214話 イマリとブレアの罠 Ⅲ 2
イマリはタクシーに乗って、K20区にある、ロビンの高級マンションに向かっていた。リビングの側面が全面ガラス張りで、海と夜景が見える素敵な部屋だ。
ロビンとこの部屋で過ごした時間は短かったが、夢のようだった。
インターフォンを押したが、留守のようだ。ここが、ロビンの本宅ではないことはイマリにもわかっている。でも、ロビンの本宅は分からなかった。
仕方なく、ラガーに出向いた。ラガーに一歩、踏み込もうとしたところで、イマリは人影に遮られてぎょっとした。
「イマリさんですね?」
入り口にいた私服の警察官が、通さないと言わんばかりに、ドアをふさいでしまったのだ。
「あなたは本日より、ラガーへの入店は禁止になっております」
イマリは信じられないといった顔で絶句し、ふらふらと後ずさった。ふたりの私服警官はいっしょに外へ出てきて、イマリを囲んだ。イマリは蒼白な顔で、無表情なふたりの顔を見つめるしかなかった。
「ご自宅に一度、帰られてますよね?」
イマリは、恐る恐るうなずいた。
「通知をご覧になってない? 郵便受けに入っていませんでしたか」
イマリは、郵便受けなど見ていなかった。ただでさえ、郵便物など少ないのだ。イマリのアパートに届くのは、通販で買った品物くらいだ。pi=poも起動していない。設定が面倒だし、クローゼットに放ったままだった。
「通知を見ていらっしゃらないのであれば、この場でご説明させていただきます」
片方の警察官が、携帯電話でだれかに電話している。イマリは泣きそうになった。また警察に行く羽目になるのか。
「あなたの降船処分は、取り消されました」
何の感情もない声で、警察官は言った。
イマリはえっと顔を上げたが、警察官は、リストでも読み上げるようにイマリに告げた。
「宇宙船を降りるか降りないかは、あなたの選択に委ねられることになります。降りる場合はどうぞご自由に、とのことです。宇宙船に残られる場合は、以上のことを守っていただきます。これが守られない場合は、ただちに降船処分となります」
イマリは信じられなくて困惑していた。
昼はたしかに、「一週間以内に降りてください」と言われたのだ。
「ひとつは、あなたには立ち入り禁止地区があります。立ち入り禁止地区に一歩でも侵入した場合、今度こそ即座に降船となります。よろしいですか、K27区には、この先いかなる理由があろうとも、立ち入ってはいけません。そして、ラガー、ルシアン、レトロ・ハウスもです。入店禁止になりました」
今まで、一番入り浸っていたバーとクラブだった。K27区に入れないとなったら、リズンにも、マタドール・カフェにも行けなくなる。
「……はい」
イマリは肩を落とした。でも、降船処分は取り消されたのだ。理由はわからないが、宇宙船を降りなくてもよくなったのだ。
もしかして、ブレアも、だろうか。
また、あの不思議な衣装の人がなんとかしてくれたのだろうか。
イマリにはわからない。
「本日は、まだ通知を確認していないとのことで、通報はしません。ただいまからこの規則が適用されますのでご注意ください」
「……はい」
「ですので、本日は、このままご自宅におもどりになったほうがよろしいかと思われます」
イマリは、警察署を出てきたときと同じくらいのふらついた足取りで、踵を返した。
このあたりは、昼日中に雨が降ったのか。濡れた地面にネオンの明かりが反射して、まぶしかった。
ワンピースの、ずり落ちた肩ひもをもどしながら、イマリは抜け殻のようになって歩いた。
そのままふらふらと、ラガーから十分も歩いただろうか、イマリはタクシーを拾わなきゃ、と思い立って、タクシー停留所までもどろうとした。
そのときだった。腕を引っ張られ、小路に引きずり込まれた。
イマリを囲んでいるのは、派手な格好をした女たちだった。イマリよりずっと大柄で背も高い。五人の厚化粧の女に囲まれ、化粧と香水と酒のにおいで噎せ返りそうだ。
「コイツがロビンの女だって?」
酒臭い息を吐きながら、イマリにナイフを突きつけている女が、小馬鹿にしたように嗤った。
「そうだよ。恋人気取りでさ――ロビンも、だいぶ迷惑してたって話で――」
いったい、この女たちはなんだ。
ずいぶん露出の高い服装で、髪をけばけばしい色に染め上げていたり、濃い化粧にごまかされてはいるが、肌はぼろぼろだ。イマリは、ルシアンでよく見る、売りをなりわいにしている女たちだと気付いた。
「恋人気取りじゃないわ! あたしは、彼の、運命の、相手、で、」
イマリの叫びに、女たちは呆気にとられた顔をしたあと、弾けるように笑い声を上げた。
こんなに大声を出しているのに、道を歩いている人間は、だれも注意を払わない。イマリを助けようとはしてくれない。
「あんたが恋人気取りでロビンの周りをうろつくようになってから、ロビンはあたしらを買わなくなった!」
いったん笑いがおさまると、女の一人がナイフを振り上げて、イマリの顔の横に突き刺した。イマリは「ひいっ!」と叫んで、震えだした。
女が、気が狂ったように何度もがつがつと刃先を壁に突き立てる。
「こんなふうに、ロビンに突き立ててもらったかい! ええ!?」
「あんないい男を独り占めにすんじゃないよお嬢ちゃん!」
「ヒャハハハハ! バラバラにしちまえ!!」
強い酒を口に含んだ女が、ブーっとイマリの顔に吹き付けてきて、イマリは恐慌状態に陥った。
「いやああああ! 助けてえええ! ロビン、ロビンーっ!!」
イマリはがむしゃらに手足を振り回して、囲みを抜けだした。ナイフが肘に当たって、痛みが走ったが、おそろしくてそれどころではなかった。
つまずき、ワンピースも破れ、膝小僧をすりむいて、やっとの思いでラガーの前までもどった。
そうしたら、まるで運命のように、ロビンがラガーから出て来たではないか。
(や……やっぱり……、ロビン、は、)
運命の相手だわ、とイマリが震える手を伸ばしたが、ロビンの手は取れなかった。ロビンの手を取ったのは、遅れてラガーから出て来た、モデルみたいに美しい女たちだった。
「やだ、なにこの子、汚い」
「危ないわよ、こんなとこで」
女たちが、イマリを見て目を丸くする――あるいは泥だらけの姿に顔をしかめた。
イマリは目を伏せた。この女たちはイマリを何度か見ているはずなのに、覚えていないのか。わざと、というふうには見受けられない。
「こんなところに女の子がひとりでいちゃダメよ。この地区は危ないのよ。タクシーを呼んであげるから待ってなさい」
ほんとうに、イマリのことを覚えていないようだった。イマリはかつて、彼女たちの前で、酔っ払ったロビンが、「こいつは俺の運命の相手だ!」と宣言し、キスしてくれた瞬間を思い出した。そのときの目もくらむような優越が、幻のようだ。イマリの存在は、なんだったのだ。彼女たちの記憶に、イマリの存在はない。
イマリは、ライバルでさえなかったというのか。
屈辱に青ざめたイマリをよそに、女のひとりが店内にもどっていこうとするのを、ロビンが止めた。
「優しいねえ、エミリ」
ロビンのとろけるような声。
「いいんだよ。放っとけ。――すぐお迎えが来るさ」
「ええ?」
エミリという女もいぶかしげな声を出したが、イマリの悲鳴はすぐに上がった。
「ヒャアハハハ! いたーっ!!」
さっきの、気違い女の集団が、イマリを見つけて猛然と走ってきたのだ。
「ロ、ロビ……」
イマリはロビンに助けを求めたが、ロビンはイマリが声を出すまえに目をそらし、美女たちを抱き寄せた。エミリという女は心配そうにイマリを振り返ったが、ロビンの熱いキスに、イマリを見捨てざるを得なくなった。
「ロ、ビ、」
イマリは、ふたたび悲鳴を上げ、泣きながら、タクシー停留所まで走った。
全身泥まみれのイマリを見てタクシー運転手も顔をしかめた。イマリは乗車拒否される前に、あわてて後部座席に乗り、K37区まで、と告げた。
タクシーが発進する。五人のおそろしい女たちの姿が遠ざかっていく。
肘と、すりむいた膝の痛みを、やっと認識した。
今日、はじめて着たワンピースのフリルが、ナイフの傷で引き裂かれていた。
イマリの心に残った、裂傷のようだった。
女たちは、イマリがあわててタクシーに乗り込むところを見送って、追うのをやめた。
「あんな感じでいいかい、メリーちゃん」
「いいよ。おつかれさま。お姉さん方♪」
女たちに、それぞれ三万ずつ紙幣を渡しながらメリーは笑った。女たちも笑った。先ほどとは違う、正気を保った、歓喜の笑い声だ。
「太っ腹だねえメリーちゃん。あんたがオトコだったら、うんとサービスしてやるのに」
「ライアンは、一緒じゃないの」
「今度、ルシアンにも行くように、ライアンに言っとくわ。じゃあね」
「じゃあね~!」
ぶかぶかのオーバーオールのポケットに突っ込んだ手を振りながら、メリーは夜闇に消えた。
――梅小鳩のまえを、イマリの乗ったタクシーが通りすぎていったことに、ルナたちは気づく由もなかったし、イマリもルナたちの存在には気付かなかった。
イマリはアパートのまえで降り、反射的にブレアの部屋を見た。もう習慣になっている動作だ。ブレアの部屋に明かりがついていれば、呼び出して、一緒にラガーやルシアンに行く。一晩遊んで、昼間は寝ている。ロビンたちに出会う前から、そんな生活が続いていたのだ。
ブレアの部屋の明かりは、やはりついていない。
(ロビン……)
イマリは、とぼとぼと自室に帰り、郵便受けの中をたしかめると、たしかに通知は入っていた。
イマリはへとへとに疲れていた。通知を見る気もなく、そのまま絨毯の上に座り込み、いつのまにか寝ていた。夢も見ずに眠り、唐突に起こされた。カーテンを閉めなかったので、朝日が容赦なく部屋に差し込み、イマリを叩き起こした。
酒も飲んでいないのに、頭が痛かった。
緩慢なしぐさでズタボロの服を脱ぎ、シャワーを浴び、湯が傷口にしみたところで、もう一度ケガを認識し、昨夜の記憶がゆっくりとよみがえってくる。
イマリは泣きながら部屋着を着て、備え付けの救急箱をさぐり、絆創膏を取り出し、傷に貼った。さいわい、ナイフで切られた肘の傷はあまり深くない。
イマリは絨毯の上に座り込んで、通知が入っている封筒を破いた。
ビリビリと破く間にも、涙が出てくる。
通知には、降船処分が取り消されたことと、侵入してはいけない地域と、店舗の名が書かれていた。ラガーで、警察官に言われたことがそのまま。
イマリが自主的に降りる分には一向にかまわず、降りるつもりなら担当役員に連絡を、とも書かれていた。
イマリは、降りるつもりはなかった。
ロビンに手ひどく捨てられ、一時は降りてしまおうかと思ったが、このまま降りるのはあまりにみじめだった。
(違うわ……そうね……あたしのやり方が間違っていたのよ)
もし、義兄が宇宙船に乗っていたら?
イマリは考えた。
よく考えたら、ラガーやルシアン、レトロ・ハウスみたいな荒れた場所に、あの“義兄”が行くだろうか? 清潔感あふれる彼が、あんな場所に行くはずがない。
宇宙船に乗った最初のころ、友人に、軍人がよく集まる場所はどこだと聞いて、教えられたのがラガーやルシアンだった。バーベキューパーティーのときまで恋人だった男は、ルシアンでナンパされた。それから、バカのひとつ覚えで通いだしたが、よく考えたら、義兄のような恋人がほしいのに、彼のような人間がくるはずもない場所に入り浸っていた自分が、愚かだったのだ。
(完全にあたしの間違いだわ。……研究のしなおしよ)
降船は取り消された。もうラガーに行くこともないし、ブレアともお別れだ。すなわち、時間だけはたっぷりあるのだ。
イマリは、瞬く間に立ち直った。
あと数回、支払いの残っていたワンピースを、イマリは最後の涙とともにごみ箱に捨てた。
ロビンとの思い出も、一緒に捨てるように。
「なによ、一週間後って言ったじゃない」
ロビンとのデートで着たことのある服を、一切合切、ごみ袋にまとめているところで、金切り声が外からした。どこへでもキーンと突き抜けるように耳障りな声は、ブレアの声だ。間違いない。
イマリは、キッチンの窓に張り付いた。ここから、ブレアのアパートが見えるのだ。
ブレアは、玄関を出たところで、三人の役員に出くわしていた。部屋着姿で髪もぼさぼさだったが、財布を持っているところを見ると、コンビニにでも行こうとしたのか。
「降りるのは一週間後って言ったじゃない――一週間以内!? どうでもいいわよそんなこと! 昨日の今日で、降りる準備なんてできてるわけないじゃない! ふざけないでよ――ヤダ、なにすんの、勝手に部屋に入らないで! 役所に言いつけてやるから! 言いつけ――」
ブレアが、部屋に入っていく三人の役員を追って部屋にもどっていく。イマリは息をのんでその光景を見守った。
ブレアの部屋のドアは開けっ放しだ。一分もしないうちに役員たちは外に出てきて、ブレアも同時に出てきたが、また泣いていた。
イマリは耳を疑った。役所から来たであろう、黒服の男たちの言葉に。
「電気、水道などは止めました。pi=poは機能停止済みです。明日、朝十時にお迎えにあがります。それまで降船の用意ができていらっしゃらない場合、強制的に撤去させていただきますので、ご了承ください」
ブレアの悲鳴のような嘆きが近所中に響き渡る。興味本位のやじ馬たちが、窓から顔をのぞかせていた。イマリも、そのひとりには違いなかった。
イマリは黙って、窓から離れた。
ブレアを慰めに行く気も、明日、見送る気もなかった。




