29話 パンダのお医者さん 2
(ん?)
……いい匂い。ものすごく、上品な香り。
ヒクヒクと、ウサギのように鼻をヒクつかせたルナは、ふわふわの足場を、匂いを頼りに歩いて――かくん、と地面に足がついたような感じがした。
「うん?」
ルナはめのまえにあった鏡を見た。
鏡台だろうか。壁一面の豪奢な鏡だ。縁取りが銀細工でできている。
大理石の洗面台。金の蛇口。上品なかごのボックスに入ったティッシュケースと、綺麗な細工の、白いガラス瓶に入ったハンドソープ。美しい絵柄の丸い缶には、いい匂いのするハンドクリーム(個包装)まで入っている。生花が活けられていて、花の香りまでただよう――。
「トイレだ」
ルナは周りを見渡して言った。
いつまでもいたくなるようなゴージャスなトイレだったが、ウサギが出ていくので、ルナもあとを追って出た。そして、広がる空間に絶句した。
はるか高い天井に、いくつも並ぶ巨大シャンデリア。手の込んだ細工の絨毯が敷かれ、小窓には花々が、壁には名画がかけられている。タキシード以外の男の人はいないし、ドレス以外の女のひともいない。
華やかな音楽が流れる別世界。優雅極まりないとはこのことだ。
「なんだこりゃ。どこ? どこのお城の中!?」
「ここはL54のグラスエンディアス・シティの最高級ホテル」
ウサギは言った。
L5系はL系惑星群の中心で、中央政府がある星でもあるので、ルナたちから見れば大都会。L7系のホテルとは、高級さが格段に違う気がした。
ここにいる人たちも皆、上流階級の人間だといわんばかり。
さっきのL47と比べたら、天国と地獄だ。
そんなことを思っていたら、ジャズ風にアレンジされた「天国と地獄」の音楽が、優雅に流れ出した。
ルナが立ちすくんでいると、レストランのほうから、見慣れた顔がこちらへやってきた。
さっきの夢より、ちょっと年を取ったエルドリウスと、――セルゲイだ。
(わ、カッコいい)
ルナが思わず見とれるほど、セルゲイはセルゲイだった。セルゲイは、さっきの子どもの時の様子からは想像もできないほど、セルゲイに変身していた。
きっちりセットされた黒髪に、切れ長の、けれど優しい目。タキシード姿は、上流階級の人間以外には見えない。おだやかに微笑みながら、エルドリウスと会話している彼は、ルナの見知っている彼そのままだ。
あのやせた子どもの面影はどこにもない。
16歳の彼は素通りして、ここまで?
今、彼はいくつなのだろう。
そのうしろから、カレンが歩いてきたので、ルナは目を見張った。カレンと一緒にいるのは、オレンジ色の髪をした、ショートヘアの女性だ。
カレンはスーツ、ミラは真っ青なドレスを着ている。
「あのオレンジの髪の人は、カレンの義母で、L20の首相、ミラだよ」
「首相!?」
なるほど、背後には、ずらりとSPがつらなっている。
セルゲイたちはルナのところまでやってきた。エルドリウスはミラとカレンと握手をし、微笑んだ。
「楽しい時間をありがとう。ではカレンさん。また明日」
「ええ」
そういって、エルドリウスはミラ首相の手を取り、去った。セルゲイがカレンに聞いた。
「カレン、これからどうする」
「そうだな。最上階のティールームにでも行こうか」
「あれ、まだ行ったことなかったっけ」
「うん。話だけだ。ここに、エルドリウスさんの部下だったデレクってやつがいたって」
「今はいないけど、いいの」
「いいよ。地球行き宇宙船に乗る前なんだ。星空をながめてみたい気分」
ふたりの会話を聞いて、ルナは悟った。
これは、ふたりが地球行き宇宙船に乗る直前の時間だ。
床以外、すべてガラス張りのエレベーターに乗り、高所恐怖症のルナは、街のイルミネーションが見渡せるというのに余裕などなく、うさちゃんをぎゅーっと抱きしめていた。
「いたいよ、ルナ」
「もふもふなのです! もふもふ!!」
最上階に辿り着くと、そこにはたくさんの人々が――おそらく、大部分が恋人同士――が、半分暗がりの光彩のなかで、ひそひそと囁き合っていた。
天井は、巨大なプラネタリウムになっていた。
大ホールほどもあろうかという広い空間で、ネオンの星くずが、まるで宇宙のように、キラキラとひとの形をなぞり、過っていく。
「わあ!」
ルナは思わず歓声を上げた。
「わあーっ……」
歓声を上げたのはルナだけではない。カレンもだった。
「こりゃ、最高だ!」
ネオンの隙間に見える恋人たちは、美しい紳士淑女ばかりだ。
ふたりのボディガードに付き従われながら、セルゲイとカレンは階段を降りてホールへ。すぐにウェイターがやってきて、席に案内してくれた。
「私はスコッチを」
セルゲイのあとに、カレンは畳みかけるように言った。
「ここにきたらやっぱあれだよな」
セルゲイと顔を見合わせて、笑った。
「“デレク・スーパー・スペシャル”!」
……今、なんて言った?
デレク・なんとかスペシャル?
どうも、この上品な場所には似合わない名前だ。
ほとんど時間を待たずに、酒は運ばれてきた。フルーツを綺麗に盛り付けられた器に、ナッツとチョコレートが入った、銀のカップも添えられて。
「デレク・スーパー・スペシャル――でございます」
名前はともかく、ルナはほとんど歓声を上げそうになった。
カクテル――そう、カクテルだろう。それがあまりに、美しくて。
濃いブルーのお酒の中に、水色の、透き通るような銀河系が、ロンググラスの真ん中に煌めいているのだ。次々と噴き出す炭酸の泡が、星にも似て。
プラネタリウムから注ぐ星とネオンの光が、幻想的にグラスの中の銀河を浮かび上がらせる。
「すごい――」
ルナはそれきり、絶句した。
こんなの、もったいなくて飲めない。
カレンの手にあるカクテルをうっとりながめていると、ルナのめのまえにもカクテルが現れた。
「はわあ!!」
ルナが感激で目をきらめかせると、ウサギも同じものを飲んでいた。
「たいへんなシーンがつづいたからね――これくらいのサービスはいいでしょう」
「よいです!」
ルナは叫び、さっそく、そのゴージャスなカクテルに口をつけた。
味は、糖度の高い極上の吟醸酒のようだった。さわやかだったり、いきなり濃くなったり、果物の味がしたり。ミントの香りもする。
「いろんなあじがする!」
「おいしい?」
「おいしい!!」
ルナは当然のように声を上げた。デレクは、今でもこれをつくれるだろうか、マタドール・カフェのメニューに、このカクテルはなかったけれども、頼めばつくってくれるだろうか。
「これが“本物”のデレクスペシャルじゃないってとこが、惜しいよなァ」
カレンが口をとがらせた。セルゲイは、ナッツを口に放り込んで、笑った。
「うん。たしかに本物はもっとすごい。このカクテルの中に銀河を作り出すことができるのは、いまのところデレクだけだ。デレクに習った人が、今はここでこれを作っているみたいだけど。やっぱり本物には及ばない。本物はもっと、神業みたいな美しさだ」
「いいよな。セルゲイは本物を飲んだことあって」
セルゲイは本物を飲んだことがあるんだ。いいなぁ。
ルナが口をパクパクさせているうちに、カクテルの中の銀河系は消えてしまった。
「――あ。消えちゃった」
カレンもつぶやいた。
「消えちゃったね。デレクの作ったそれは、もう少し持つんだけど」
残念そうなカレン。セルゲイも苦笑した。
「デレクは、お義父さんの部隊にいたんだ」
セルゲイが言った。ルナは先ほどの夢で、それを知ったばかりだ。
「私が大学に入学した年、軍をやめてバーテンダーになった。このバーで主任を勤めてから、L系全星のバーテンダーコンテストで、最優秀をとったのが、この“デレク・スーパー・スペシャル”。彼は、カクテルの才能はすごいけど、いつもネーミングが適当で」
それは、地球行き宇宙船に乗ってからも一緒だ。
「でも、彼がつくるカクテルは、味も美しさも、一級品だ」
こんなところで、デレクの過去まで知ることになるとは、思わなかったルナだった。
カレンが聞いた。
「セルゲイ。そのひとって、いくつくらいの人?」
「え? ああ。ええと、私が今三十歳だから――四十三歳くらいになるかな? たしか十三歳年上だから」
「四十三歳!?」
ルナは叫んだが、導きの子ウサギくらいにしか聞こえていないのがさいわいだった。
では、今は四十三歳だ。
二十代後半くらいだと思っていた。若く見えすぎるのもほどがある。
セルゲイを地獄から助け出したのがデレク。デレクはセルゲイの養父になった人の部隊にいた。
では。
キラそっくりの、あのひとは――?
「ところで、ほんとにいいの」
「なにが?」
さっきの夢に思いをはせていたルナは、セルゲイとカレンの会話を聞いて、我に返った。
「ほんとに、あたしと、地球行き宇宙船に乗ってくれるの」
「それは、さっき、ミラさんとも話したじゃないか」
「義母さんが頼んだら、なかなか断りにくいだろ」
カレンは肩をすくめた。
「そんなことはないよ」
セルゲイは言い、それから首を振った。
「でも、私は、君のカウンセリングの担当にはなれない。それはやっぱり、ちゃんとミラさんにも言っておくべきだな」
「セルゲイは、ともだちになってくれるんだろ」
カレンが、やわらかな微笑を浮かべた。
「うん」
セルゲイは同じ笑みをカレンに向け、それから前方を見た。きらめくネオンの光彩を。
「君と出会ったとき、すこし話したけれど、私の過去には――ちょっとキズがある」
ルナは、先ほど見た、セルゲイの幼いころの「地獄」を思い出した。カレンも、大雑把には聞いているのか、「……ああ」とすこし暗い顔になった。
「今でも、暗闇はとても怖い」
「えっ」
カレンはあわてて周囲をキョロキョロ見回した。そして言った。
「い、いま、だいじょうぶ?」
セルゲイは苦笑し、
「ここはひとが大勢いるし、とても広いし、完全な暗闇ではないだろ? それは平気。ダメなのは、狭くて暗くて、だれもいないところ。このトラウマのせいで、私は軍人になれなかった」
彼は、組んでいた長すぎる足を元にもどし、チョコレートをつまんだ。気づくと、セルゲイの向こう側で、導きの子ウサギが、銀のカップからチョコレートを失敬していた。
「運動能力は合格ラインだったし、狙撃手も向いてはいたんだけど、暗闇がダメだから、壕にも入れない、テントもダメ、トラック内もヤバい、演習に出られないということで、軍人はあきらめた」
彼はすばらしい彫刻が施された高級チョコレートの粒を、つまんだものの、自分では食べず、ためいきとともに、皿にもどした。
「私の兄弟――お義父さんの養子は、みごとに軍人と医者に分かれて。だから、私は軍学校をやめて、L53のお姉さんのところに居候して、医者になった。それで、彼女のおかげで大病院にも入れたんだけど、ああいうところの派閥争いも、合わなくて」
ルナはウサ耳をぴこぴこさせながら、話を聞いた。導きの子ウサギは、向こうでナッツをバリバリ頬張り、カクテルを飲んでいる。
「そろそろ、田舎で開業医か、兄さんの病院を継ごうと思っていたんだ」
「そうだったの?」
「兄さんは、L55のコンセルヴァトワールで開業医をやってる。でも結局富裕層相手の医者だからね。いまと環境はあまり変わらないというか……」
「……」
「だから、どちらにしろ、私もこの先どうしようか迷っていたところだし、地球行き宇宙船の話はちょうどよかったのかも」
「失業手当もらいながら旅行するみたいな感じだよなぁ」
「ふふ。そうかもね」
「その、コンセルヴァトワールの病院って、外科なの」
「いいや。小児科」
「小児科か。子どもの相手は得意だって?」
「得意なんじゃなくて、苦にならないだけだよ」
ふたりは顔を見合わせて、笑った。
「――地球って、どんなところだろうね」
セルゲイがぽつりとつぶやく。カレンは言った。
「想像も、つかないや」
導きの子ウサギが、カクテルを飲み干して、立った。
「そろそろ起きるよ! ルナ」
「え!?」
あたしまだ、カクテル、ぜんぶ飲んでない――という悲鳴も聞かず、子ウサギは首もとの時計をいじった。
ルナは、とたんに目覚めた。
「カクテル……まだぜんぶ飲んでなかったのに……」
じったり、目を座らせてふて腐れた。




