217話 セシルとネイシャ Ⅰ 2
「もしかして、ヤン君じゃない?」
てっきり、この男性がアズラエルの知り合いだと思っていたルナは、シナモンの口から出てきた男性の名前に、度肝を抜かれた。
「えっ!? え、お、覚えててくれたんですか! 嬉しいなあ、シナモンさんですよね、美人だから覚えてる。そ、それで、あなたがレイチェルさんで、ルナさん」
「!」
にっこりとほほ笑みかけられて、ルナはぽかっと口を開けた。彼は、ルナのことも知っている。
「あ、あの、ご挨拶が遅れて――俺、ヤン・J・リンチョイっていいます。まえのバーベキュー・パーティーのときは、ほんとにお世話になりました――今度も、呼んでくれて、ありがとうございます」
「あっ! チャンさんの!」
ルナはやっと思い出した。前回のバーベキュー・パーティーのときに、チャンが連れてきた、白龍グループの傭兵仲間のひとりだ。
ルナは、彼にアズラエルやグレンと同じ匂いを嗅ぎ取っていたが、やはり軍事惑星群のひとだった。
ここにアズラエルかグレンがいたら、グレンがヘルズ・ゲイトにさらわれそうになったときに活躍した彼、という武勇伝がひとつ加わっていたかもしれない。
ルナは、はっと気づいた。
(もしかして――このひとが、サイさん!?)
ルナは、いっしょうけんめい彼のサイらしいところを探そうとしたが、ツノもなかったし、大きな図体以外に、サイらしき箇所を見つけることはできなかった。
夢で見た、乱暴な感じはまったく見受けられない。しかし、彼も傭兵なので、荒々しい部分はあって当然と言えた。
「どうしたの? アズラエルに用事でもあったの」
ルナではなく、シナモンが聞いた。美人だと言われた上に、相手の男が傭兵で、イケメンの部類に入るので、シナモンは超が付くご機嫌だった。
彼が、イマリと赤い糸で結ばれている相手だとシナモンが知ったら、「ええ!? イマリにはもったいない!」と大騒ぎすることだけは容易に予測できる。
「あ、あの、いえ――こ、今回は、その――ルナさんに、お願いがあって――」
「あたしに?」
ルナは、このフィナンシェ美味しいなあと呑気にかぶりついていたので、びっくりして顔を上げた。
「今日、チャンさんに内緒で来たんです。チャンさんに知れたら、研修中に、そんなことばっか考えるなって、マジ吊るし上げられるんで、内緒にしてください!」
サイさんことヤン君は、いきなりでかい図体を、ドスン! と前に倒した。土下座の体勢である。
「お願いします。俺たちに、L7系の女の子紹介してください!」
ヤン君は、大きい耳まで真っ赤だった。
予想外のセリフに、ルナたちはすぐ返事ができなかった。
彼は今なんといった? 女の子を紹介してください?
ルナはそこでやっと、彼がサイだと確信した。夢の中で、同じセリフを吐かれたのだ。ウサギがL7系の女の子に変わっただけだ。
ルナが、「イマリっていう女の子がいるんだけど」と、いおうとして、シナモンとレイチェルがいることを思い出して、口をつぐんだ。まさか、イマリが船内に残っているらしきことを、ここで言うわけにいかない。
言いたいのに、言えないジレンマ。そのせいで沈黙してしまったルナよりだれより、真剣に答えたのは、シナモンだった。
「俺たち? ってことは、五人だよね? 五人いなかったっけ、前回」
「!? は、はい! そうです、五人」
シナモンは腕を組んだ。シナモンにしては、だいぶ気難しい部類の、顔をつくってみせる。
「……なんとかなりそうだけど」
「えっ!? ほんとですか!?」
「でも、最初からつきあえるって思わないでね? 傭兵とか軍人怖いってコもいるし、ともだちからのほうが、無難だとあたしは思う。で、連れてきたコがあんたたちのこと気に入らなくても、恨みっこなしね。オッケー?」
「は、はい! オッケーです、いいです、わかってます!」
ヤンは感激のあまり、半分涙ぐんでいた。ルナは半分齧ったフィナンシェを手に、ボケっと二人を眺めていた。
「やったー! L7系のコと合コンができる!!」
ヤンの大喜びは、それはそれはものすごいものだった。テンションは際限なく上がっていた。まだ付き合うと決まったわけではなく、どんな女の子が来るのかもわからないのに、である。
「あんた含めて五人の名前と、できれば写真ちょうだい。ケータイ持ってくるから待ってて」
「はい!」
シナモンが席を立つと、ヤンは大きな手の中にある携帯電話をいじり出した。ヤンの手に比べたらあまりにそれが小さすぎて、子ども用携帯電話に見え、ルナは笑いそうになったのをこらえた。
レイチェルも、ヤンの喜びようを見たときから、言いようのない笑みを浮かべている。どちらかというと微笑ましい類の笑みだ。
ヤンが、つぶやいた。
「レイチェルさんはダンナ持ちだし、ルナさんはアズラエルさんの彼女だし、まえのときも、俺たち、可愛いって思ってたのに、声かけらんなくて、」
ヤンは顔を赤くしながら、照れ隠しか、急にしゃべり出した。
「今日も、スッゲー勇気振り絞ってきたんです。こないだ一回もしゃべれなかったし、ルナさん、俺のこと知らねえんじゃねえかと思って、入れてもらえるとは思ってなかったんで――仲間に、ぶっ殺されそう。ルナさんやレイチェルさんたちと茶ァ飲んできたなんて言ったら、――そういや、今日、ミシェルさんいませんね」
「ミシェルは、絵を描きに行ってるの」
「すげえな。あんなかわいくて、芸術家なんだ」
ルナが答えるまえに、レイチェルが答えた。
「シナモンはどうなの」
レイチェルは、前回彼らがユミコにまとわりついてチャンとバグムントに一喝され、シナモンはどう? と言われて「美人過ぎて」と遠慮していたのを知っている。
今度は、ヤンがポカンと口を開けた。それからあわてて言った。
「シナモンさんも美人ッスよ!? モデルさんみてえだ」
「ほんとにモデルなのよ、シナモンは」
「マジっすか!?」
めずらしく、レイチェルが積極的にヤンと話している。レイチェルは、傭兵や軍人が怖くて、前回のバーベキュー・パーティーのときも、彼らを遠巻きにしていた。ヤンは、身体は大きいが、優しい顔をしているし、自分たちと同年代という、話しやすい雰囲気があるからだろうか。
話が切れないうちに、シナモンがもどってきた。
シナモンは、ヤンから五人の写真と名前などのデータを受け取った。それから三十分ほど話をして、「帰りたくねえなあ」とボヤきながら、ヤンは帰って行った。
リズンでお茶をするはずだったが、レイチェルが病院に行く時間になってしまった。
ルナは、ヤンと、シナモンとレイチェルを送り出したあと、ようやく一個のフィナンシェを食べ終えた。
三人で分けたフィナンシェも、ルナの手元に五個残った。ルナは無心で、もういっこ、フィナンシェのつつみを手にした。
「……」
ルナは、ぽけっと宙を見つめ、フィナンシェのつつみを開けようとしていたが――。
「たいへんだ! シナモンが彼女紹介しちゃったら、イマリとサイが!」
フィナンシェはつつみ紙から華麗に飛び散り、ルナは一目散にZOOカードに向かった。
「うさこ!」
叫ぶと、常にお守りを置いてあるカードボックスから、すぐに月を眺める子ウサギが出てきた。
「なあに」
「イマリとサイが! イマリとサイが! サイがツノのせいでウサギが飛び散るよ!」
「落ち着いて、ルナ」
ウサギは、ルナを落ち着かせ、正座をさせてから、ひょいとその膝に飛び乗った。かつてそれを見ていたアズラエルに、「すぐ人の膝に乗ってくるとこなんかは、おまえにそっくりだな」と言われたことをルナは思い出した。月を眺める子ウサギはルナなのだから仕方がない。それにしても、ルナは、そんなに頻繁にアズラエルの膝に乗っているだろうか。
「イマリとサイさんね」
月を眺める子ウサギが、ぽん、ともふもふの両手を合わせると、カードがまたずらりと並んだ。ルナは慎重に糸をたどり、“生真面目なサイ”と結ばれている赤い糸の相手で、シナモンとも、黄色の糸でつながっている人物を見つけ出した。だが、その糸は、シナモンのほうも、サイのほうも、髪の毛のように細い。ルナは目を凝らしてやっと見つけた。
「まるで、今とってつけたような、頼りない糸ねえ」
ウサギは残念そうに言った。
「彼女は、シナモンの知り合い程度の間柄ね。そして、サイさんとも縁はあるけれど、薄いわ。これでは、三ヶ月くらいで別れるかも」
ウサギは言った。ルナはまた目を皿のようにして糸を追った。
「あのひとは? うさこ」
ルナは、サイと結ばれている、一番赤くて太い糸を見つけた。そこにあったのも、ウサギのカードだった。黒スーツを着た、モスグリーンの、真面目そうなウサギ。
「彼女がサイさんの“運命の相手”ね。彼が正式に、地球行き宇宙船の役員になったときに出会うわ。彼女も、宇宙船の役員よ」
イマリとサイの間にある糸は、朱色に近い赤だ。ルナの気持ちを知ったのか、ウサギは言った。
「サイさんは、“生真面目なサイ”。つまり、誠実よ。たとえ運命の相手に出会ったとしても、彼女に心を動かされたとしても、イマリを最初に妻に迎えていたなら、彼はイマリを誠実に愛しとおそうとする」
「……」
「サイの本命である、このモスグリーンのウサギさんも、生真面目なたちだから、イマリからサイを奪おうとは思わないでしょうね――恋心は秘めるタイプよ」
ルナは、分からなくなってしまった。イマリのカードから出ている赤い糸も、あと数本ある。だが、それらは、イマリが宇宙船に乗っていては、出会えない相手だった。
それらの糸は、イマリの姉である、“選ばれたアメリカン・ショートヘア”からつながっている糸だからだ。イマリが、実家に帰って、姉と一緒にいなければ、出会えない縁。
「うさこは、どう思うの」
ルナは困ってしまった。途方にくれて、月を眺める子ウサギに聞いた。
「そうね」
月を眺める子ウサギも、神妙な顔でカードを見つめ、それきり、黙ってしまった。
「ただいま」
アズラエルが帰ってきて、ダイニングテーブルの上に散らばっている洋菓子を見つめた。
「ルゥ。深くは聞かねえが、これはなんだ」
飛び散ったフィナンシェである。ルナは存在を忘れていた。あわてて片付けようとしたが、アズラエルは飛び散っていない大きなところを口に入れ、散らばったカスは片付けてくれた。
ルナはしずしずとコーヒーポットからコーヒーをマグに注ぎ、アズラエルに差し出した。
アズラエルはそのまま椅子に座ったので、ルナはサラダをつくる手を止めて、アズラエルの膝に飛び乗った。
「おかえり、アズ」
「サラダ作ってんじゃねえのか」
「ちょっと、考えごとをします」
ルナは、アズラエルの膝上という定位置に乗っかったまま、むずかしい顔で言ったが、電話のせいで、すぐに膝から降りねばならなくなった。風船よりパンパンの、恋人(仮)の頬を指でつつきながら、アズラエルは電話に出た。
「どうした、ピエト」
ルナは、そういえば、今日はピエトの帰りが遅いなあと、やっと気づいた。
このあいだから、ボケウサギレベルが急上昇中である。
「ン? ――ああ、いいよ――どっちがいいんだ。――ああ、どっちもつくれる。――わかった。じゃあ、気を付けて帰れよ」
「ピエト?」
「ああ。ピエトの友達だっていう、ガキがいたろ。ネイシャってヤツ。ピエトがアイツを連れてくるって」
ルナはうなずいた。
「明日、休みだし、今日泊まっていいかっていうんだ」
ルナは「いいよ」といい、それから思い出したように、「ごはん、何つくろう」と言った。
サラダはつくったが、メインディッシュはまだ決めていない。ルナの頭の中は、ZOOカードのことでいっぱいだった。
「ピエトが、ラークのシチューか、バリバリ鳥のシチューがいいとさ。どっちも、肉は冷凍してあるから、いつでもつかえる――どうした?」
「アズは」
ルナは言おうとしてやめた。アズラエルも、イマリに同情などするなというに決まっていた。
イマリの運命の相手が、たとえイマリを“殺害”するかもしれない相手であろうが、同情の余地はないと言いそうだった。
「……アズは、ほかになにが食べたいですか」
ルナは考えていることとはまったく違うことを言ったが、アズラエルにはお見通しだった。
「ルゥ」
アズラエルはふたたびルナを抱き上げると、ぽすん、と膝上に落とした。
「なにを考えてる。言え」
アズラエルは、ルナが言いたいことを我慢しているのを、すぐ見抜いてしまうのだ。このままでは、ルナが話すまで、離してくれなさそうだったので、ルナは仕方なく、口を開いた。
ルナの予想に反して、アズラエルはあきれたりしなかった。イマリに同情するなとは言わなかった。ルナが驚くほど真面目に話を聞いてくれ、「それで、月ウサギはなんて言ったんだ」と最後にルナに質問した。
「月を眺める子ウサギだよ」
「どっちでもいい――何も言わなかったのか」
「うん――何も、言わなかった」
ルナはしょぼくれた顔をした。
「あのピンクのウサギはおまえだって言ったよな」
「うん。あたし」
「だとしたら、あいつも、今のおまえと同じように悩んでるんだろうな」
ルナは、緩慢に顔を上げた。
月を眺める子ウサギが、悩んでいる?
あの、なんでも知っていて、すべてを解決してくれそうな、うさこが?
「どっちがいいかなんて、だれにも分からねえ。本人にすらもな。俺だって、運命の分かれ道なんてのは、今まで何度となくあったよ。要は、自分が後悔するか、しねえかなんじゃねえか」
「……」
「それに、おまえの話で言うなら、俺がツキヨばあちゃんに預けられたときだって、運命の分かれ道だったんじゃねえかと思う。あのときの気持ちはまるで覚えちゃいねえが、俺は、ばあちゃんと暮らすことじゃなくて、家族と暮らすことを望んだ。それが不幸だとか、幸福だとか、考えちゃいねえよ。ただ俺は、家族のもとにもどりたかった」
アズラエルは、かつてひとりだけ、ツキヨおばあちゃんのところに残された。ルナは思い出した。アズラエルは確かに、ツキヨおばあちゃんのことも大好きだった。アズラエルの家族も、アズラエルがツキヨおばあちゃんと暮らすことを望んだ。
でも――アズラエルの望んだ道は。
「あのままばあちゃんのところにいたら、俺は傭兵にはならずに、L77でおまえと会っていたかもしれねえ。でも、傭兵になる道を選んでも、こうしておまえには出会った」
「――!」
「おまえがいう“運命の相手”ってのは、どんな道を選んでも、いずれ会うことにはなるんじゃねえのか」
ルナは今度こそ、アズラエルを見上げた。
「イマリが、そいつに殺されるかどうかは――イマリとそいつの問題だ。そうだろ?」
そういって、アズラエルはルナを抱きしめた。ルナは、アズラエルの言いたいことがよく分かった。
ルナとアズラエルも、今確かに、こうして、幸せに暮らしている。
自分たちも、いつも悲しい結末を望んでいたわけではなくて、幸せになろうとしていたのだ。
イマリと“彼”も、そうでないはずはない。
「うん」
ルナはアズラエルをぎゅうっと抱きしめ返したあと、元気を取りもどしたように、アズラエルの膝から降りた。
「アズ! シチューをよろしくお願いします! あたし、サラダをつくったら、トマトのオーブン焼きをつくるから! ひき肉とチーズたっぷり! アズ、好きでしょ? ちょっとからめにしてあげるね!」
「もうすこし、もうすこし、余韻をだな……」
アズラエルは、もうすこし抱きしめていたかったので、手をワキワキさせたが、すっかり元気を取りもどしたウサギは、今ははるかかなた、キッチンの奥にいた。
「トマトのオーブン焼きと、ガーリックトーストも焼いちゃおうかな! ごはんはもうすぐ炊けますよ!」




