、裕福なものが暮らす場所にはみえない。
でも、顔立ちはほんとうに綺麗だった。
グレンのときも思ったが、この綺麗なのが、なにがどうなって、あんな猛獣に……。
ルナがマジマジ観察していると、あきらかにふて腐れたアズラエルは、赤いドアを開けて部屋に入った。ルナもあわてて、あとを追う。
ルナの姿は、当然アズラエルに見えてはいないが、ルナは戸棚の影にこっそりかくれて、アズラエルの様子をうかがった。
「なんでだよ!!」
アズラエルが突然怒鳴った。狭く、かびくさい絨毯の上に大の字に寝転がって。
「妹なんてヤダ!! 俺、弟がよかったのに」
アズラエルがそう言って、泣きながらダダをこねた。細い褐色の足をバタバタさせる。
「また妹なんてヤダー……!!」
また? ふたり目なんだろうか。アズラエルは、妹がふたりいることになるのか。
「また母ちゃんに怒られる……アズはお兄ちゃんだろって……」
アズラエルは、五歳くらいだろうか。まだ母親に甘えたい時期だろうが、年の近い妹に母親を取られて、寂しい思いをしているのだ。
(むきゅー! アズにも、こんな時代があったなんて)
ルナはもふもふと笑った。できることなら写真にでも納めて、アズラエルのめのまえに突き出してやりたいくらいだ。
「なあ、おまえだっていやだろ? だって、妹だぜ? 女だぜ?」
だれかに話しかけていると思ったら、アズラエルはぼろぼろのクマのぬいぐるみを手にしていた。
(くまさーん!!)
ルナはもう我慢できなかった。ぶっほと吹いた。
(くまさーん! アズがくまさん抱っこしてるうううう)
さっきのアダムの姿に似ていなくもない、もっさりしたクマのぬいぐるみは、だまってアズラエルの話を聞いてくれるいい友人のようだった。
ルナの大笑いもピークに達したあたりで、ベルが鳴った。
満面の笑みで玄関のドアを振りかえると、郵便配達人だ。アズラエルは五歳の子らしからぬ手際の良さで封筒を受け取り、さっさとサインをした。
「君、ひとりかね」
配達人は、メガネを押し上げながらアズラエルを見た。
「まさか! うちは傭兵だって知ってんだろ」
おとなは、肩をすくめてもどっていった。アズラエルはいったん外に顔を出し、郵便配達人の背をにらんで、彼が廊下の向こうへもどっていくのを見届けた。
廊下には、四人の女が固まって、こちらを見ながらなにか話している。
ルナにもわかる――あまり、いい感じはしない。
「さっきアダムさんが走ってったみたいだけど」
アダムさん? ――さっきの、アズラエルのお父さんのことだろうか。
「ああ、赤ちゃんが生まれたんじゃないかな。そろそろだって言ってたから」
三人の中年女は、買い物帰りの若い女に尋ねていたのだった。
「ああそう。……サキちゃん、あんたはいい子だから忠告しておくけど、あんまりあそこのうちと関わっちゃダメだよ」
ルナは息をのんだ。
「あそこんちはかくしてるけど、傭兵のうちだからね。あんたみたいな若い女の子で、独り暮らしは危ないよ。なにされるか分からないからね。よくあんたに息子預けて行くじゃないか。利用されてるんだよ」
「うるせえババア! あっち行けっ!!」
ルナの前に小さな体が飛び出してきていた。
すごい剣幕だ。アズラエルは、小さな身体に見合わない勢いで、三人を追い払った。
「アズ、アズ君、気にすんなよ!」
若い女性はアズラエルの後ろ姿にそう叫んだが、アズラエルは怒鳴るだけ怒鳴って返事を返さず、部屋にかけもどった。乱暴にカギをかけ、狭いリビングでうずくまり、小さな肩を震わせて泣いていた。
大声で泣けばいいのに、ぎゅっと薄いTシャツをつかんで、――耐え忍ぶように泣いている。
(アズ)
ルナはアズラエルを抱きしめようとした。途端に景色が歪み、アズラエルが腕の中から消え失せる。
(――あれ)
ルナはまた、さっきの廊下に立っていた。アズラエルはいない。
泣き声が聞こえた。アズラエルの声かと思ってあたりを見回すと、廊下の向こうに、男の子と、泣いている女の子の組み合わせが見つかった。
後ろ姿だが、男の子はアズラエルだ。――女の子は分からない。
女の子は小さかったが、アズラエルは、もうルナくらい大きい。
まさか、もう時間を越えたのか。
ルナは、二人に見えていないのをいいことに、そろそろと近づいてみた。
「……?」
女の子が泣いている。
綺麗な金髪の女の子で、水玉の可愛いリボンをしている。服装も、フリルがいっぱいの、袖やすそがふくらんだワンピースだ。顔が見えなくても、女の子らしい、可愛い子だとわかる。アズラエルより頭ひとつ以上も小さい。
アズラエルが、大きいのだ。
アズラエルは、あまりさっきと服装が変わっていない。擦り切れたTシャツに、穴のあいたジーンズ、ボロボロのスニーカー。髪は肩まであって、長い。
ルナは顔をのぞき込んで、口をO型にした。
すごい。女の子みたいに綺麗な顔だ。まだ子どもなのに、ずいぶん筋肉質なこの腕がなかったら、ちょっと顔立ちのきつい女の子と言ってもいいくらいだ。
そのアズラエルの、ものすんごいしかめっ面。子どもなのに迫力があって怖い気がする。
こんな顔に睨まれたら泣くよね。
ルナは女の子に同情した。
しかし、ふと気づいた。
アズラエルはこのしかめっ面が通常の表情だった気がする……?
「やめろよっ! アズっ!!」
廊下の曲がり角のほうから、男の子がふたり、駆けてきた。
そのうちの片方は、ルナでも分かった。クラウドだ。でも、片方は分からない。ずいぶんと賢そうな顔をしていた。
服装も、シャツにサスペンダーつき半ズボンの小奇麗な格好だったし、裕福なうちの子のようだった。茶色い髪で、顔立ちも凛としている。
ふたりともアズラエルより小さいが、特に茶色い髪の子は気が強そうで、アズラエルを睨みかえしていた。
「オトゥール!」
女の子、ミランダは、その茶色い髪の子に抱きついた。表情がないながら、アズラエルがイラッとしたのがルナにも分かった。
「なにもしてねえよ。……俺は、可愛いリボンつけてんなって言っただけじゃねえか」
声も低いし、脅しているようにしか聞こえない。これは気の毒だ――アズラエルが。
ルナはちょっぴり思った。
「髪を引っ張ったりとかした?」
「してない。それに――」
「このあいだのことは、アズは髪を引っ張ったんじゃなくて、ぼさぼさになっていたから結んであげようとしただけ」
クラウドが冷静に言う。ミランダは首を振った。ぜったいちがうという主張だ。
「ミランダ。アイス買ってあげる。一緒に行こう」
茶色い髪の少年は、アズラエルをひと睨みし、その少女を連れて去って行った。
オトゥールと呼ばれた少年だけが、なぜかパタパタと走ってもどってきた。
手には、赤褐色の包装紙で包んだリボン付きの細長い箱。
それをアズラエルに押しつけて、オトゥールは、「十二歳の誕生日おめでとう、アズラエル」と、怒ったように言った。
「おまえの誕生日だから、ミランダをなだめて連れてきたんだ。なのにいじめるなんて。せっかくの誕生日を台無しにしたのはおまえだからな。もう知らない」
そう言って、オトゥールはまた肩を怒らせてもどって行った。
アズラエル、十二歳だったのか。
しかも誕生日。
「なにぼうっと突っ立ってんだクラウド。おまえもオトゥールと行けよ」
アズラエルが、手の中の箱を弄びながら、おもしろくなさそうに言った。
「ロナウド邸で、特大ケーキが食えるはずだぞ」
「……三人になるんじゃ、俺、お邪魔虫……」
クラウドも面白くなさそうに言った。
「……だろうな」
アズラエルは嘆息すると、
「おまえもうちでメシ食ってくか? どうせ、父さんと母さん、今日も病院なんだろ?」
「うん……」
クラウドがぼんやりしたまま言った。
「んじゃ行くか」
バタンと大きな音がしたかと思うと、ドアの向こうから、女の子がふたり飛び出してきた。茶色い髪と、アズラエルと同じ焦げ茶の髪の、女の子ふたり。
アズラエルの妹たちだ。ふたりとも、髪を左右で結んでいる。
「兄ちゃん遅い!」
「今日、ミートソースがいい!!」
ふたりがアズラエルの足もとにじゃれつく。アズラエルは困惑した顔を見せた。
「レトルト切らしてんだよ。パンがのこってるからサンドイッチでいいだろ」
「えー。ヤダー」
「兄ちゃん、サンドイッチしか作んないもん!」
「しょうがねえだろ。それしか作れねえんだから。黙って食え!」
ルナもけっこう怖いと思う威嚇――たぶん今度は本気――だったが、妹ふたりはビクともしなかった。
「やーだもーん! ミートソースがいい」
「ミートソース! ミートソース!!」
「親父かおふくろがいねえと買いに行けねえの!」
アズラエルはさらに声を荒げたが、妹ふたりのわがままは止まらない。
「知らねえ。食わねえならそれでいいよ、食うな」
そっけなく部屋にもどろうとすると、妹たちは泣きながら兄の背を追った。
アズラエルは周囲をながめ、
「でけえ声出すんじゃねえよ。また傭兵の家はうるさいとかいろいろ、言われるぞ」
とたんに妹ふたりはだまった。
クラウドが鼻を鳴らして、「俺がもうすこしでかくなったら、全員追い出してやるよ」と笑った。
(アズは、面倒見のいいお兄ちゃんだなあ)
――ずいぶん大人びている、ような気がルナにはした。どうも、表情が暗いのだ。ルーイと騒ぎ立てていたグレンも、大人びた顔を見せる十歳だったが、なんだかそれ以上だ。お兄ちゃんだから、というのでもなさそうだ。
さっきの五歳くらいのときといい、グレンのときに聞いた出来事といい、L18では傭兵がけっこうな差別を受けていることは、ルナにも分かりかけていた。
ルナはこのアズラエルの一瞬一瞬の時間にしか関わっていないが、ルナの知らないところでアズラエルは、もっとひどい差別を受けているかもしれなかった。
「誕生日おめでとう。アズ」
クラウドが言った。アズラエルはふっと相好を崩すと、「おう」と言った。
ふと、ルナは時計を見た。午後三時を指そうとしている。ずいぶん遅い昼食だ。




