240話 孤高のキリン Ⅳ 2
――カレンは、すべてを読み終えた。
目頭が熱い。目が疲れているようで、それとは違う気もする。
でも、読んでいる最中は、まぶたが熱くなっても、ひとしずくも零れてきはしなかった。
カレンは、椅子の背もたれに身を預けた。
(――かあさん)
やっと、カレンの頬を涙が伝った。だがそれは、母親の悲劇的人生を追ったことによる、かなしみの涙ではない。
むしろ、晴れやかな気持ちだった。
こんな気持ちになったことは、今まで、なかった。
カレンは、ミラの面影を思った。いつも泣いていた義母さん。カレンの母親であり、ミラの姉であるアランを見捨てたと、いつも嘆いていた、義母さん。
義母さんは、知っていたのか。
この本に書かれていた話は、ミラが話してくれたアランの像とは違った。アランを疎んだ、身内の者が話した内容とも違った。
どうしてこんなことを、ミラも知らなかったことを、アミザが知っていたのかカレンにもわからない。
ただひとつだけ、カレンにも分かったことがある。
(――あたしのかあさんは、“英雄”だった)
「いいね。今夜はそっとしておこう。明日の朝も、カレンから何か言ってくるまでは、この本のことは口にしない」
クラウドの提案には、状況を把握できていないミシェル以外、皆が承知した。
「カレンが言っても言わなくても、ぜったいになにか起きる。しばらくニュースに張り付かなきゃならねえぞ」
グレンが嘆息とともにつぶやき、
「セルゲイがいっしょに来なくてよかったな。あいつ、カレンのことになると神経質なトコがあるからな」
「……セルゲイには、見せるのか、コレ」
アズラエルが本を指した。
「黙ってるわけには、いかないよね」
みんなが黙っていても、いつか知れることだ。それも近いうちに。
結局本は、みんなそろって購入した。アズラエルはルナが買ったので買わなかったが、グレンまで、自分で買ったその本を、車内で読み始めた。
クラウドは、ルナを脅した罰として、ルナとミシェルにアイスをおごることを余儀なくされた。クラウドに罰則を科したのはミシェルだったが、一冊の本のせいで、急に不穏な空気を出しはじめた男たちの空気に飲み込まれまいとする対策だったかもしれない。
「その本……やばいの」
「やばいです」
ミシェルは、クラウドが車内で読みだした本を指さして言い、ルナはそれしか答えられなかった。
明日、カレンは起きてくるだろうか。朝食に顔を出してくれるだろうか。
ZOOカードが動かない今、あとはたまに見る夢だけがルナの最後の手段だったが、その夢も、ルナが見たいときに見られるとはかぎらない。
ルナは万策尽きて嘆息し、車窓から見えるネオンを眺めた。
自分は、どうやら泣きつかれてそのまま眠ったらしい。
カレンがそう思ったのは、はっと目覚めたらパソコンのまえに突っ伏していたからだった。
いつのまにやら窓の外が真っ暗で、カレンはカーテンを閉めようと立ったときに、その違和感に気付いた。
自分の手が、おかしなことに蹄だ。おまけに、フローリングの床が遠く感じる――と、窓を見たところで、自分の姿に仰天した。
窓ガラスに映っているのは、キリンだ。
どうにも、首が長いために足元が遠く感じたのか。シャツを着て、ジーンズをはいたキリンがガラスに映っている。
そこで、カレンは、やっと自分が夢を見ていることに気付いて、笑いたくなった。
せっかく母親の伝記を読んだのだから、母親が夢に出てきてもいいような気がしていたのに、まるでこの夢は、現実の続きだ。カレンは、目をぱちくりさせながら、机にもどって、またびっくりする羽目になった。
パソコンの隣に、十五センチあるかないかといった、ピンクのウサギのぬいぐるみが立っていたからだ。
「座って。キリンさん」
ぬいぐるみがしゃべるなんて。
カレンは思ったが、夢とはこういうものだろう。不可解で、信じられないことが起きるもの。カレンは素直に、パソコンの前に座った。なにはともあれ、このピンクのウサギは可愛い。
(なんか……ルナみたいだな)
カレンがそう思いながらウサギを見つめていると、パソコンの画面がぱっとついた。
「これはだあれ?」
パソコンの画面にあるのは、おかしな幾何学模様と、バラの絵と、アルファベットの羅列だ。
(なんだこれ?)
カレンは首を傾げ、しばらく考えてから、これがタトゥの模様であることに気付いた。
「これ――オルティスのタトゥ?」
カレンは、パソコン画面を指さして答えた。
ラガーの店長は、全身タトゥだらけだが、最近、ヴィアンカの名前と、まだ見ぬ赤ん坊の名前まで彫り入れた。男でも女でも、ヴィヴィアンと名付けるつもりらしい。両肩から肘にかけて、ヴィアンカとヴィヴィアンの名前を彫っている。
「正解!」
ウサギが拍手した。ウサギがちいさなもふもふの手でエンターキーを押すと、次の画面に移った。
「これは、だあれ?」
ドラゴンを模したような、トライバル。
「コイツはカンタンだ。アズラエルだよ」
カレンはまたも正解した。その次は、グレンのタトゥ。どこにでもある幾何学模様。
その次は、太陽の中から、小鳥が顔を出している形。
「コイツはたしか――ロビンだ!」
「正解! すごいね、さすがだわ」
チャンの、真っ赤な龍のタトゥ。バーガスの炎のようなトライバル。レオナの蝶……。
カレンは、次々と画面に現れるタトゥの持ち主を当てていったが、最後の模様で、つまってしまった。
観音開きの窓が開いている。中は真っ黒で、舌を出したガイコツが中央に浮かんでいる。窓の扉には二匹の蛇が巻き付いたデザイン。Welcome to Hell!の文字。
傭兵やチンピラにはめずらしくないデザインだ。カレンはどこかで見たことがあると思ったが、持ち主が思い出せない。
「これはだあれ?」
無邪気に首をかしげるピンクのウサギ。
「だれだったかな……」
カレンは必死で思い出そうとした。
「これは、だあれ?」
ピンクのウサギの問いに答えようとして、カレンは、今度こそ本当に目が覚めた。
朝だった。
半分開いた窓から、健やかな朝風が吹き込み、閉め忘れたカーテンを揺らしていた。
カレンは、パソコン前に突っ伏していた体勢から起き上がった。
(あたしは、なんて答えようとしたのだっけ?)
起きるまえはたしかに名前を思い出して、ウサギに答えを言おうとした。だが、起きた今は、すっかり忘れてしまっている。
カレンは、タトゥの形をしっかり覚えていた。パソコンのそばにあったメモ用紙に、さっと形を描いてみる。
それを持って、カレンは階下へ向かおうとしたが、時計は午前五時を指していた。朝食には、まだ早い。カレンはシャワーを浴びに行こうとそっとドアを開けた。ドア近くの棚に、昨夜ルナが作ってくれた夕食が置いてあった。
(――ルナ)
カレンは部屋に戻って、冷え切った夕食を食べたが、十分に美味しかった。
(あんたのごはんは、冷えててもあったかいね)
昨夜、ルナは夢を見なかった。
書店から帰って、ピエトが寝ているのを確かめてお風呂に入り、アズラエルを待たずに眠りに落ち、起きたら朝だった。
アズラエルは、運転手だったために読めなかった例の本を、昨夜遅くまで読んでいた。
ルナは、いつもどおりの時刻に起きて、朝食をつくった。
なぜだか、胸騒ぎがおさまらない。眠ることはできたが、ソワソワする気持ちが、一向になくならないのだ。相変わらず、ZOOカードは、なんの動きも見せない。
アズラエルとピエトが起きてきて、クラウドとミシェルが「おはよう」と言って部屋に入ってくる。グレンが来て、それから最後に、セルゲイとカレンが入ってきた。ジュリの姿がないということは、彼女は、まだあちこちを遊び歩いているらしい。
カレンは、いつもどおりだった。
ちょっとまぶたが腫れぼったい気がしたが、いつもどおり、彼女は明るい顔でキッチンを覗きに来て、「今日はなんの魚?」と聞き、グリルの塩鮭を見て、嬉しそうな顔をした。
そして、ルナにすっかり洗った食器を差し出した。
「美味しかったよ――すごく、美味しかった。ありがとう」
カレンはルナが聞くまえに、
「あたし、あれを読んでほんとうに、よかった」
と微笑んだ。
あの本が、カレンにどんな影響を与えるか、ルナには分からなかった。だが、カレンの悲壮な「お願い」に負けて、ルナはあれをカレンに見せてしまった。
ルナは、あの原稿を読んでよく分かった。
アランが目指していたこと、アランがなんのために戦ったのか、いろいろなことを。
そのために、保守的なマッケランの人間を敵に回したけれども、アランはだれよりも、「先」を見ていたのだ――。
カレンの母親は、すばらしい人だった。偉大な、ひとだった。
カレンは、誇りに思っていいと、ルナは思った。
あの原稿を読み、カレンもそう感じたのだろう。カレンの表情はあかるい。それは、無理をしたものでないことは、ルナにもわかった。
「今日のお味噌汁は、カレンの好きなじゃがいもと玉ねぎだよ!」
「出し巻きにはゆかりが混ざってた」
ミシェルもこっそり耳打ちした。
「やたっ! ラッキー!」
カレンは、嬉しげな顔でルナとミシェルとハイタッチをし、ルナはいそいそと味噌汁の味見をするために鍋の前に向かい、ミシェルは、鼻歌交じりで焼きあがった魚を盛る皿を食器棚に取りに行った。pi=poのちこたんは、せっせとご飯を盛り付けている。
「今日もいい天気だ! ルナの飯が旨い!」
さっき、昨日の夕食を食べたばかりだが、ルナの朝食を食べ逃すという選択肢は、カレンにはない。
カレンは伸びをし、それから、リビングのソファに座って新聞を読んでいる、クラウドのもとへ行った。
「おはよ、クラウド」
「おはよう、――なにこれ?」
「なにこれって聞きたいのは、あたしなんだけどね。――クラウドは覚えがない? コレ、だれのタトゥだっけ?」
クラウドは渡されたメモを眺めたが、さっぱり記憶になかった。
「一度でも見たら、覚えてるはずだ。俺が覚えてないってことは、俺は見たことはないのかも」
「そっか。――アズラエル、グレン。このタトゥ、見たことない?」
「あ?」
ふたりはメモ用紙を渡され、それから考えこんだ。ふたりは、クラウドのように驚異的な記憶力は持っていないし、このタトゥはめずらしいデザインでもない。ガイコツもヘビも、彫っているやつはたくさんいるし、似たようなタトゥは星の数ほどある。
「見たことあるような――ないような?」
「バグムントも、たしかガイコツつけてなかったか」
「ああ、犬のくせにな」
骨かドッグフードあたりにしときゃいいのに、とわき道にそれそうになったふたりからクラウドはメモを取り上げ、思案に入った。見覚えはないが、気になるようだ。
「カレン、これをどこで?」
「ああ、夢に見たの。なんか、気になってさ」
「夢?」
セルゲイが、いつも見ているニュースを見ようと、テレビをつけたときだった。
「カレン! ――カレン! 来て!」
セルゲイの切羽詰まった声。キッチンに戻ったカレンがリビングの方を見ると、皆がテレビに注視していた。
カレンもルナも、ミシェルも、ちこたんまで、急いでテレビの前に来た。
カレンは目を見開いた。
『緊急ニュースです。今朝、L20の空軍大佐、アミザ・M・マッケラン氏が狙撃されました。重症です。病院に救急搬送されましたが、まだ意識はもどっておりません。L20の空軍本部内での狙撃とみられ、犯人はまだ逮捕されておりません。現場からお伝えします。今朝未明、L20の首相ミラ・G・マッケラン氏のご息女であり、次期マッケラン家当主とうわさされるアミザ空軍大佐が、空軍本部で狙撃されました。一命はとりとめましたが、重症です――現場からお伝えします――』
テレビに、担架で運ばれていくアミザが映っている。
カレンの身体がぐらりと傾いだ。セルゲイがそれを支えたが、カレンはなんとか踏ん張った。
「――アミザ」
事態の急展開は、それだけにとどまらなかった。
緊急速報はたてつづけに流れた。アミザの狙撃事件がテロップになるとともに、たくさんの報道陣と警察に囲まれた要人が映し出された。
「おい――冗談だろ」
今度は、グレンの絶句。
手錠をかけられて連行されていくのは、――ユージィンだ。
『緊急速報です。緊急速報――L18のユージィン・E・ドーソン大佐が逮捕されました。容疑は、ええと――二十八年まえのアラン・G・マッケラン少尉殺害の関与です。えー、また緊急速報が入りました。同事件への関与の疑いで、マッケラン家要人五名が拘束中――現地から映像が入ります。緊急速報です、』
立て続けに、映像が切り替わる。
マッケラン家の屋敷が映され、そこから連行されていくのは、カレンも見知った身内の者だ。L20の要職についているものたち――そして。
「ツヤ……ばあちゃん」
カレンには分かった。――すべてが分かった。
アミザが、バンクスにあの本を書かせた理由。
昨夜「あの本」を見るまでは、周囲のあらぬ噂は噂ではなく、真実として、カレンの胸に刻み込まれていた。
アランは、たくさんの仲間に裏切られ、見捨てられ、心神喪失のまま監獄で自殺した。
カレンの中では、いままで、それが「真実」だった。
だが。
母親は、自殺ではなく、マッケランの要人たちとドーソン一族に殺害されたのだと、本には書いてあった。
あれは、告発本だった。あの本が刊行されたがゆえに、マッケラン家の要人が、五人も逮捕され、ユージィンまで逮捕されている。
逮捕されたマッケラン家の五人は、カレンが当主になることを、常日頃から反対している人間たちだ。
かつて、ドーソンと結託し、アランにすべての責を負わせた張本人たち――アランを毒殺し、カレンにあることないことを吹き込み、トラウマを植え付け――あれからずっと、ドーソンと連結してきた、マッケラン家の獅子身中の虫。
彼らを更迭するために、アミザは自分の命を懸けて、真実を、バンクスに書かせたのだ。
――カレンを、マッケラン家の当主とするために。
『カレン』
アミザのまっすぐな瞳をカレンは思い出す。
『マッケランの当主は、カレンがならなきゃだめだ。なにがあっても』
アミザは熱心にカレンを諭した。「アンタが当主になったほうがいい」とアミザをはげますカレンに、いつでも首を振って。
『カレンがならなきゃダメ。きっとダメ。カレンの“理想”がマッケランを変えるの。そうでなきゃ、きっとマッケランは滅びてしまう――ドーソンみたいに』
あの不吉な夢が、脳裏によみがえる。
あの銃声は――胸騒ぎは。
アミザは、逮捕された宿老たちが手配した組織に、狙われたのだ。
ツヤコが、今の今まで、アランの死の「真相」を話せなかった理由。
それは、アミザやカレンに、銃口が突きつけられていたからだ。
アランの死の真相を話せば、カレンとアミザの命を持っていくと――。
カレンが地球行き宇宙船に乗り、宿老たちの監視を離れたから。
アミザは、自分の命を懸けて――。
「――アミザ!!」




