218話 セシルとネイシャ Ⅱ 3
案の定――次の日の朝の、アズラエルとクラウドの機嫌は、最悪だった。
ふたりの機嫌だけではない。グレンたちの部屋を斡旋したカレンにも、二人の怒りの矛先が向かったため、カレンも激怒してしまった。それを止めに入ったグレンの胸ぐらをつかみ、アズラエルが殴り掛かりそうになったためにセルゲイが止めに入り、一発やられた。怒ったカレンが、アズラエルを殴り、クラウドがカレンを殴った。
ふっとばされて壁に激突したカレンを見て、ジュリが泣き出した。
「やめて! カレンになにするのよクラウド!」
ジュリがカレンを抱きしめたが、そのジュリを突き飛ばし、カレンがクラウドにつかみかかった。
大事態を察知したちこたんが、電磁波で全員気絶させようとしたが、それをいち早く察したアズラエルが、なんと電子レンジをちこたんに投げつけた――それをキックがかばい、変な電子音を発して動かなくなった。ちこたんは慌てて、キックを抱えて別の部屋に移動した。
そして、すぐさま戻ってきて、「緊急事態です! 緊急事態です!」とエマージエンシーを発して、ルナたちを避難させにかかった。
さすがに、ルナも蒼白になった。
みんなで暮らし始めて、ここまで派手なケンカが勃発したことはない。
アズラエルがセルゲイを殴るなんて。
それに、クラウドがカレンを。
「いったい、どうしたんだみんな! やめなさい!」
セルゲイだけは、冷静にみんなを止めているが、グレンとアズラエル、カレンとクラウドは、殺し合いに発展しそうだった。
「ピエトとネイシャちゃんは部屋にいなさい。中から鍵を閉めて」
ルナは、二人にそう言い聞かせて、ネイシャに謝った。
「ごめんね、せっかく遊びにきてもらったのに……ふだんは、こんなこと、ないの」
ピエトも青ざめていた。みんな、口が乱暴なところがあるし、軽いいざこざはめずらしくもないが、本気のケンカはなかった。ピエトだけではない、こんな事態に出くわしたのは、ルナもはじめてだ。
ネイシャは、ずいぶんと冷静だった。
「こういうの、慣れてるから大丈夫」
ルナは彼女の言葉に何か言おうとして――ミシェルがいないのに気付いた。今日はルナたちの部屋にきていないのだ。
ルナは、急いでちこたんとともにミシェルの部屋に向かった。内側から鍵がかかっている。
「ミ、ミシェル、ミシェル――だいじょうぶ?」
不安になってインターフォンを何度も押した。だいぶしてから、目を真っ赤にはらしたミシェルが出てきた。
「ルナあ……!」
ルナの嫌な予感は当たった。
「ク、クラウドが……! クラウド、が、」
ミシェルはかつて、ロビンと一夜だけ、浮気をしてしまったことがある。未遂ではあったが、今朝のクラウドは、そのときのクラウドみたいになってしまったのだと彼女は泣きながら言った。
ある意味、“あの”クラウドは、ミシェルのトラウマになっているのだ。
「な、んか、……なんか変だった、クラウド……わかんないけど、なにか」
ルナは、ミシェルの言うことがすごくよく分かった。
なぜかみんな、ひどく怒りっぽくなっている。罵り合う言葉も、尋常ではない。
(まるで)
人が変わってしまったようだ。
ガシャーン!!
隣から聞こえてきた、家具が破壊される音に、ルナとミシェルは身を縮めた。
「ど――どうしたの。ケンカ?」
クラウドとカレンが「殺してやる」と叫びあっていることなど、ミシェルに言いたくなどなかった。
ふたたび、何かが壊れ、割れる音がした。
怖くて、足がすくんで、動けない。ミシェルも、顔色を失っている。
「ど、どうしよう、ミシェル」
このままでは、みんなそろって宇宙船を降ろされてしまうかもしれない。――いや、それ以上に最悪なことは。
彼らが、ほんとうに相手を害する気でケンカなどしたら。
『警察に通報します』
さっきからちこたんがそればかり言うので、ルナは何度も止めていた。
「け、けいさつ……ちこたん、ちょっと待って」
「そうだよ! ちょっと待って――ほかに、だれか」
彼らを止められそうなだれか。バグムントさん、ラガーの店長さん、チャンさん、……ルナとミシェルは名前を言い合い、携帯電話を握りしめたとき。
一台のタクシーがアパート前に停まった。
そこから出てきた人物を見て、ルナもミシェルも、多分ちこたんも――涙が出た。
「ペ、ペリドットさん……!」
「やはり、“呪い”の毒気にあてられたか」
タクシーから次々に出てきたのは、ベッタラとニック、そしてアントニオだった。
「よしよし、もうだいじょうぶだよ二人とも。――俺たちが呼びに来るまで、この部屋にいなさい」
アントニオは、二人と一台、まとめてぎゅっと抱きしめてくれた。
「アントニオ……!」
「だいじょうぶ!」
ルナもミシェルも、ほっとしたように彼の背中にしがみついたが、アントニオは二人を安心させるように頭をなでて、すぐ隣室に向かった。
ペリドットたちは、部屋に入ると、殺し合いに発展している男たちをそれぞれ、一撃で沈めた。
ペリドットは、入り口付近にいたクラウドのうなじを手刀で一発。
ニックは「ごめんね」と謝ってからカレンのみぞおちに一発。
「情けないですよ、アーズラエル!」のセリフとともにベッタラが、アズラエルの腹に重い一撃。
グレンにパンチをよけられて反撃されたアントニオだったが、グレンの後頭部をフライパンでなぐったセルゲイのおかげで、やっと腹に一発ぶち込むことができ、気絶させた。
「よし、“呪い”の元凶をさがせ」
ペリドットの合図で、ニックたちは「ごめんね、緊急だから、勝手に開けさせてもらうね」とことわって、部屋のドアを開け始めた。ベッタラが、子ども部屋のドアを開けようとしたが、開かない。
「だれか、この中に存在していますか!」
「ベッタラ?」
内側から、鍵が開いた。涙で頬を濡らしたピエトがそこにはいた。ベッタラの顔を見ると、ほっとしたようにしがみついてきた。
「ピーエト、ここに、ほかのだれかがいませんでしたか」
ベッタラは、部屋に渦巻く、禍々しい瘴気に顔をしかめながら、ピエトを安心させるように抱き上げ、背を撫でた。
「ネイシャもいたけど――危ないから帰ってもらった。裏口から」
一階の部屋には、両方とも勝手口があった。
「……そうですか」
ベッタラは瘴気が流れゆく方を目で追い、ペリドットに向かって叫んだ。
「もういません。帰ったようです」
「――よかった。君たちが来てくれなかったら、俺もあのケンカに参加しちゃってたかもしれない」
セルゲイは、殴られて痛む頬をさすりながら、疲れた顔で言った。
セルゲイは、泣きじゃくるジュリを守るのに必死だった。アズラエルたちが投げつけあう食器や家具が、ジュリに当たりそうなこともあって、彼女のそばを離れられなかった。ようやく彼女をキッチンの奥に隠し、彼らを止めに入っても、だれも聞く耳を持たない。
こんなことは、今までなかったことだった。
部屋はぐちゃぐちゃだった。ガラス棚は完膚なきまでに破壊され、中の食器もほとんど落ちて割れている。ルナとちこたんがせっかく作った朝食も、ぜんぶ床にぶちまけられていた。
恐ろしいことは、アズラエルが包丁を手にしていたことと、だれが割ったのか、ダイニングテーブルが、真ん中からまっぷたつに割れていたことだった。
死者が出ていなかったのが、ほんとうに幸いだ。
「やれやれ。傭兵と軍人が集まって暴れると、こうなるのか」
アントニオが、一部崩落した壁を見て呆れ声で言い、ルナとミシェルを手招いた。
「もうだいじょうぶだよ、おいで」
「ルナ!」
ピエトはベッタラの腕から降りて、ルナに駆けより、しがみついた。ルナも、震えがおさまらない手で、ピエトを抱きしめた。
「あの……みんな、ありがとうございます」
ルナとミシェルは、半分涙声で、みなに礼を言った。
ニックとベッタラは照れ臭そうに笑い、アントニオは、もう一度、二人とピエトを安心させるように、頭をなでてくれた。
「さすが“夜の神”の化身だな。おまえのおかげで、昨夜はみな助かっていたんだ」
ペリドットは、呪術に強い“夜の神”が、呪いから、皆を守っていたのだと言った。今朝は、まずいことに、セルゲイが一番、この部屋に入るのが遅かった。
セルゲイが部屋に入ったときにはすでに、言い争いは始まっていたのだ。
「暑いだろうが、すべての窓を開けろ、瘴気を逃がせ」
ルナとミシェル、ちこたん、セルゲイは、協力して窓をぜんぶ開けた。
「セルゲイ、悪いが、おまえはここにいてくれ。おまえがここにいれば、こいつらの毒気も消える。何があったかは、あとでくわしく教えるからな」
ペリドットは言った。
「部屋を変えたい。ミシェル、おまえの部屋は?」
「だいじょうぶ――クラウドは、うちでは暴れてない」
「じゃあ、そっちに行くぞ。ああ、こいつらは大丈夫だ。ここに転がしとけ」
「起きたら、みんな忘れてるさ」
アントニオが肩をすくめて言い、セルゲイは、「俺は、一生忘れないけどね……」と低い声でぼやいた。
「イテテ……」
みぞおちを押さえながら、一番に起きたのはカレンだった。ジュリの涙顔に、半壊した室内――ゆかにぶちまけられた味噌汁の鍋を見て、カレンは開口一番、悲痛な声で、「ルナの味噌汁が!」と叫んだ。
「味噌汁をひっくり返したのは、君だよ、カレン」
黒いエプロンをつけ、食器をひとつひとつ拾い集めていたセルゲイが、苦々しい声で言った。
「――え?」
なにも、覚えていない。
「ううっ」
「いてえ……」
アズラエルとグレンも、うめきながら目を覚ました。
遅れて、クラウドが。そして、ぐちゃぐちゃの室内を見て、「――何が起こったの」と呆然、つぶやいた。
「ダイニングテーブルを割ったのはグレン、目玉焼きをひっくり返したのはクラウド、――それで、」
「床じゃ、両面焼きにはならなかったみたいだね」
フライパンでないと――クラウドの冗談は、セルゲイの手の中でバキベキボキと食器が割れる音にかき消された。セルゲイは、ひどく乱暴な調子でバケツの中に、破壊した食器の残骸を投げ入れた。
ガッチャン! 過激な音に、クラウドの肩がびくう! と揺れた。
「俺を殴ったのが、アズラエル」
そんな恐ろしいことだれがするかと怒鳴りかけたアズラエルも、セルゲイの切れた口の端を見て口をつぐんだ。
黒エプロンでしゃがみこんだまま、にっこりとほほ笑むセルゲイは、まさしく閻魔大王――いや、魔王、だった。
呪いどころでない黒炎を背負っている。
「全員、起立!」
反射的に、四人は立ち上がった。軍学時代に戻ったように。
「片付け、はじめ! クリーニング業者なんか呼ばないからね。全員、手作業でここを片付けなさい! でないと、ルナちゃんの手料理は一生食べさせないよ!!」




