225話 盲目のイルカと勇敢なシャチ 1
ルナたちが帰路についたのは、明け方の午前五時だった。
呪いを解く儀式をいつ行うか、セシルたちにどう話すか、レボラックはどうやって譲り受けるか――話し合っていたら、夜が明けてしまったのだ。
リズン前の公園にあるシャイン・システムから出て、コンビニエンスストアに寄った。そこで熱いコーヒーや、サンドイッチ、おにぎりを買い込んで、軽い朝食にした。
公園はめのまえなので、公園のベンチでパンの包みを開けた。
ランニング中の老齢夫婦が一組通っていったきり、公園にはだれもいない。
昇りたての朝日がまぶしかった。今日も暑くなりそうだ。
ピエトはすっかり熟睡しきってアズラエルに背負われていたが、ルナもミシェルも目は冴えていた。眠いことは眠かったが、頭だけが高揚していて、眠れないという状態だ。
ルシヤは、この仕事が終わるまでルナのそばにいると言った。目は赤かったが、しっかり起きている。
「……おまえがあの女呪術師に唱えた呪文は、なんだったんだ?」
アズラエルがやっと聞いた。クラウドは苦笑し、「あれは名前で、呪文じゃないってば」と笑った。
「エラドラシスの一族は、名前ってものをすごく重んじる。俺が言った言葉を翻訳すると――そうだな、エラドラシス一族のうるわしき姫、パジャトゥーラ星のモヘンダリ区、ラージャ村のマミカリシドラスラオネザさん、父の名はカムトゥーラケムトゥーラカリンジャココラスラ、母の名はクゥリカリモホダンジョザリクザリク、弟の名はテモドゥペペヤートラドンド、カムカムチムの家の隣で、カラリヤ聖拝堂がちかくにあって、……っていうふうに、彼女の個人情報を名前に積み上げていくんだ。まァ、俺たちはここまで個人情報を調べられれば戦慄するけど、彼らにとっては、どれだけ自分を知ってくれたか、名前をコテコテに飾りあげられることが、最高の栄誉であり、祝福なわけ」
「エラドラシス人は、けっこう名前が長いからな」
ルシヤもラップサンドを食べながらうなずいた。
「電話に出たとき、名前が長くて聞き取れないんだ。でも、ちゃんと覚えないと不機嫌になる」
あんな長い名前、一度に覚えられるか! と憤慨したルシヤに、カレンは笑った。
「それであんた、彼女の家族構成だの、出身星だの、いろいろ調べてたわけか」
そして、納得したようにうなずいた。
「いや、でも、俺もまさか、あそこまで喜んでくれるとは思わなかった――がんばってフルネームで呼べば、心証はよくなるかなって程度で、ここまでの結果を予想してはいなかったよ」
肩の力が抜けたようなため息が、クラウドの本音を語っていた。
「夜の神様が、君を名指ししたわけが分かったね。あんなに長い名前、暗記するのも一苦労だ」
セルゲイも感心して、一番先に、クラウドにサンドイッチとコーヒーを渡した。彼だけが、昨日の朝食以降、なにも食べていないのだ。
クラウドは礼を言って受け取り、
「セシルのうちに行くにせよ、呼ぶにせよ、まだ早すぎる時間だな――ミシェル、もう一度K33区に行く時刻まで、寝てもいいよ」
一晩かそこらの完徹などものともしない軍人たちは平気だが、普段から規則正しいほうのミシェルとルナは眠そうだ。クラウドはそう言ったが、ネコとウサギは目をこすりながら首を振った。
「ウチに帰って、一回シャワー浴びて、着替えよう。いろいろやってるうちに、時間なんてすぐきちゃうよ」
ミシェルは鮭のおにぎりを三つも食べて、元気よくそう言った。ルナはたらこのおにぎり二つ目に手を伸ばしてアズラエルに叱られた。
「栄養が偏るから、同じものばかり食うなって何度いや分かるんだ――九時ころならかまわねえだろ――そのころにはペリドットとベッタラも来るって?」
ルナは懲りずに、アズラエルからたらこのおにぎりをすべて奪い、嬉々として包みを開け始めた。アズラエルはあきらめた。
「そうだね。――全部の都合がうまくつけば、今夜にも、呪いは解ける」
セルゲイは、サンドイッチだと思って齧ったそれがツナマヨおにぎりだったことに気付き、顔をしかめたが、残さず食べた。セルゲイも眠いらしい。
コーヒーを取り落としかけて、さっと手を出した九庵のおかげで浴びずに済んだ――「ありがとう」といったら、「いいえ、こちらこそ。今日のひとり目です」と微笑まれた。
「じゃ、俺も、いったん仮眠取るかな」
好き嫌いなく、サンドイッチ五つとホットドッグ三つを片付けたグレンも、伸びをした。
ルナは結局たらこのおにぎりをふたつ食べ、「生たらこおにぎりおいしい!」と叫んで三つ目に手を伸ばし、食べきれなくて半分残したあと、苦々しげなアズラエルの視線を受け止めながら、ルシヤがそれを片付けた。
それを見届けたあと、すっくと立った。
「アズ、あたし、真砂名の神様に、さいごのお願いに行ってくる」
「あ?」
ルナはシャイン・カードを手にしていた。
「戻ってきたら、お風呂に入って、着替えます! すぐもどるね」
そういって、ぺぺぺっと走っていく。
「ルナ! あたしもいく!」
ミシェルも後を追った。ルシヤも追おうとしたが、なんと、九庵に止められた。
「わたしはルナのボディガードだぞ! いつでもついていなくてどうするんだ!」
「あなたは一旦、仮眠を取りましょう」
「寝なくても平気だ!」
「無理をつづけるんじゃなく、肝心な時にベストな状態でいるのが、ボディガードの仕事ですよ」
九庵は言った。ボディガードの仕事については、彼のほうが先輩である。ルシヤは渋々、従った。本番は、これからなのだ。
「最後の神頼みは、ルナちゃんたちに任せよう」
クラウドは笑いながら、最後のサンドイッチの包み紙を開けた。
「俺たちも、まだやることがたくさんあるよ」
家に戻って、ピエトとルシヤをベッドに押し込んだアズラエルは、シャワーを浴びて着替え、エスプレッソの粉をマシンにぶち込んで、新聞を眺めた。できあがった濃いエスプレッソを舐めている間に、カレンとクラウドが部屋に来た。セルゲイとグレンは仮眠をとるから、八時半には起こしてくれとのことだった。
目覚ましは、ちこたんが引き受けた。
クラウドがテレビをつけて、ニュースチェックをはじめる。カレンは、ちこたんが入れてくれたエスプレッソを手に、ソファに座った。
三人、何をしゃべるでもなくリビングでうとうとしたり、テレビを見たりしている間に、ルナとミシェルが帰ってきた。
ミシェルは、「着替えてくる」といって一度顔を出してから、自室に戻った。ルナはなんだか、思いつめた顔でぼうっと廊下に佇んでいたので、カレンが声をかけた。
「どうしたのルナ――おみくじとか、よくない結果でも出た?」
「う、ううんっ」
ルナはあわてて、首と両手を振った。
「そういうんじゃないけど――クラウド」
「ン?」
クラウドが、新聞に向けていた顔を、ひょこんと後ろに向けた。
「あ、あの――サ、サルーディーバさんも――呪いとか、解けるのかな――?」
「え?」
ルナのつぶやきは小さく、テレビの音量は大きかったため、ソファにいただれもがルナの言葉を聞き取れなかった。
「ルナあ! 俺、いつのまに寝てた!? ぜんぶ終わっちゃった?」
ピエトが起きてリビングに現れたので、ルナの質問はそこで終わってしまった。
「だいじょうぶ。まだ終わってないよ。セシルさんたちに説明するのはこれから」
「よかった~、俺、いつ寝た? ずっと起きてるつもりだったのに」
ルナは、ピエトに簡単な朝食を作るため、キッチンに向かったが、有能なルナの秘書であるちこたんが、すでに見事な朝食をつくりあげていた。
『ピエトさんは、バナナヨーグルトでよろしいですね?』
「うん! ルシヤは? 帰ったの?」
『ルナさんのお部屋でお眠りになっています』
「ルシヤって、いつまで起きてた?」
『ちこたんには、分かりません』
ちこたんとピエトの会話で、ますます聞き取れなかったカレンが、アズラエルに聞いたが、彼も聞こえなかった。
「ルナ、いまなんて言った?」
「分からねえ。――大切なことなら、あとで話すさ」
ルナの言葉をすべてとはいえないが、拾うことができたのは、読唇術ができるクラウドだけだった。
(サルーディーバ? ルナちゃん、真砂名神社でサルーディーバに会ったのか?)
クラウドは言葉にはしなかったが、ルナの様子がおかしいことは気づいた。
ミシェルが戻ってきたので、クラウドはこっそり聞いてみたが。
「え? サルーディーバさん? あたしたち、真砂名神社ではだれとも会わなかったよ」
「……」
ミシェルが嘘をついているのでもなさそうだった。
いつのまにか午前八時になっていた。
セルゲイとグレンも、ちこたんが起こすまえに部屋にやってきてしまったので、クラウドは、このことの追及は後回しにした。
サルーディーバ拒否症候群のアズラエルに、この名前を聞かせるのは避けたいクラウドだ。今は、どんな些細なことも、おおげさに取り上げられかねない緊迫情勢にある。
(サルーディーバも、呪いを解けるのかなって?)
ルナは、真砂名神社でサルーディーバに会った? 彼女が、セシルたちの呪いを解いてやるとでも、言ったのだろうか。
(でも、“ただ”それをいわれただけなら、ルナちゃんは喜び勇んで報告してくるはずだ。ミシェルが知らないってこともない。ルナちゃんはミシェルと真砂名神社に行ったんだから、一番にミシェルに話すだろうし、サルーディーバをここへ連れてくるだろう)
クラウドには、すっかり見当がついた。ルナの顔が暗かった理由だ。
(――もしかして、“セシルたちの呪いを解いてやるから、アズラエルと別れろ”とでもいわれたのかもしれない)
クラウドは、冷静に分析した。
(サルーディーバは、もうそこまで追い詰められているのか)
ペリドットは放っておけといったが、放っておける段階では、もはや、ないのかもしれない。
(でも、まずは、セシルたちのほうが優先事項だ)
クラウドは、このことが一件落着したら、サルーディーバの動向も監視する必要があるかもしれない、と思った。
午前八時半には、ペリドットとベッタラがやってきた。
ペリドットは、これが最後だというイジムの束を、ルナたちの部屋で燃した。
イジムの香りがすっかり部屋中に満ちたころ、セシル親子は、呼ばれるままにルナたちの部屋に来た。
「ほ――ほんとうなのかい? あたしたちの呪いを解く方法が見つかったって――」
ネイシャの肩を抱きながら、セシルは緊迫した顔でそう聞いた。なかば疑い――なかば、希望をともした瞳で、クラウドを見つめながら。
「ああ。君たちの呪いは、エラドラシスの呪術師で、マミカリシドラスラオネザというひとが解いてくれる。エラドラシスは、すべての原住民の祖であるラグ・ヴァダの女王につかえた神官の末裔だから、ケトゥインやエラドラシス、アノール、原住民の種類も関係なく、すべての呪いを破る術を知っているんだ」
クラウドの言葉に、セシルは「――ああ!」と声にならない声を上げて、ネイシャを抱きしめた。ネイシャも、涙に潤んだ目で母親を抱きしめた。
皆が心配していた拒絶は、いまのところ、なさそうだった。
「それは――いったい、どんなものなんだい? あたしたちは、何かすることがあるかい? いったい、なにをしたら――」
「セーシルは、強い気持ちを持ってください」
クラウドではなく、ベッタラが言った。
「セーシルは、呪いに怯えてはなりません。どうか、あなたに呪いをかけねばならなかった、ケトゥインの術者を憎まないでください。彼の無念を、想ってください」
「――え?」
セシルは目を見張った。
「セーシルもネーイシャも、ワタシを見守っていてください。ワタシが、“呪い”を破ります」
炎が、イジムを燃やし尽くした。イジムの枯草は、普通の草のように炭になって残ることはない。すべてが消え去るのだ。黒い煤、ひとかけらも残さずに――。
ルナはそれを見て、セシルたちの真っ黒な“もや”が、かけらも残さず消えることを想像した。




