219話 セシルとネイシャ Ⅲ 1
「やあ、遅れてごめん」
ミシェルの部屋のリビングで、ちょうど皆にコーヒーが行きわたったころ、インターフォンが鳴ったので、アントニオが代わりに出た。アントニオが玄関から連れてきたのは、ルナも見覚えのある男だった。
「バジさん!」
名前を叫んだのは、ピエトだった。彼ははじめて会ったとき、オレンジ色のダウンパーカーを着ていたが、今はオレンジ色のTシャツだった。オレンジが好きなのだろうか。
「この中で初めましては、君だけかな」
バジと呼ばれた四十代のにこやかな男は、流暢な共通語で、ミシェルに手を差し出した。
「初めまして。バジです。L47出身のケトゥイン族だ」
「ケトゥイン……」
ミシェルも、彼がなぜここに呼ばれたか分かったようだった。ちこたんは、コーヒーをもうひとり分、カップに注いで、持ってきた。
バジは「ありがとう」とちこたんに礼を言って、カップを受け取った。
「悪気が残っていたのは、隣の部屋だったから行ってみたんだが、ペリドット様はこっちにいるって聞いて」
部屋の中はすごい有様だったね、と彼はおおげさに肩をすくめた。
「やはり、ケトゥインの呪いか」
ペリドットが聞くと、バジははっきりとうなずいた。
「間違いない。かなり、強力な呪術だ」
「ネイシャが、どうかしたの」
ピエトは賢い子だ。ペリドットの「呪いの元凶を探せ」という言葉も、ベッタラが、ネイシャの帰って行った裏口を見て、「もう帰った」というのも聞いていた。
この大事態の元凶がネイシャだと、気づきかけていた。
「ピエト、落ち着いて聞くんだ」
ペリドットが、めずらしく優しげな声を出した。
「ネイシャ、という少女は、ケトゥインの呪いに侵されている」
「ええっ!?」
彼らが話をしている最中にも、バジは、ベッタラといっしょに、持ってきた草花を、金属のたらいに入れて、火をつけていた。
「暑い中悪いけど、窓を開けて、換気扇を回して」
バジが言った。
「イジムか」
「いじむ?」
「魔除けだ」
ペリドットの言葉をルナがひろった。枯草が燃えているのに、草が焼ける匂いはせず、ペパーミントのような清涼感ある芳香が、部屋じゅうに漂った。
「なんだ、この匂い」
アズラエルたちが、隣室からやってきた。やっと目が覚めたらしい――ピエトとミシェルの怯えた顔を見て、四人はさすがに、セルゲイが言ったことを信じざるを得なかった。
まったく覚えていないのだが、互いに「殺してやる」と罵り合って、殴り合い――ペリドットたちが来てくれなければ、確実に死人が出ていた。ほぼ全壊の部屋と、破れた服や、あちこちすり傷だらけの身体が、確たる証拠だった。
四人は、すっかりつかれた顔で、ルナたちに謝った。
「ごめん――マジ、怖い思いさせた」
一番落ち込んだ顔をしていたのはカレンだ。ルナがぎゅっとカレンを抱きしめると、ようやくカレンの顔に、色がもどった。
「俺たちに、いったい何が起こったんだ」
ピエトに怯えた顔をされたアズラエルとグレンも、さすがにショックだった。抱き上げようと手を伸ばしたら、ピエトはルナの後ろにさっと隠れた。
アズラエルは硬直し、グレンがしゃがみこんで、ピエトと視線を合わせた。怯えさせないように離れた位置から。重ねて、ピエトに謝る。
「ほんとうにすまなかった――俺たちは、そんなに怖かったのか」
ピエトは涙目で、うなずいた。グレンは嘆息した。
アズラエルも膝をつき、顔をぬぐってから、「すまん、ピエト」と詫びた。ピエトはうなずいたが、ルナの後ろから出てはこなかった。
クラウドなどドン底だった。ミシェルがこっちを見てくれないのだ。
『今後は、こういった時の対策を、ちこたんにセッティングしておくべきです』
ちこたんは憤慨し、断固として言った。
「ああ、その通りだな」
とアズラエルは肩をすくめた。
「次回は遠慮なく、俺たちに電気を食らわせて失神させてくれ」
『アズラエルさんは、ちこたんに電子レンジを投げつけました』
「マジか……。悪かったよ」
アズラエルは、自分がやったことを覚えてはいないが、顔を覆って反省した。半壊状態になったキックを見たクラウドの悲鳴を、先ほど聞いてきたばかりだ。
おまけに、ミシェルには無視されている。しおれたナメクジよりひどい有様だ。
「頭がすっきりするだろ」
「こんないい匂い、はじめて嗅いだ」
カレンが、たらいに近寄ってくんくんと嗅ぐ。そうして、草を燃やしている男の顔に気付いた。
「あれ? あんた、K33区の駐車場であった――」
「バジだ。覚えていてくれてうれしいよ。カレンだよね?」」
三人の中で、アズラエルたちに変わらない態度を示してくれたのは、ルナだけだった。
めずらしく冷静なウサギだ。
ルナは四人の手をかわるがわる握って、
「たいへんなことがおこったんだよ」
と、慰めのような、事実であるだけの言葉のような、を口にした。四人は、返す言葉もなく、ルナの手を握り返した。
人数が増えたので、ちこたんはまたコーヒーを取りに行ったが、『一杯分しか残っていません。コーヒー豆の在庫も切れています』と言った。
「この四人の分はいらない。まだ片づけ終わってないしね」
四人は神妙に、閻魔大王のペナルティーを受けた。ミシェルとピエトの笑顔を取り戻すためなら、自力で掃除くらい、コーヒーがないことくらい、なんでもない。
「昨夜、ZOOカードを開けたら、真っ先に“真実をもたらすトラ”がやってきて、俺に事の次第を話して聞かせた」
相変わらず前置きのないペリドットの台詞だ。
「俺に、真っ黒なもやに包まれたカードを見せて、ルナが困っているから調べてみてくれ、とだな」
「もや?」
クラウドが口を挟んだが、ペリドットは無視して話をつづけた。
「トラは、呪いだと言った。まあ俺もそうだと思ったので、K33区にいる連中を片っ端から集めて、『この黒いもやが見えるか?』と聞いた。見えたのは、ケトゥイン出身の奴らと、エラドラシス出身のマミカリシドラスラオネザだけ」
ルナは舌をかみそうな名前だと思ったが、冗談を言える空気はまだ戻っていなかったので、黙っていた。ペリドットも舌をかみそうなのか、次からは略した。
「マミカリシ……はエラドラシスの呪術師だから、“もや”が見えるだけであって、“もや”がエラドラシスの呪術であるかどうかは分からないと言った。ケトゥイン出身の奴らは全員見えた。だとすれば、ケトゥインの呪術である可能性が高い」
「ちょっと待ってくれ。その、“もや”のカードってのは」
クラウドが、詳しく知りたくて食い下がる。
「ネイシャちゃんです」
ルナがはっきりと言った。昨夜、ルナから話を聞いていたミシェル以外は、みな驚きを露わにした。
「じゃあ、あいつが言っていた、母親がケトゥインの呪いにかかってるっていうのは、ほんとだったのか」
アズラエルの言葉に、ベッタラとバジは顔を見合わせた。
「自覚はあるんだな。呪いにかけられてるって」
「“男”にまつわる呪いだ。あの親子は、“男”に苦しめられ、やがて滅ぼされるという呪いがかけられている。“真実をもたらすトラ”にわかることは、今のところそれだけだ」
ペリドットのつけたしに、ミシェルは息をのんだ。
「じゃあ、あの子の腕のあざは――もしかしたら、ほんとに」
ミシェルのつぶやきを拾ったペリドットが、今度は問い返した。
「腕のあざ?」
ミシェルは、おずおずと、ネイシャが暴力を受けているかもしれないという可能性を、話した。彼女の腕には、いくつも青あざがあった。
それは、クラウドたちも確認していたことだったので、だれも否定はしなかった。
「まず、間違いはないだろう」
ペリドットは可能性を確定させた。
「あの“もや”はな、人の悪意をむき出しにさせる作用を持っている」
「え?」
「つまり、ネイシャとその母親に相対したものは、身体の奥底から、暴力性と悪意を引きずり出されるんだ。それが親子に向いた場合は、親子が害される。親子がその場から姿を消した場合や、いない場合、“もや”に当てられた周囲の人間は、争いをはじめる――おまえらが、さっき直に経験しただろう?」
アズラエルたちは、自分たちの争いを、まったく覚えていなかった。ただ、腹の底から、訳も分からない憎しみが沸き起こってきて、どうしようもなかったのを覚えている。だれでもいいから、手あたり次第、傷つけたかった。
悪意の真っただ中に、放り投げられたような感覚だった。
カレンは、ぞっとして、自分を抱きしめた。
理性もなにもない――自分が何をしたか、記憶がないのだ。
「ちょっと、待ってよ!」
ピエトが叫んだ。
「俺、ネイシャも、ネイシャの母ちゃんも、大好きだ! 憎しみなんかわかねえよ」
「“呪い”が作用するのは、“成人男性”だけだ」
「!!」
「だから、ルナやミシェル、ジュリは大丈夫だっただろう? ピエト、おまえも子どもだから平気なんだ」
「あたしは、成人男性の部類に属してたってことだね」
カレンがため息交じりに言った。
「なるほど……」
クラウドがつぶやいた。
「ピエトとネイシャちゃんが通ってる学校は、校長も女性で、比較的女性の教師が多い。……だから、無事だったのか」
だから、学校ではトラブルが起きずにすんでいた。
「算数の先生は、じいちゃんなんだけど、なぜだかネイシャにきつく当たるんだ。いい先生なのに」
ピエトは、思い出したように言った。
「おまえら、ネイシャが、なんとなく可愛くないガキだと思ってなかったか。悪い子じゃない。なのに、気に食わないガキだと」
ペリドットの台詞は、アズラエル、グレン、クラウドの男性陣が大いに思い当たった。
食事の間はよかった。そんなふうには思わなかった。それは、先ほどのペリドットの言葉を借りれば、「セルゲイがいたから、呪いの作用が抑えられていた」ということになるのだろう。
だが、セルゲイのいないところで個人的に相対すると――呪いの作用が働いてしまう。
「君たちは、昨夜、たいそう大人げなかったよ。ネイシャちゃんの悪いところを掘り出すような言い方をして」
セルゲイが閻魔声でいうと、みんな、居心地の悪そうな顔をした。
「でも、ルナを睨んでいたって言うのは――」
ほんとうだ、とグレンが言い訳がましく言うと、ルナのウサ耳がびんっ! と立った。
「睨んでたんじゃなくて、きっとあたしとお話したかったんだよ!!」
昨夜、ルナはゲームをするんじゃなかったと、今の話を聞いて思い始めていた。食事のときも、ゲームのときも、「おやすみなさい」とあいさつしたときも、ネイシャは、ずっとルナのほうをじっと見ていた。ルナが目を合わせると、恥ずかしそうな顔でうつむく。
なにか、話したいことがあったのではないかと、ようやく気付いたのだ。
もしかしたら、あれはネイシャなりのSOSだったのかもしれない。
「おまえら、相当、呪いの毒気に当てられたようだな」
ペリドットは言い、
「アントニオ、あれはどうなってる」と傍らの相棒に顎をしゃくった。
「今日の夕方には、できあがるんじゃないの」
「いいか、おまえら」
ペリドットはためいきをつきながら言った。
「“夜の神”の神力がこめられた守りをいくつか用意した。アズラエルとグレン、カレンとクラウド。おまえらは、ネイシャという少女と相対するときは、その守りを身につけろ。それで、守り袋はルナ、セルゲイ、お前が真砂名神社に受け取りに行け」
「あ、あたし!?」
「おまえが来ると、夜の神のテンションが上がる。つまり神力も上がる」
セルゲイはなんとなく、両手で顔を覆った。
「それで、ここからが本題だ」
ペリドットが――彼にしては、すこしためらいがちに言った。
「――残念だが、あきらめろ。あの“呪い”は解けない」
「えっ」
ルナとピエトは、青ざめた。
「二人と、関わるなとは言わない。おまえらふたりに呪いは作用しないからな。だが、昨夜からケトゥインの男衆総出で調べているが、ケトゥインの呪術っていうのは、知られているだけでも千以上はある」
「なくしものを探したりとか、天気予報とか、簡単で悪意のないものから、人を呪い殺すものまでさまざまね……。それは、L系惑星群各地に散ったケトゥイン族の数だけ、ものすごい数が存在するんだ。とてもではないが、調べきれない」
バジが続け、ペリドットも言った。
「そしておそらく、あの親子は、何の呪いをかけられたかは分かっていても、それを話せない呪術もいっしょにかけられているだろう」
つまり、彼女たちに、どんな呪いをかけられたかくわしく聞き出そうとしても、本人には、説明ができない。
それでは、八方ふさがりではないか。
ルナはうつむいた。
「術の種類がわかっても、それを打ち消す方法があるのかどうか――打ち消す方法が、ない場合もある。だから、触らないでおくのが一番なんだ。残念だけれども……」
バジも、気の毒そうに言った。
「ちょっと待ってくれ」
ストップをかけたのはクラウドだった。
「ネイシャちゃんの母親――セシルが、いつごろ、どこのケトゥインに術をかけられたか分かれば、調べやすくなる?」
原住民一行は顔を見合わせた。
「それが分かり得る方法を、分かり得るのですかクラウド!」
ベッタラが、叫んだ。
クラウドは、頭をつかう場面が出てきて、急に水を得た魚のように生き生きとした。それに、そんなつもりはなかったが、小さな少女の素性を興味本位で探ろうとした――クラウドなりの、罪滅ぼしのつもりでもあった。
「よし――まず、情報を総括しよう。ネイシャの母親の名は、セシル・V・オズワルド。二十九歳だ。職業は傭兵。認定ではない」
バジが、メモ帳に書き込んだ。
「ネイシャは十二歳。つまり、セシルは十七歳のときに、ネイシャを生んでいるんだ。――つまり」
「――あ」
アズラエルも思いついたようだった。
「セシルがネイシャの父親と会ったのは、最低でも十六歳。これは推定だけど、セシルは孤児か、親がやってる傭兵グループにいて、学校に入っていない。認定じゃないってことも、理由になるんじゃないかな――なぜなら、普通その年頃の傭兵は、学校に行っていて、原住民と接触する機会なんてない。――ケトゥインの男とね」
「どういうこと?」
ルナとミシェルが顔を見合わせた。
「ネイシャの父親は、ケトゥイン族の男だ。なぜなら、ネイシャが、ベッタラと同じ髪の色だからだ。このアイビー・グリーンは、ケトゥインか、ラグ・ヴァダか、アノールにしか表れない特別な髪の色なんだ」
クラウドは劣性遺伝といいそうになってあやうく留まった。
ベッタラは、自分の髪を、もしゃりとつかんだ。
「ワタシと――同じ」
「それが分かれば、術の種類も絞られてくる!」
バジが興奮して、メモを握りしめた。
「おそらく、セシルと、ケトゥインの男との結婚は、男の身内に反対されていた――」
「そうか! そうか! わかったぞ、それで、“男”にまつわる呪いを――」
「ピエト、セシルが席を置いてきた傭兵グループの名前をひとつでも、分かる?」
「えっと」
クラウドの問いに、ピエトは迷うような顔をしたが、
「ぜんぶは知らねえけど、ネイシャの母ちゃんが育ったとこなら知ってる」
「どこ!?」
「どこだピエト!!」
大人たちに詰め寄られ、ピエトはルナにしがみついた。
「うちのこをおびえさせないでください!」
お母さんの一喝に、男たちは一歩二歩、下がった。
「レッド・アンバーって、名前……」




