240話 孤高のキリン Ⅳ 1
ルナは、お昼も食べずに夢中になって、アランの伝記を読んだ。読み終えたときは、滂沱の涙でエプロンがびしょびしょだった。
(カレンのお母さんは……アランさんは……)
ルナはファイルを開いたまま、ネットのブラウザをひらき、「悲劇の英雄、アラン・G・マッケランの物語」で検索した。すると、インターネットの書店ほとんどで、販売されていた。電子書籍にもなっている。
発刊は、二週間前だった。
だとすれば、この本は、いま書店へ行けば売っていることになる。
(カレンは、この本の存在を知ってるの)
ルナが戸惑い気味にブラウザを閉じたところで、電話の音が鳴り響いた。ルナはびっくりしてウサ耳をぴーん! と立たせ、恐る恐る、電話に出た。
ブラウザは閉じたが、ファイルは閉じていない。画面には、タイトルが打たれた最初のページが開かれたままだった。
「る、るなです……」
『ルナッち!? お、おれ、おれおれ!! ケヴィン!』
相手はなんとか詐欺ではなかった。
「ケヴィン!?」
ルナが驚いて声も出なくなっているあいだに、相手は畳みかけるように言葉をつなげた。
『ゴメンいきなり電話して! メール読んだ!?』
「う、うん、今読んだとこ……」
『おれ、間違ってファイル送っちまって……悪いけど、そのファイル削除して! ゴミ箱からも消して! ルナっち読んでねえよな!?』
ケヴィンの声は相当焦っていた。ケヴィンは、やはり間違ってファイルを送ったのだ。
すでに本として発刊されているが――ケヴィンの慌てぶりを見ると、だれかに見せてはならないことが書かれていたのだろうか。
「ルナあ。ただいま~。おやつ買って来たよ」
ルナがリビングで電話をしているあいだに、カレンが帰ってきた。ドアは鍵がかかっていなかった。
「不用心だな」
さすがのカレンも眉をひそめ、ルナに注意をしようと入ってきたのに、ルナは気が付かなかった。
「ルナ?」
カレンは廊下を歩いてきて、ルナがリビングで電話中なのに気づき、呼ぶのをやめた。
近くのドアも開けっ放しになっている。カレンはドアくらい閉めてやろうと何の気もなく部屋に近づき、そこから、端末の画面が見えた。
カレンの手から、ケーキの入った箱が落ちた。
その音で、ルナがカレンの存在に気づいた。ルナは青ざめた。
「ご、ごめんケヴィン! またあとででんわする!!」
『え!? ちょ、ル……』
あわてて切った。
だがもう、遅かった。カレンが、画面にくぎ付けになっている。
「カ、カレ――」
「ルナ」
カレンが、目をカッと見開いたまま、「悲劇の英雄、アラン・G・マッケランの物語」のタイトルを見つめていた。
「ルナ、あんたがどっからこれを手に入れたのか、聞かないよ」
カレンの必死な形相は、今度はルナに向けられた。
「お願い、あたしの部屋のパソコンにこのファイル送って」
「カレン、」
「お願い」
泣きそうな顔で懇願するカレンに、ルナは断れなかった。やっとうなずくと、カレンはあろうことか笑みを見せた。
「ありがと――それから、今日は夕飯いらない。セルゲイにも内緒にして――このことは。だれにも、ね。セルゲイには、カレンがめずらしく本を読んでるから、放っといてやってって、そういって」
カレンはそれだけ言って、部屋を飛び出して行った。
「あれ? カレンは」
夕食の席にいないカレンの所在を、最初に聞いてきたのはピエトだった。ルナはぎくしゃくと固まったまま、「カレンは、本を読んでいます」とだけ言った。
「めずらしいな。アイツがルナの味噌汁食わずに、本なんか読みまくってるなんて」
グレンがからかうように言ったが、ほんとうにそうだとだれもが思った。
カレンは、K27区にきてルナたちと同居をはじめてから、ルナのごはんを愛するがゆえに、外食も控え気味になっていた。病院に行かなければいけない日以外は、まず、食卓にいないということがなかった。だから、皆はめずらしいとこぼしたのだが、セルゲイだけは、カレンに小さな異変を感じ取っていた。
あのあと、ルナは迷いながらも、カレンの部屋のパソコンにファイルを送り、それからファイルを消した。ゴミ箱からも消去した。そして、ケヴィンにリダイヤルして、事情を聞いた。
ケヴィンが、自分の書いた小説を送ろうとして、間違ってアランの話を送ったのは分かったが、問題はその先だった。
あの原稿を書いたバンクスが、L20のホテルで別れたきり、音沙汰がないのだとケヴィンは言った。
今まで、こんなに長く音信不通だったことはない。
ケヴィンは、自身のパソコンから、あの原稿を消した。バンクスから、非常時にはそうするよう言われていたのだそうだ。取材に関連したファイルはすべて消すように。それを間違えてルナに送ってしまったために、あわてて電話してきたのだと言った。
すでに、書籍は本屋に平積みにされているが、ケヴィンを出版社に招いた編集者が、「もしかしたら、バンクス君になにかあったのかもしれない」などというものだから、ケヴィンは気もそぞろで、落ち着かなくなってしまったのだった。
ケヴィンの書いた小説は、バンクスの消息がわかって、落ち着いたら送る、といって電話を終えた。
ルナはケヴィンに言われた通り、ファイルを消した。カレンが読み終えたら、それをカレンにも伝えて、ファイルを消去しなくてはならない。
ルナは、みんなに夕食を食べさせたあと、こっそりおにぎりをつくり、味噌汁とだし巻き玉子をつけて、お盆に乗せた。そして、それをセルゲイに渡した。
「カレンに、本を読み終えたら食べてっていって」
「ルナちゃん」
セルゲイは、お盆を受け取りながら、おだやかな表情で聞いた。
「ルナちゃん――カレンはほんとに、本を読んでいるだけ?」
「えっ……」
「カレンに、なにかあった?」
セルゲイは、カレンのことに関してはさすがに鋭かった。ルナは、ごくりと息をのんだが、本を読んでいる、ということに関してはほんとうだ。
ただ、その本が、娯楽小説ではないというだけだ。
カレンになにをもたらすのか、それすらも分からない本だけれども。
でも、読むのを邪魔してはいけない気がした。セルゲイに、本のことを言ってしまったら、彼は心配して、カレンの部屋に押し入るかもしれない。
「う、うん。本を読んでいます! 読んでいるだけです!」
(うそは、ついていません)
ルナはセルゲイの目を見返した。
セルゲイは、「……そうか。わかった。じゃあ、カレンの部屋の前に置いてくる」とお盆を受け取ってくれた。
ルナは、なぜかそわそわして仕方がなかった。
セルゲイが部屋を出て行ったあと、最近おやすみしているZOOカードのチェックをしようと、箱をあけたが、「月を眺める子ウサギ」も、いつも代打で出てくる「導きの子ウサギ」も出てこなかった。
ルナはカレンのカードである「孤高のキリン」も呼んでみたのだが、応答はない。
結局、しばらくがんばってみたところで、箱はうんともすんとも言わず、だれも出てこなかった。ルナはあきらめ、箱のふたを閉じた。
セルゲイは、カレンの部屋のまえに、お盆を置いた。鍵がかかっているカレンの部屋をノックし、「ルナちゃんがおにぎりを作ってくれたよ。ここに置くね」とだけ言った。
「……ありがと」
と小さな声が返ってくる。
夕食前にノックしたときは、「ごめん、本読んだら出ていくから、しばらく放っておいて」とだけ返ってきた。泣いている様子ではなかったので、セルゲイはほっとした。
以前、エレナの過去をマックスから聞いたあと、カレンは情緒不安定になって、しばらく部屋から出てこないことがあった。今回も、宇宙船を降りると決めたことで、なにかしら不安定になっているのではないかと、セルゲイは心配したのだった。
セルゲイがドアを離れようとしたそのとき、
「セルゲイ……心配しなくていいからね」
カレンの声が、ドアの向こうから聞こえた。
そしてルナは、ついにウロウロウサギになった。
ZOOカードの箱を抱えたままウロウロし、部屋中をさまよう挙動不審ウサギになっていたので、アズラエルは対策として仕事をあたえた。
「ルゥ、俺にもおにぎりつくってくれ。具はたらこ以外ならなんでもいい」
「あ、俺も」
「俺もーっ!!」
「俺はたらこでもいいよ。明太子があれば尚のこといい」
「ルナ、あたし、鮭フレークがいい。大葉とゴマまぜたやつ!」
アズラエルとグレンとピエト、クラウドとミシェルは、ルナのおにぎりとみそ汁とだし巻き玉子を夜食に所望した。彼らは、ルナがこっそりつくっていたはずのカレンの夜食をしっかり見ていたのである。
ルナは「ええーっ」と口を尖らせたが、やがてZOOカードの箱を床に置き、キッチンに姿を消した。
ルナがうろうろしなくなったことで、みなはようやく落ち着いて、新聞やらテレビやらに集中できるようになった。
しばらくして、ルナはふりかけを混ぜ込んだおにぎりをつくって持ってきた。だれのリクエストにも沿っていなかったが、そもそもウロウロウサギを黙らせるためにした対策なので、だれも文句は言わなかった。
相変わらずおにぎりは美味しかったし、味噌汁もだし巻き玉子もなかったが、わかめ入りの玉子スープはつけてくれた。
彼らが夜食をつまんでいるあいだ、やっと一所にとどまって、ぼーっとしていたウサギは、いきなり立ち上がった。
「本屋さんにいってきます!」
ルナの突然の行動は今に始まったことではない。だが、この挙動不審ウサギをひとりで外に出すのは危なくて、おとなたちはついていくことにした。
ピエトは「俺も行きたい!」といったが、午後十時を過ぎていたので、子どもは夜食を食べたあと、ちゃんと歯を磨いて就寝することが義務付けられた。
「なにか、新刊出てたっけ」
ミシェルが何気なくした質問だったが、ルナはめずらしく、「うん……」と気難しい顔をするだけでこたえなかった。
K27区のショッピング・センターは、0時閉店なので、まだ煌々とあかりがついている。大きな書店前に車を停めると、ウサギとネコが飛び出して行った。
ネコはまっしぐらにマンガコーナーに向かったが、ウサギは単行本のほうに向かった。アズラエルとグレンがついていくと、「きちゃだめ!」とルナがほっぺたをぷっくりさせて拒絶した。
「なんだルナ。エロ本でも買う気なのか」
「俺たちには見せられねえ本なのか」
「そうです! あたしはこれからエロ本を買います! だからついてきちゃだめ」
アズラエルとグレンは顔を見合わせた。からかうつもりで言ったのだが、そろそろこのふたりも、ルナのほっぺたぷっくりの恐ろしさは承知してきたころだ。ここで引き下がらないと、こんどはおにぎりの具を納豆にされるかもしれない。
ルナは、ふたりが別の方向に行ったのを確かめて、単行本の新刊コーナーに向かった。
歴史関連の新刊付近は、ひとが少なかった。だから、それはすぐルナの目に留まった。探す必要もなかった。
そこには、「悲劇の英雄、アラン・G・マッケランの物語」が平積みにされていた。
(あった)
ルナは、おそるおそる、その本を手に取った。
著者はやはり、バンクス・A・グッドリー。
(ほんとにあった。この本、出版されてたんだ……)
ルナが分厚い書籍の表紙を見つめていると、ルナの真上から、「え?」という声がした。
ルナが目を上げると、ちょうどその男性の胸から腹のあたり。微妙にダサい青い猫がプリントされたTシャツは、ミシェル激推しのクラウドのものだ。
クラウドも、ルナの隣にいて、本を手に取っていた。
「え? まさか――ウソだろ。そんな」
クラウドも混乱しているようだった。そして彼は、すべてを察した。
「もしかして、ルナちゃん。――カレンが読んでる本って」
「なんだ、こりゃ。冗談だろ」
ルナが答えるまえに、筋肉質な傷だらけの腕が、平積みになった本にのばされていた。
「……グレン」
グレンまで来てしまった。ルナは青くなったが、もうごまかすことはできそうになかった。
グレンは本を取り上げ、パラパラとめくり、「――冗談だろ」もう一度、言った。
「カレンが読んでる本って、まさか、これか?」
ルナの後ろで、アズラエルまで気難しい顔で本を睨んでいた。
クラウドが、速読のプロだということを、ルナはすっかり忘れていた。彼は、本をぺらぺらとめくるだけで、内容を把握できるのだ。クラウドはページを中ほどまでめくり、眉間にしわを寄せた。
「発刊はいつ――二週間前だ。知らなかった。こんな本が出てたなんて――これじゃ」
「ああ。――マッケランに、ひと悶着起きるぞ」
「バンクスのヤツ、どこでこんな情報仕入れてきやがった。そもそも、よくマッケランが許したな……」
グレンとアズラエルは、クラウドほど中身を読めてはいないが、タイトルで、ある程度の事情を察したようだった。
「辺境惑星群や軍事惑星群は、L5系にくらべて一ヶ月から二週間ほど、新刊の発売が遅れる――L52の出版社が刊行した本だし、今日本屋に並んだのかも」
クラウドは、近くにいた店員を呼び止めた。
「この本は、いつからここに置いていますか」
「今日からですよ。この新刊コーナーは、今日発売の本ばかりです」
クラウドの推測は当たった。ならば、軍事惑星群でも、今日あたりからこの本が書店に並んでいる――バンクスの本は軍事惑星では発禁扱いになっているから、定かではないが。
「あとがきを見て」
クラウドが、あとがきのページを指した。
「アミザがバンクスに話したんだ。――ヤバイよこれは」
クラウドの表情が、一気に緊迫感を増した。
「あとがきを読めば本の内容がぜんぶ分かるようになってる。ニュースにはまだ何も出てないけど、ほんとうに、なにか起きるぞ。――これは、告発本だ」
「こくはつ?」
「セルゲイは知ってるのか――ルナちゃん、まさか、この本を買いにきたの」
クラウドのターゲットは、ルナに絞られた。ルナは明後日の方向を向いたが、明後日の方向は、アズラエルの黒いTシャツにさえぎられた。そこからまた後ろを向くと、グレンのへんな漢字Tシャツにぶち当たった。
筋肉に囲まれたルナは、しかたなく言った。
「――ほんとうにあるかどうか、たしかめようと思って」
ルナは、男三人につまみあげられるようにして、本屋のカフェに連行された。そこで、もと心理作戦部の尋問官に、すべてを白状させられた。




