245話 いってらっしゃい、カレン 1
食卓が、静まり返った。ピエトも、さっそくシチューを口に運ぼうとしたところで、固まった。
「明後日……!?」
最初に驚きを口にしたのはミシェルで、ピエトも、「そんなに早く行っちゃうのかよ!」と叫んだ。
アズラエルたちはすでに聞いているのだろう。ちいさな嘆息をこぼしただけだった。ルナが驚いていないのが、カレンには意外だった。軽食を配ってきた際に、ヤンあたりから聞いたのかもしれない。
「ごめん、急な話だけど、みんなにも危険が及ぶかもしれないから、あたしは明日の朝、ララの屋敷に移動する。で、そのまま、明後日には宇宙船を……」
カレンはそれ以上、言えなかった。ルナが、ぼろぼろ涙を流していたからだ。
「――ルナ」
「ふぎ、ふぎ……、ふぎ、」
おかしな声をあげながら、しゃくりあげている。
ルナの涙は、みるみる連鎖した。
「ほ、ほんとに急すぎるよ……」
ミシェルまで目を真っ赤にし、ピエトが、「俺は泣かねえ!」と叫びながら号泣しはじめた。
「やれやれ……湿っぽいのは、明日の朝まで待てよ」
アズラエルが呆れ声で、ルナとピエトの頭をなでた。
「シチューが冷めるだろ」
「たしかにね。熱いうちに食べよう。みんな――ほら」
驚くべきことはクラウドまで、真っ赤になった鼻の頭をごまかしながら、シチューを口に運んでいたことだ。
おかげで、みんな(アズラエルとセルゲイ以外)、泣きながらシチューを啜りだすという珍妙な光景となったため、カレンは吹き出してしまった。
「なに笑ってるのよう」
ミシェルの抗議が入ったが、カレンは笑い続けた。おかげで、せっかく用意していた別れのための演説も、せずに終わってしまった。
しかし、カレンが降りることはみんな悲しんでいるのに、セルゲイのことはだれも悲しんでいないのだった。すくなくとも、皆の意識の中では、セルゲイも降りるという考えはないらしい。
たしかに、急すぎたとカレンは思う。
今日の、アミザの狙撃と、ジャックの悪意ある訪問がなかったなら、カレンは一ヶ月後に降りるつもりだった。宇宙船で出会った友人たちと別れの盃を交わす時間は、本来なら目いっぱいあったはずなのだ。
セルゲイを説得する時間も――いっしょに暮らしていた皆に、きちんと別れを告げる時間も。
もう、なくなってしまった。
カレンの心配をよそに、セルゲイは、「自分も降りる」ということは、食卓でいっさい口にしなかった。それを言わないセルゲイの心中は、カレンには分からない。
セルゲイはついてくるつもりなのか――ここに残るつもりなのか。
セルゲイのことだから、曖昧なままにしておいて、ついてくるのかもしれない。
カレンも頑固で、セルゲイも頑固だった。話し合いで解決しないとなれば、セルゲイはそうするに違いなかった。
(伊達に長年、つきあってきたわけじゃない)
セルゲイのすることは、ある程度はわかるつもりだった。
半分泣き笑いの晩餐が終了したあと、みんなで後片付けをした。たわいのないことを話し、ふざけあい、いつもの会話をした。
みんなそろって、入浴のためにルナたちの部屋を後にし、アズラエルとピエトも浴室に姿を消すと、リビングは、ルナとカレンだけになった。
ふたりはソファに座った。しばらくはなにを言うでもなかったが、やがてカレンが、ひとつ、大きなため息をついた。
「ルナの味噌汁、うまかったなあ……」
今日の食事は、半分泣き笑いだったが、カレンは味わって食べた。ルナの味噌汁もごはんも、これかぎりにする気はないけれども、きっとまた、口にできるとしたら、何年先のことになるだろう。
「鍋ひとつすっからかんにしたから、今日はもうなにも入んないよ……」
カレンは、驚くほどふくらんだおなかをさすって言った。ルナがそれを見て笑った。
「食いおさめだ!」とか何とか言って、カレンは大きな味噌汁鍋を、ほんとうに空にしたのである。
「今日は、怖い思いをさせたね」
カレンが言うと、ルナは首をぶんぶんと振った。
「ぜんぜんこわくなかった!」
「ほんとかよ」
「……というのはウソなんだけども」
ルナは正直に言った。
「でもね、この宇宙船に乗ってから、ほら――いっぱいいろいろあったから。レボラックにくらべたら、ぜんぜんこわくなかったよ」
たしかに、呪いを宿したレボラックは怖かった。カレンの一生の中で、あれほど怖いものを見る機会は、もう二度とないだろう。そうであることを祈る。
「あたしもさすがに、あのレボラックは、怖かったなあ……」
「それにあたしは、メルーヴァと対決する日がくるかもしれないし、だから、怖いけど――うん、やっぱり怖いけど、つよくなるって決めたの」
「……頼もしいな」
ルナも変わっていく。ミシェルも。
やがてふたりは、かつてのことをぽつりぽつりと話した。
懐かしい話を。
カレンは、セルゲイに連れられてきたルナと居酒屋で飲んで、意気投合したこと。つくってもらったごはんが、本当に美味しかったこと。
バーベキューのこと、セシルたちのこと、みんなでいっしょに暮らし始めてから起こった、たくさんの小さな出来事を――。
思い出話が終わると、また沈黙が訪れた。
「――ねえ、ルナ。あんた、夢ってある」
いきなり聞かれて、ルナは目をぱちくりとさせた。
「ゆめ」
今までは、そんなたいそうなものは持っていなかった。でも――。
この宇宙船に乗ったことで、ルナに、「なりたいもの」ができたのは、確かだった。
「笑わない?」
ルナは聞いたが、カレンは「笑わない。ぜったい」と真剣な顔で念押しした。
カレンが真面目な顔で言ったので、ルナはすこし頬を赤らめながら――告白した。
「うんとね――K19区の役員さん」
「え?」
「ま、まだね、だれにもゆってないの。アズにも、ミシェルにも」
ルナは言った。メルーヴァとの対決で生き残って、かならず地球に行って、地球行き宇宙船の役員になりたいと思っていること――そして、その中でも、難しい試験があるらしいが、K19区の役員になりたいということ。
K19区の役員は、ピエトのように身寄りのない子を、養子にすることができるということ。
「マジかよ」
カレンは、目を真ん丸にしていた。
「じゃあ――あたしの夢も、かないそうだ」
「え?」
今度は、ルナが首をかしげる番だった。
カレンは、嬉しそうな顔をすると、大げさに手を広げた。
「あたしの夢はね、マッケランの当主になって、地球行き宇宙船の株主になって、いつでも宇宙船に乗れるようになるの」
「マッケランの……当主」
「うん、あたしね、不思議な夢を見たんだ」
カレンは、夢の内容は言わなかったが、今回の事件があったことで、決意したのだと言った。
自分ではなく、アミザを当主にしてもいいから――自分は一生支える側でいいから、義母と義妹のそばにいたいと思っていた。だが、その夢を見て、願いが変わった。今まで守ってきてくれたミラやアミザを、やはり自分が当主になって、守らなければならないのだと、気づいたそうなのだ。
「それでね、ここからが大事。あたしは、地球行き宇宙船の株主になって、いつでも宇宙船に乗れるようになるの」
「うん」
「それでね――そこに、ルナがいてくれたらいいなって、思ってたんだ」
「ふえ?」
ルナは口をぽっかりとO型にあけた。「あたし?」
「その顔もしばらく見納めだな」
カレンが笑ったので、ルナはふくれっ面をした。だが、カレンの真剣な顔に、すぐにほっぺたはしぼんだ。
「あたしの夢なの――宇宙船に帰れば、いつでもルナがいて、ルナが迎えてくれて、ルナのあったかいごはんが食べられる――あたしの、夢」
「……」
「すごく、幸せだった――あたし。この宇宙船に乗って」
L20にもどり、マッケランの当主となるのは、ミラやアミザを守るためでもある。そして、L系惑星群全土を、戦渦に巻き込もうとしているメルーヴァを止めるためでもあり――それはすなわち、宇宙船で暮らしている、ルナたちの安全を守るためでもある。
気づけば、やりたいことは、数えきれないくらいあった。
軍事惑星群を、変えていくこと――グレンの、そして、亡き母の夢でもあった、軍人と傭兵の差別を、なくすこと。
「なんだか、立派なことを言ってるようだけどさ、ぜんぜんそうじゃないんだ」
カレンは苦笑いした。
「居場所を失われないために、立ち向かうんだ」
大義ばかりでは、歩き出せなかった。迷いが多かった。揺れ続けていた。
「意外と現金だよ、あたしはね」
ルナの味噌汁で、メルーヴァをやっつけに行けるからさ。
「あ、いっとくけど、あたしがこんなことを言ったからって、ルナの重荷にしたいわけじゃないんだよ? ルナが役員になってても、なってなくても、L系惑星群のどっかにいたら、味噌汁食いに、たまに顔を出すから」
カレンが笑って言うのに、ルナも笑い、涙をぬぐった。
「あたしはきっと、宇宙船の役員になってるよ! それで、カレンが来るたびに、じゃがいもと玉ねぎのおみそしるをつくって、おさかなを焼くよ!」
「そうしてよ、ぜひ。あたしのためにも」
ふたりはそう言って笑いあい――やがてカレンは、こつん、とルナの肩に頭を預けた。
「ねえ、ルナ。あたしを見送るときに、バイバイとか、さよならって、言わないで」
「――え?」
「あたし、“行ってきます”っていうから、いつもみたいに送り出してほしいの。“いってらっしゃい”って」
「……!」
ルナは、ついに泣いた。また、ふぎふぎと謎の言葉を発しながら、泣いた。カレンもルナを抱きしめ、目を赤くした。
――しばらくの、短いようで長い、別れのために。
カレンは、ひとしきりルナを抱きしめたあと、「今夜のうちに行かなきゃ、二度とジュリとグレンには会えないかも」と言って、すぐに病院へでかけて行った。
カレンとの会話は、それが最後だった。次の会話は、もっともっと、何年もあとになった。
ミシェルやクラウドが、手早く入浴を終えて、カレンの好きな酒を持ってルナたちの部屋に来たときは、もうカレンはいなかった。無論、アズラエルとピエトも、カレンと「さよなら」を交わすこともできなかった。
カレンは、帰ってこなかったからだ。
グレンとジュリの見舞いに病院へ行き、そのままララの屋敷へ移動し、アパートには帰ってこなかった。
次の日の朝食のあとが、本当の別れだと聞いていたミシェルとピエトは、もれなくもう一度泣いた。
カレンの好物ばかりをならべた朝食をまえに、ルナも涙をこぼした。
セルゲイも、カレンに同行しているのか、次の日の朝食はいなかった――カレンが宇宙船を降りる当日まで、彼は姿を見せなかった。




