235話 幸運のペガサス Ⅰ 3
“その知らせ”がL20の首相官邸にもたらされたのは、フライヤが出兵して、二ヶ月と経たない日のことだった。
駈け込んで来た情報部の軍人は全身で息をしていたし、よほど全力で走ってきたのか、咳き込んで、しばらくは言葉が発せないほどであった。
「……和平締結です!」
まだ若い少尉は、貴族出身の令嬢で、まだ軍属して一年そこそこだろう。彼女は白い頬に目いっぱい血の気をのぼらせてそう叫んだ。
「和平締結がなりました。――遺骨も無事に――礼を、持って、返されて――」
差し出された報告書を、秘書官が少尉の手からひったくった。
だれもが、少尉のいった言葉を理解するのに時間がかかった。情報を理解して、質問を口から出すのに数分――それほど、この若い少尉がもたらした情報は、官邸のみなの理解を超えていた。
「和平、だと?」
「和平締結です! 一兵も損じていません。エラドラシスと――ケトゥインと、和平締結がなったんです! 遺骨も無事に帰ってきて……!」
そういい終えて令嬢は、感極まって涙した。
和平締結?
一回も矛を交えずに?
和平がなるといっても、物量作戦で攻め、圧倒的な力を示してから、相手が降伏してくるのを待つ。
だれもが、それしかないと思っていたのだ。
ミラは、自身が落ち着くために、ゆっくりと想像した。この小さな少尉の親族は、もしかしたら前回のエラドラシスの戦にいたのではないかと。
フライヤ・G・ウィルキンソンが、やってのけた。
ミラの頭には、それだけが反復して根付いた。フライヤ少尉を特別視する言葉を吐かないよう、厳重に気を配らねばならないほどであった。
少尉の報告後――秘書室は騒然とした。
秘書室だけではない、この戦勝報告――いや、和平締結の報告が、L20をかけめぐったとき、いったいなにが起こるか、ミラは想像した。
まずは軍部、そして首都、おそらくL20の果てまで。
そのとき、フライヤの名も、当然名誉とともに広がるだろう。
ミラはその先を予測して、興奮に身震いした。
フライヤは、自身が起こしたこの結果を、どう受け止めているだろうか。あのすれていないフライヤが、反響を、どれほどの勇気と肚を持って受け止められるか。
守るのはミラだ。そして、いまフライヤのそばにはアイリーンもいる。スタークを彼女に着けたのも、おそらく間違いではなかった。
大きな結果だった。
計り知れないほどの功績だ。
ミラは、サルディオーネの言葉を思い出して、もう一度身震いし、我に返った。
事態の大部分を周囲からの情報で把握し、ミラはすべての手配をはじめた。
L03からもどってくる、サスペンサー大佐率いる大隊の慰労。それも、大々的なものにしなければならない。これは、世界に向けたパフォーマンスだ。L20の抑止力を高めるための――。
フライヤの指示のもと、L42に派遣された、スターク中尉率いる小隊にも。エラドラシスからも、和平締結の条件が提示されているはずだ。
まずは、サスペンサー大佐の隊とフライヤの帰還を待たねばなるまい。
――把握したというよりか、ミラは首相としてしてはいけないことをした。自分の予想の範囲内で状況を判断した。
だが、“幸運”なことに、ミラの思い込みは99%当たっていた。
深夜にあの“カード”を引き出しから出したとき、その幸運すらも、フライヤによってもたらされたものではないかと錯覚したものだ。
しかしミラは、フライヤを称賛する言葉を、軍部にいるあいだはひとことも零さなかった。
これで満足されては困る。フライヤには、もっと大きなことを成し遂げてもらわねば困るのだ。こたびの作戦は、前座に過ぎない。
(メルーヴァ軍のとの戦いに、フライヤを)
ミラは、なんとなく、それが無理ではないような気がしてきた。
来年、フライヤをアストロスに送り込むことを考えると、まだまだ経験が足らない気もしたが、――それでも。
フライヤは、見事L03のエラドラシス、ケトゥインとの和平を締結させた。
ミラはそこまで望んでいなかった――というより、ここまでの結果を――一兵も損じず、戦争にすら至らなかった、という結果を、だれが予想できただろう。
ミラが報告書をじっくり読むことができたのは、日づけが変わるころだった。
報告書によれば、フライヤの作戦は、和平締結を目的に据えた。
まず自隊のスターク中尉の小隊を、L42のエラドラシスへ。
サンディ中佐をL83のケトゥインへ派遣した。
L42のエラドラシス集落は、周囲のケトゥイン、およびマレの軍に苦しめられているところをL20の軍が何度も救った経歴があり、L20の軍には好意的な傾向がある。
また、サンディが向かったケトゥイン集落は、親地球派の集落であり、L83の治安のために、地球軍に協力してくれている集落だった。
ここからが、フライヤの奇策のはじまりだ。
フライヤはまず、エラドラシス集落の長老の名を、略さず呼ぶという礼をつくしたと報告書には書いてある。
エラドラシス族の名は長い。その名を略さず呼ぶというのが、最高の礼に値するという。
名前そのものも長いが、フルネームを略さず呼ぶと、五分かそこらも口を開いていなければならないほど長いらしい。
フライヤは、長老の名を苦労してつきとめた。フルネームとなると、生来の名に、住んでいる土地や星の名、兄弟姉妹、親の名がついて長くなるのだと。
スターク中尉は、フライヤに、長老のフルネームを書いたメモを渡された。スタークはエラドラシス集落でそれを読んだ――エラドラシス集落の者たちは、長老を含め、すべての村人の態度が変わったと、ここには記してある。
いままで、村を助けてもらった恩はあれども、侵略してくる地球人という印象がぬぐいきれなかった彼らの目が、一気に変わった――親しみのほうへだ。
名を呼ばれた長老は、感激の涙を終始止めることはなかったという。
この表現は誇張ではないだろう。結果、起きた出来事が、誇張ではないことを証明している。
この時点で予想以上のことが起きた。L42のエラドラシス集落が、L03のエラドラシス集落と、L20の軍の間を取り持ってやろうと言いだしたのだ。
スタークは、村の有力者ふたりを連れて、L03へ帰還した。
彼らのおかげで、L20の軍隊は、近づくことさえできなかった、L03のエラドラシス集落に、入ることができた。
フライヤは、心理作戦部隊長アイリーンと、その副官、エマ軍曹とエリンドル軍曹をともなって、集落に入った。
そこでフライヤは、L20の軍が聖地とは知らずに軍を置いたことを、言葉を尽くして詫び、その集落の代表の名を、フルネームで三回呼んだ――とある。
その成果は、言わずもがなである。
ミラは、この時点で身震いを押さえきることができなかったのだが、ケトゥイン集落に対して行った奇策は、その上をいっていた。
サスペンサー大佐ほか、残留部隊は、フライヤの作戦に従い、“人工日食”をつくりだしたとある。
ケトゥインは太陽信仰である。彼らにとって、日食はとても大きな意味を持つ。
サスペンサー大佐の隊は、宇宙船をつかって、日食に近い現象をつくりだした。ケトゥイン集落から見て、ちょうど太陽をさえぎるような形で、宇宙船を動かしたのである。
日食とは言い難いが、太陽上を肉眼で見える黒点が移動するさまは、ケトゥインの民たちを大いに動揺させた。
黒点移動は、一週間も続き、ケトゥインの民は混乱した。
そこへ、太陽のカラーを象徴する、オレンジ色の布を全身に巻きつけたフライヤ、アイリーン率いる心理作戦部が現れる――L83のケトゥインをともなって。
ケトゥインは、同じL83のケトゥインの一族の説得もあり、L20の軍といくさをするのは「不吉」との結論に至った。
遺体を彼らに返すまで、黒点が消えないと知った彼らは、遺骨を朱色の布にくるみ、丁重に送り返してきたという。
報告書を読めば読むほど、ミラは夢物語でも見ているような気分になってきた。
この奇跡が起きたことが、にわかには信じがたい。
しかし、遺骨はもどってくるし、L03のケトゥインはともかくも、エラドラシスは、味方になったと考えていいのではないかという一文さえ入っていた。
ミラは、それは早計に感じたが、少なくとも、和平締結はなった。遺骨は返された。フライヤもアイリーンも、無事に帰ってくる。一兵卒とて、死者はいない。
ミラは大きく息をついた。
いくさの報告書で、これほど安堵を覚えたのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。たとえ勝利の報告であれど、自軍、敵軍とも死者は絶えなかった。
恨みばかりが双方に積もっていく。和解にはほど遠い――。
この奇跡は、すべてが重なって起きた結果だった。
サスペンサー大佐でよかった。もし、好戦的な者を指揮官に据えたら、フライヤの作戦が実施されたところで和平ではなく、両集落を攻め滅ぼしていた可能性もあった。
L8系で顔がきく将校たちがいなかったら、L83のケトゥイン族を連れてくることは難しかっただろう。サンディ中佐は、L83の集落長老とは長い付き合いがある。サンディの頼みだから、彼らも腰を上げたのだ。
(あの、おとなしい子が)
フライヤもよく、将校ばかりが集まった軍議の席で、自分の意見を口にした。
秘書室に来たころは、おどおどして、人の顔色ばかり伺っていた子だった。
そんな子が、奇策ばかりを引っ提げて、軍議で意見を言うのは、勇気がいっただろう。
不思議と、いつも覚える頭痛が、今日はなかった。ミラは、今日くらい乾杯してもいいのではないかと思い、秘書を呼んで、ウィスキーを一杯、所望した。
やがて、ミラの寝室にウィスキーとナッツ、フルーツの盛られた皿がやってきた。
ミラは氷の塊が浮かぶウィスキーを舐めると、
「……ありがとう、皆――フライヤ」
と、昼間は言えなかった言葉を口にした。
しばし、安らぎが訪れた。ミラはソファに身を沈めてゆったりと、心地よい静寂を味わった。このまま眠りに着けたらいい夢が見られそうな。
しかし、ミラの睡魔は、ふと思いついた出来事によって消え去った。
ミラはソファから立ち、寝室を出て大きな机のある執務室に向かった。
深夜でも、ちいさな明かりはともされている。ミラは電気をつけ、鍵付きの机の引き出しを開けた。絹のハンカチにつつまれたカードを取り出す。
ミラは目を疑った。
一番気にかけていたペガサスのカードが、輝いている気がする。
ミラは部屋の明かりを消した。間違いはない。発光している。そういう塗料でも塗ってあるのだろうか。
最初にもらったとき、このカードのペガサスは大きな布をかぶっていた。カードの下に書いてある、「布被りのペガサス」という名称のおかげで、「ああ、この動物はペガサスなのか」とわかるくらい、姿が見えない大きな布をかぶっていた。
前回見たときは、その布がなくなって、頭の上にちょこんとハンカチがかぶさっている姿に変わっていた――それが。
今は、なにもかぶってはいない。キラキラと白銀色の光を振りまいて、羽ばたいているペガサスの姿。
ミラは呆気にとられ、それから、カードの名前も変わっていることに気付いた。
「幸運のペガサス」
カードの隅には、そう書かれていた。
(ああ)
ミラは、願うようにカードを額に当てた。サルディオーネの言葉がよみがえる。
「カレン様は、生まれ変わって戻って来られる。――どうかそれまで、ミラ様はお待ちください。フクロウとペガサスを見出し、カレン様のためにお育てになって」
カレンは、本当に戻ってくるのだろうか。最近は、セルゲイの連絡も途絶えがちだった。
でも、幸せにやっているならそれでいい。もどってこなくてもいい。
できるなら、カレンにL20のことはあまり思い出させないでやってほしいと願ったのはミラだ。こちらからは滅多に連絡をせず、カレンの病状が悪化したとき以外は、連絡を寄越すなと、セルゲイにも頼んでおいた。それでも律儀なセルゲイは、宇宙船に乗ったばかりのころは、短いメールを頻繁に寄越した。
ミラが、「そこまでマメに知らせなくていい」と二度ほど告げたころから、セルゲイのメールも、来なくなった気がする。
セルゲイの連絡がないということは、大事はないのだろう。
もしかしたら、宇宙船で奇跡が起きたろうか。カレンは地球に行けるだろうか。
できたら、地球にたどり着いて、そこで幸せに暮らしてほしい。
“フクロウ”のそばに、“ペガサス”はたしかにいた。
彼女たちは、たとえカレンが戻ってこなくても、L20のために立ってくれるはずだ。
まだアミザがいる、わたしもまだ動ける。
(どうか、地球よ)
カレンに安らぎを。
わたしを今夜満たした、静かな安らぎがあの子にも訪れていますように。
ミラはカードに口づけて、幸福の涙をこぼした。




