215話 観覧車 2
「こんにちは」
ブレアは、耳を疑った。声はたしかに、間近で聞こえたのだ。ブレアは咄嗟に目を上げたが、向かいの席にはだれもいない。
「こんにちは」
声はでも、ゴンドラ内から聞こえる。ブレアがあたりを見回し、やっと声の主を見つけた――そして、絶句した。
ブレアに声をかけたのは、間違いがなければ、この――小さなピンクのウサギだ。
十五センチほどの、ウサギの、ぬいぐるみ。
「こんにちは」
ウサギはふたたび言った。
やはり夢だ。
ブレアは思った。
ウサギのぬいぐるみがしゃべるなんて、夢以外にありえない。
ブレアは縋るように、「お願い、助けて! あたし、ここから出られないの!」と叫んだ。
この際、ぬいぐるみでもなんでもいい。
ここから出してくれるなら。
ウサギは、「あなた、さっき外に出たじゃないの」と言った。
「外に……、出ても、」
簡単に安全装置は外れる。外には出られる。だが、観覧車からは降りられない。また“スタート”から始まってしまうのだ。
ウサギは、もっともらしくうなずいた。
「ああ、ようするに、あなた観覧車から降りたいのね」
だから、そう言っているじゃないの!
ブレアはかんしゃくを起こしたが、ウサギは静かに告げた。
「このまま乗っていれば降りられるわよ」
観覧車は一定のスピードでゴンドラが円周する遊具だ。ブレアが乗ったゴンドラは、時間が来れば、下までたどり着く。
「今! あたしは、今降りたいのよ!!」
ブレアの絶叫とともに、ウサギの姿がすうっと消えかけたので、ブレアは悲壮に叫んだ。
「待って! 行かないで!!」
一度、すっかり消えたウサギは、また元の姿を現した。
「お願い……早く降りたいの。あたしもう、こんなところいや!!」
ウサギは微笑んだ。
「そうね。観覧車は退屈だものね」
ウサギは小さな頭を振った。
「でもね、とりあえず、このゴンドラが下に着いたら、降りられるわよ。観覧車に乗ったことは?」
ある。
ブレアは、リリザでも、ナターシャと初めてこの遊園地に来たときも、観覧車に乗った。
そうだ――乗っていれば、黙っていても、“ゴール”には、たどり着く。
ブレアは、ようやくベンチに座った。呆けたように。
なぜ、そんなことを忘れていたのだろう。
観覧車は、終わりがない乗り物ではない。
ブレアが百回も、“途中で飛び降りなければ”、とっくに下についていたのだ。
「そうね――観覧車が嫌なら――お化け屋敷にはライアンがいるわよ」
ライアンの名に、ブレアは即座に顔を上げた。ウサギは笑った。
「ライアンと旅する、戦慄のアトラクション! スリルは満点よ、恐怖には事欠かないわ。あなたは二度ほど銃弾を浴びて、腐った匂いのする病院で治療を受けるだろうし、その病院での治療が原因で破傷風にかかって、生死の境をさまようわね。末はL19の軍隊につかまって、拷問死。――最高に過酷だと思わない。さすがお化け屋敷!」
ブレアは絶句した。
このウサギは、いったい、なんのことを言っているのだろう。ただのお化け屋敷のことではないことは、ブレアにもわかった。
「あなたが受けるのはただの拷問じゃない――ドーソンの任務に参加した傭兵の仲間だから――骨も残らない。お父さんもお母さんも、ナターシャも助けてくれやしないわ。死ぬまで、長い長い、肉体の苦しみを味わうの。もう死んでもいいというような――そうね。“観覧車から飛び降りることも許されない。”終わりの見えない苦痛に――」
「やめて!!」
ブレアは聞きたくなくて、耳を覆った。
「ライアンは、あなたよりメリーを選ぶわ。あなたはライアンに売られて、メリーの身代わりに拷問を受けるの」
そんなのは嫌だ。
「ライアンは、あなたが必死についてくるのを見て、やがて憐憫めいた愛情を抱くわ。メリーの次に大切だとしても、あなたはほんとうに彼の恋人になれる。最期は残酷だけれども」
泣き続けるブレアだったが、ウサギはマイペースに続けた。
「じゃあ、ジェットコースターは? メリーゴーランドは? 残念。チケットが足りません。あなた、コーヒーカップに乗るのに、ぜんぶのチケットを使ってしまったのだもの。ましてや、お姫様ランドなんて」
ウサギは、遠くに見える、お姫様が住んでいるという居城を見つめた。ブレアもそれにつられて、そっちを見つめた。
あんなお城に住む、お姫様になってみたい。
ブレアが思ったところで、ウサギが小さく笑った。
「無理よ。あなたが、あんな“牢獄のようなところ”で暮らすなんて、きっと耐えられない。一番楽な観覧車でさえ、途中で飛び降りようとするんだもの」
「……!」
ブレアはバカにされたような気がして怒りに震えた。
「なによ! 何よ、こんなところ――あーっ!!」
ふたたびブレアが暴れたとたんに、安全装置が外れて扉が開いた。ブレアは背中から、まっさかさまに落ちて行った。
ガタン!
ゴンドラが大きく揺れた音に、ブレアは目覚めた。
また最初からだ――ブレアは泣きべそをかいた。さっきのぬいぐるみのウサギはいない。
ブレアはひどく後悔した。
怒りに任せて、あのウサギに怒鳴ってしまったことを。
また、ひとりぼっちになってしまった。
ブレアは、錆びた鉄の床を見つめる。
見捨てられてしまった、ついに、ぬいぐるみにまで。
「ねえあなた」
声がしたので、ブレアはあわてて顔を上げた。向かいのベンチに、さっきの、ぬいぐるみウサギが座っている。
「退屈しのぎに、絵でも描かない」
ピンクの小さなウサギは、自分の身体の倍もあるスケッチブックを持っていた。彼女は手元のクレヨンで、なにか描いている。気づくと、ブレアの手元にも、クレヨンとスケッチブックがあった。
クレヨンなんて見たのは、小学生の時以来だ。
「これってどう。あたしが考案した、新しいジェットコースターなんだけど」
ウサギが自分の描いた絵を見せてきた。それを見てブレアは吹きだしそうになったが、ぐっとこらえた。もう、だれの機嫌も損ねたくなかったのだ。
ブレアは、メリーのことを、「ブタ」と言ったことを思い出して、また後悔した。
ちゃんと、謝ればよかった。
イマリが、中央役所についてくれたときも、お礼を言えばよかった。
……もっと、ケヴィンを信じればよかった。
バーベキューパーティーでしたことを、ルナやナターシャたちに謝るべきだった。あんなことをしなきゃよかった。
ナターシャが宇宙船を降りるとき、見送りに行けばよかった。
もう、会えないのなら。
「ねえ、どう」
ウサギの描いたジェットコースターは、なぜだか八つも頭がある金色の龍で、すべての頭にウサギが乗っている。微妙なアイデアだが、絵はうまかった。
「……変だけど、絵は上手い」
ブレアはまたひどいことを言ってしまった気がして、あわてて言い直そうとしたが、ウサギは機嫌を損ねてはいないようだった。
「あなたも、なにか描いてよ」
どうせ、時間はたくさんあるんだし、とウサギはまたスケッチブックに向かった。
ブレアは、恐る恐る、クレヨンを取った。
「まあ! ずいぶんファンキーな観覧車ね。こんなのがあったっていいと思うわ。ネオンと花火がきらびやかねえ……!」
ブレアが描いた虎柄模様の観覧車を、ウサギは歓声を上げて褒めてくれた。ブレアはなんだかうれしくなって、今度は遠目に見えるウォータースライダーを描いてみようと思った。水の惑星、マルカを思い出しながら――。
「楽しそうなアトラクションね! リリザに、マルカの遊園地が現れたみたい!」
「そうよねえ、ジェットコースターみたいなメリーゴーランドがあったっていいわよね。馬に乗って爆走だわ」
「これも素敵よ、できるんじゃないかな、空を飛ぶメリーゴーランド――氷のお城、お菓子の家――アイスクリームのお屋敷! あたし、一度でいいから、おなかをこわすまでアイスクリームを食べてみたかったの!」
「あなたのアイデア、どれもこれも、素敵ねえ……」
ブレアが描くものを、ウサギはひとつひとつほめてくれた。
やがて、ブレアは、ぽつりと涙をこぼした。
だがこの涙は、さきほどまでの、荒れ狂った涙ではない。
ブレアは、生まれてはじめて褒められたのだ。嬉しくて、嬉しくて、次から次へと涙があふれた。
いつも褒められるのはナターシャばかりだった。それがいつからだったのか、ブレアには思い出せなかった。テストで百点をとっても、お菓子を作っても、なぜかブレアは褒められたことがなかった。
ナターシャは百点を取って褒められた。お菓子を作っては美味しいねと褒められた。
親には、「あんたはナターシャのまねばっかりだね」と言われた。
ブレアは、「違う」と言いたかったが、信じてもらえなかったのであきらめた。
やってみるのは、いつも積極的なブレアが先。でもナターシャは、それを真似して、ブレアよりうまく仕上げ、周囲に知られるのも、褒められるのも、ナターシャだった。
ナターシャのほうがおとなしくて引っ込み思案だったから、親も周りも、ナターシャを褒めて、自信をつけてあげようとしたのかもしれなかった。
気の強いブレアには、「ナターシャにくらべたらまだまだ」「もっと頑張りなさい」「もう少し、上手にできたんじゃないかな」の言葉ばかりだった。
やがてブレアは、何もかも嫌になって、途中で投げ出すことが多くなった。
勉強もしなくなった。お菓子もつくらなくなった。
ナターシャは素直ないい子で、ナターシャの真似ばかりするくせに、拗ねてばかりで何もしないブレアは悪い子という、単純なレッテルがはられた。
ブレアは、知ったかぶりで、ブレアをダメな子だという周りの大人が嫌いだった。
いつか、もう我慢が出来なくなって、暴れて物を投げつけたら、やっと何も言われなくなった。
「遊園地って、素敵よね」
ウサギは言った。ブレアはうなずいた。
遊園地は大好きだ。リリザは本当に楽しかった。きっと、一年遊んでいたって、飽きない。
ブレアはやがて、楽しかったリリザの思い出を、ウサギに向かって猛然としゃべった。
時間も忘れるくらいに。
ナターシャのことも、ライアンのことも、イマリやケヴィンのことも忘れるくらいに――。
ガタン!
大きく、ゴンドラが揺れた。
「着いたわよ」
表情がないはずのぬいぐるみが、微笑んだ気がした。
ブレアは、はっと、目が覚めた。
――今度こそ、本当に、目が覚めた。
頬が冷たかった。
涙を袖でぬぐい、あわてて立ち上がってあたりを見回したが、ゴンドラは、一番下についていた。ゴンドラから落としたはずの上着や携帯電話もある。バッグは、中身をぶちまけられることもなく、ブレアの膝の上にあった。ボストンバッグも足元に――サンダルも、両足とも履いている。
「はい、おつかれさまでしたー」
遊具のスタッフは、トラの着ぐるみではなかった。明るいパステルカラーの制服を着た、ふつうの青年だ。
ブレアはふらふらと、観覧車から降りた。
地面を踏みしめ、これが現実であることをたしかめようと、頬をつねったりもしてみた。
さっきまでのは何だったのか。
夢――?
「お忘れ物です」
ブレアは、うしろから声をかけられて、振り返った。
手渡されたのは――。
大判のスケッチブックと、クレヨン。
ブレアは震える手で、スケッチブックを開いた。そこには、ブレアが下に降りるまで描きつづけてきた遊具が、何ページにもわたって残っていた。
ブレアは、スケッチブックに顔を埋めて、吠えるように泣きだした。
うずくまり、むせび泣き続けるブレアに、心配したスタッフが駆けよってきたが、ブレアはかまわなかった。人目もはばからず、泣き続けた。
やがて、泣きながらよろよろと立ち、遊園地から姿を消した。
――その後のブレアの行方は、知れない。
宇宙船の強制降船者担当の役員は、予告通り朝十時にブレアのアパートへ向かったが、ブレアの存在はなかった。彼らは瞬く間に追跡を開始した。
その日の午後十時、ブレアがすでに宇宙船を降りていることが発覚した。
わずかな着替えと洗面道具をもって、ブレアは自ら宇宙船を降りた。ブレアの担当役員は、責任をもって船客を母星に帰宅させねばならないため、ブレアのあとを追ったが、足取りはつかめなかった。
残った私物は、実家に送られた。
ブレアの消息は、地球行き宇宙船船客の探索期限の一年を過ぎても、わからなかった。ブレアの両親が、私的に警察星に依頼した行方不明者の探索も、役には立たなかった。
彼女がふたたびナターシャの前に姿を見せるのは、十年以上経ったのちのことである。




