226話 盲目のイルカと強きを食らうシャチ 1
リズン前のシャイン・システムで、一気にK33区の区役所まで飛ぶ。区役所を出ると、中央広場に向かういつもの道の両脇に、たいまつが焚かれていた。
たいまつは、道を示すように、等間隔にずっと続いている。
「さあ、みんな乗って」
バジが、馬車を用意していた。巨躯の馬が二頭、荷台を引いている大きな馬車だった。
たいまつは、中央広場までの道を煌々と照らしていた。
みんな黙って、荷台の上で身を縮めていた。
中央広場入り口で、たいまつの道は途切れたが、広場の大草原にも、たいまつの道が一直線に引かれていた。井桁から、祭壇への一本道。
いつもひとつだけの井桁は、今日は三ヶ所に焚かれており、炎はいつにもまして、轟々と荒れ狂っているように見えた。
ルナたちが到着すると、先にペリドットと一緒に来ていたアズラエルとグレンが出迎えてくれた。
「どうしたんだ」
半分意識を失った状態の親子を見て、アズラエルが尋ねたが、すぐに呪いのせいだと悟ったようだった。
「セシルちゃん、ネイシャちゃん、具合が悪そうだけど、一時間は我慢してくれ」
バジが励ますようにいい、カザマとルシヤがふたりを毛布で抱えながら、祭壇のほうへ連れて行った。
「(よし、火を消せ)」
ペリドットが、ラグ・ヴァダ語で命じると、馬に乗ったふたりのラグ・ヴァダ族が、ルナたちが来た道のたいまつを、逆から消していく。ルナは、まるで帰る道がなくなったかのような不安に駆られた。
そのときだった。
地の底から響いてくる、おぞましい咆哮が聞こえた。
だれもが今すぐ、ここから逃げ出したくなるような悲鳴だった。
ルナはぶわりと全身が総毛立ち、アズラエルにしがみついた。ピエトも「ひっ!」とひきつった悲鳴を上げてアズラエルの陰に隠れた。
ルシヤは踏ん張ったが――凍り付いた。
店を休業にして駆けつけたシュナイクルの姿を見たとたん、「じいちゃん!!」と泣きついた。
あのミシェルでさえ――クラウドにしがみついている。
涼しい顔をしているのは、九庵くらいのものだ。
「なんだ、ありゃァ……」
グレンが、井桁の向こうでもがいている、真っ黒な塊を見てつぶやいた。
すべての人間の本能を揺さぶるような恐怖があるとしたら――こういうものだ。
カレンの歯がガチガチ言いだしたのを見て、セルゲイとグレンが両側から、守るように抱きしめた。
だれかと触れ合っていなければ、自分も恐怖に、足から崩れていきそうだったからだ。
呪が乗り移ったレボラックは、元の形を失っていた。口から鼻から瘴気を噴き上げ、ツノのぎらつきは、今すぐにもだれかを串刺しにしそうな不気味さを湛えている。
セシルたちの呪いが具現化されたものを、皆はその目で見た。
セシルとネイシャも、自分たちを苦しめていた呪いの姿を目の当たりにして、絶句した。
「か、母ちゃん……!」
ネイシャが恐怖に耐えかねてセシルにすがったが、セシルも、気を失いそうだった。
ガラララララララ……とひしゃげた悲鳴をあげた、“かつてのレボラックだったもの”は、たいまつで囲まれた道を一直線に、セシルたちのいる祭壇に向かって突撃してくる。
「――っ!!」
セシルは、思わずネイシャを抱きしめて顔を伏せた。
ついに自分たちは、ここで死ぬのかもしれない。
セシルもネイシャも、そう思った。
井桁の炎が巻き上がる中に、光の反射があった。
ひとすじ煌めいたそれが、刀身であることにルナは気づいた。刀身が切り裂いた井桁の炎が、壁となってレボラックの道をふさいだ。
ぶわり、ぶわりと火勢がレボラックの行く手をさえぎる。火だと思っていたそれが、ベッタラであることに、ルナはやっと気づいた。盾を持たない彼は、井桁で燃え盛る炎を盾に、獣の猛攻をさえぎっていた。
儀式はもう、始まっていたのだ。
「なんてやつだ……!」
アズラエルは、ベッタラの剣技に感嘆しているようでもあった。
――なによりも、あの怪物に、恐れることなく向かっていくベッタラの強さに。
あれは、本能が近づくなと告げるほどの恐ろしさだ。
アズラエルでさえ――グレンでさえ、相対したこともない恐怖に、足がすくんで動けなかったというのに。
「ベッタラ!!」
だれかが叫んだ。
レボラックの三本あるうちの角のひとつに、ベッタラが引っかかってしまったのだ。
彼は高々と宙に放り投げられた。なんとか体勢を立て直して着地したベッタラだったが、獣はまっすぐに祭壇へと突進していった。
セシルたちが危ない。しかし、ベッタラは間に合わない。
ルナたちは目を瞑ったが、セシル親子の前に巨大な防弾ガラスがあるかのように、レボラックの進撃を押しとどめた。
獣はたけり狂ったように、何度も何度も、角で見えない壁をはじこうとするが、先には行けない。
壁は、マミカリシドラスラオネザがつくっているようだった。
祭壇の後ろにそびえたつ彼女は、一時も途切れることなく呪文を唱え続けている。
やがてあきらめたレボラックは、ゆっくりと進行方向をかえ、ベッタラに狙いを定めた。
レボラックの前足がかいた土からも、赤黒い噴煙が立ち上る。
獣から発散する“もや”はますます勢いを増して天に、地に広がったが、たいまつで囲まれた結界から外、ルナたちのほうには襲ってこない。
「来なさい!」
ベッタラの一声とともに、レボラックは咆哮を上げて突進する。
「――!!」
ルナは思わず、アズラエルに飛びついて、目をぎゅっと閉じた。
「ベ、ベッタラ、すっげえ……」
つぶやいたのは、ピエトだった。ルナがおそるおそる振り返ると、ベッタラが、怪獣の角をわしづかみにして、踏ん張っているではないか。
「――っぐ! オオオオオオオオオオオオっ!!」
信じられないことに、ベッタラが、井桁より大きい獣を押し返している。だが、獣の雄叫びとともに、すぐ彼は押し返された。
「バカ野郎! 下に転がるな! 踏みつぶされるぞ!」
グレンは思わず叫んでいた。
ベッタラは、あわてて獣の前足から逃れ、かろうじて踏みつぶされるのを免れて、獣の下から転がり出た。
だれもが、安堵のため息を吐いた。
そこから、ベッタラは、防戦一方だ。
剣も鞘に納めたまま、逃げ続けている。
(セーシル、セーシル)
ベッタラは、息を荒げながら願った。
(セーシル、怯えないでください。ワタシはけっしてあきらめません。アナタもあきらめないでください)
――アズラエルたちは、様子がおかしいことに、気づいた。
ベッタラは、攻撃にうつらない。それがなぜなのか、アズラエルたちにはわからなかった。攻撃に出るタイミングが儀式によって決められているのか。ベッタラは、獣の攻撃をかわせている。反撃に出るチャンスもあるはずだった。
「――っ、まただ」
アズラエルならば、あのタイミングで攻撃を仕掛けている。だがベッタラは、一向に反撃しない。交わすのが精いっぱいなのか。
さっきまでの勢いが、ウソのようだ。
(あのままじゃ)
ベッタラの体力が、先に尽きる。
――セシルたちは、祭壇で、自分たちを守った見えない壁と、炎の壁を見た。
高熱もあって、目が回り、視界もぼやけていたが、あの恐ろしい獣と戦っているのが、ベッタラだということはわかった。
ベッタラは、「ワタシが戦います」といっていたが、こんな顛末になっているとは知らなかった。
セシルが、そばにいたペリドットにすがった。
「いったい、何が起こってるんです。あの人を止めて! あれじゃ死んじゃう!」
獣は、獣というにも憚られる、化け物だ。
黒い煙をあげ、目は赤く濡れ、牙と角はするどく尖って、ベッタラを殺そうといなないている。
「ベッタラが、おまえたちに言うなと言ったんだ。この儀式のことを話せば怯えるからといってな」
ペリドットは、しゃがみこんで、セシルの肩に手を置いた。
「ベッタ・ラの言ったことを覚えているか。あやつはおまえに、怯えるなと言ったはずだ」
レボラックがベッタラに向かっているので、呪文を唱えなくともよくなったマミカリシドラスラオネザは、セシルに言った。
「おまえたちは今、ベッタ・ラとは一心同体。ベッタ・ラは、おまえたちの依代となって戦っている。すなわち、おまえたちが怯えれば、ベッタ・ラも怯む。――儀式は失敗するかもしれぬ」
「――え」
マミカリシドラスラオネザが、まっすぐに井桁のほうを指した。
「おまえが怯えつづけたままでは、ベッタ・ラが反撃に出ることができぬ。逃げ続けるままでは、ベッタ・ラの体力が持つまい」
「あっ――」
ネイシャが声を上げた。
ベッタラが、がくりと膝をついた。そこへ、巨大な角が突き刺さる。ベッタラはかろうじて避けたが、最初に比べたらずいぶん、動きがにぶくなっていた。
「セシル――怯えるなというのは無理な相談かもしれん。だが、このままではベッタラが死ぬ」
「……! ……!」
セシルは声にならない息を吐き、顔を覆って泣き崩れた。
あの獣は、セシルたちの代わりにベッタラを襲っているのだ。
けれどもセシルは恐ろしかった。セシルを呪った、男の断末魔の顔が、まざまざと脳裏によみがえる。
自分は、彼に呪われても仕方のないことをしたのだ。
セシルは若かった。夫となるはずだった男も、若かった。
若さゆえに、周りが見えなかった。
セシルはどこかで、自分が呪いを受けたのも仕方ないと思っていた。
あきらめていた。
自分が呪いのために一生苦しむのは、罪滅ぼしなのだ。
自分たちのせいでみんな死んでしまったのだから。
どんなに後悔しても後悔し足りない過去――でも、ネイシャに罪はない。
「お願い……ネイシャだけは助けて。あたしは、どうなってもいいから……」
セシルの悲痛な声に、ネイシャは、熱でうるんだ目に強靭な決意をみなぎらせた。
――恨みは、悲しみ。悲しみゆえに、恨むのだ。
ベッタラは、獣の攻撃をかわしながら、語り掛けていた。
――私も分かる。貴方の気持ちが。幾度となく、咆哮を上げてパコに襲い掛かった。貴方は私だ。かつての私だ。
この世の不条理に、さだめに、無残に踏みにじられる苦しみを知っているひと。
貴方もそうだった。
私もそうだった。
私は、あなたの輩だ。
親を飲み、兄弟を飲み、友を、仲間を飲んでいったパコ。
けれど、その私を救ったものも、また、パコだった。村を救ったのも、守ったのも。
偉大なる獣よ。偉大なるパコよ。どうか私に力を。
この無明の闇にとらわれて生きる、かの者を救いたまえ。
天がこのベッタラを生かしたなら、その願いを聞きたまえ。
――私に、その力を与えたパコよ。
「あたしが行く!」
ネイシャが祭壇を飛び出すのを、だれも止められなかった。高熱でふらついた少女は、走りだしたとたんに足がもつれ、何度も転んだが、それでもベッタラのほうへ向かっていく。
「あたしは、あたしはっ……でかくなって、おっきな、傭兵グループをつくるんだ……!」
ネイシャは、コンバットナイフを握りしめて、レボラックに向かっていった。
「負けてたまるかあっ!!」
「ネイシャ!!」
セシルは娘を止めようと必死に手を伸ばしたが、すくんでしまった足は、びくとも動いてくれなかった。
「ネイシャ、ネイシャ、ネイシャ……!!」
セシルは、腕だけで這いずり、祭壇から転げ落ちた。バジがあわてて支えたが、振り払い、動かない膝でにじりよりながら前に進み、号泣して地に伏せた。
「ネイシャ――!!」
もう、許しておくれ。
セシルは腕を地に打ち付けて咆哮した。レボラックと同じ咆哮を。
あなたも苦しんだ。私も苦しんだ。
あなたも、愛する息子を殺されて、家族も殺されて、すべてを失った。
私も、ネイシャ以外はすべてを失った。
ネイシャは、あなたの息子の子でもあるんです。
どうか、ネイシャだけは助けて。
セシルの祈りもむなしく、セシルはめのまえで、ネイシャの小さな身体が空中を舞うのを見た。
レボラックの角に、高々と弾かれて。
セシルの絶叫が、天を突いた。
彼女は立ち上がっていた。コンバットナイフを両手でつかみ、泣き叫びながら、レボラックに向かっていった。
セシルの身体を衝撃が襲った。セシルは地面に叩きつけられ、倒れ伏したまま、見えない目で、ネイシャの身体をさがした。
――意識を失うまで。
ネイシャが飛び出してき、それをセシルが追い、ふたりともレボラックに弾かれたのはほんとうに一瞬の出来事だった。
「ネイシャ!」
ピエトが飛び出しかけて、アズラエルに襟首をつかまれた。
まだ、儀式は終わってはいないのだ。




