210話 布被りのペガサス Ⅹ 3
それからふたりは、当たり障りのない話をしながらケーキを食べ、お茶を飲み、リュカに声をかけてからカフェをあとにした。
バスに揺られて一時間。陽も沈もうという頃合いに、カペーリヤの港に着いた。
潮の匂いが車中に満ちる。ふたりはバスを降り、漁船がゆらゆらと浮かぶ埠頭を、沈む夕日をながめながら歩いた。
この街の夏はとうに過ぎ、秋に差しかかっている。ひと気はない。海鳥が時折、夕刻を告げるように鳴き声を上げて、水面に突進していた。
「……あのね、アイリーン」
埠頭の端まで来て、フライヤはようやく口を開いた。
アイリーンは、フライヤの言葉を、今か今かと待っていた。フライヤがバスの中で何も話さなかったわけではない。だが、主題は適当な話題にとって代わられていた。
ケーキ店でした、昇進の話は、あまりに中途半端に切られたままだ。
フライヤは、まだなにか、言いたいことを抱えていそうだった。
「なに? フライヤ」
アイリーンは、フライヤに初めて会った時のように、最大限に優しい口調を努力した。
「あたし、昔ね、……親友がいたの」
昔? フライヤの言葉は過去形だ。今は、親友ではなくなったということなのか――それとも。
アイリーンは、フライヤの言う親友が、なぜ昇進の話につながるのか分からなかったが、黙って聞いていた。
「シンシアって言ってね、彼女は、白龍グループの、白龍幇の幹部の娘なんだけど、彼女のお父さんには本妻がいたから、ようするに、シンシアのお母さんは愛人なのね。シンシアのお母さんは、白龍幇の下っ端で、すごく体の弱い人で、とても傭兵としてはやっていける人じゃなかったから、お父さんがかわいそうに思って、愛人にしたんだって。そうすれば、少なくとも、食べてはいけるから」
「……」
「お父さんは優しい人だったけど、本妻さんはとても怖い人だったから、シンシアはお母さんと一緒に、白龍グループの下っ端構成員にあてがわれる宿舎で育ったの。本妻さんから隠れるようにして。あたしの隣の家。だから、シンシアとあたしは幼馴染みだった」
フライヤは、懐かしむように海を眺めた。
「お母さんがああいうひとだったからかな――シンシアはとてもしっかりしてた。大きくなったら、自分が傭兵グループを作ってお母さんを楽させてあげるんだって、ほんとうに小さなころから、口癖のように言っていた。そのお母さんは、あたしの父さんと同じ任務で死んだわ。同じ時期に、あたしは父親を亡くして、シンシアはお母さんを亡くした」
アイリーンは、慰めの言葉を口にしようとして、黙った。フライヤの話の続きを待った。
「シンシアは、それでも夢を叶えた。ほんとに傭兵グループをつくったの。卒業してすぐよ。“ホワイト・ラビット”っていう――総員五十人の」
「最初から五十人態勢? ずいぶん大規模じゃないか」
アイリーンは、素直に驚きを口にした。フライヤは笑んだ。
「シンシアは、学生時代も、ひとの中心になる子だったの。シンシアがリーダーなら、入ってあげるっていう人は多くいたわ。女だけじゃない、男だってシンシアには一目置いていた。シンシアは、L18のアカラ第一や、L19のシャトーヴァラン第一にも友達がいて、そこの卒業生も入ったもの。先輩たちもいたし、白龍グループから入ったひともいた」
「それはすごい。――“まだ残っていたら”、ブラッディ・ベリー規模のグループになっていたんじゃないか? その子は、なんとなくアリシアを髣髴とさせるね」
アイリーンの言葉は、彼女が、ホワイト・ラビットの「末路」を知っていることを、フライヤに知らしめた。
フライヤはうなずき、
「そうかも。残っていたらね――グループを創設して、すぐの任務で、シンシアが死ななければ」
「あの任務で、亡くなったのは、――ボスだけだって聞いたけど」
「そう――死んだのは、シンシアだけ」
あの任務で死んだのはシンシアだけだったが、トップを失ったグループは、すぐに解散の憂き目にあった。トップの後釜のことなど考える余地もなかった。創設したばかりだったのだから。
ホワイト・ラビットの構成員は、フライヤとウォレスを抜かして、全員白龍グループが引き取ってくれた。
ウォレスは、今はフリーの傭兵をやっているはずだ。フライヤが、白龍グループに所属しなかったことを心配して、何度か連絡をくれたが、そのころのフライヤは、シンシアを失った悲しみに打ちひしがれて、なにも手に着かなかった。返事のないメールや電話に、ウォレスの親切もやがて途絶えた。
「あたしは、シンシアを死なせたグレンさんをすごく憎んだ」
どうして、グレンはシンシアを助けてくれなかったのか。ふたりは愛し合っていたはずだった。それなのに、どうしてシンシアを、爆弾を仕掛けてまわる、一番あぶない役割に配置したのか。
ほんとうはグレンがやるはずだったその役割を、シンシアがこっそり引き受けた――グレンに内緒で。
それを聞いたとき、悔しくて、フライヤは号泣した。ウォレスは、グレンを恨むなと言ったけれど、フライヤは恨まずにいられなかった。
「どうして、シンシアが死ななければならなかったのか分からなかった。あたしがあとから、作戦図案を見ただけでも無謀な作戦だった。それだけのことをしなきゃ、あの砦は落とせなかったってウォレスさんがいったけど、みんなも承知の上で、あの作戦を決行することを承諾したって言ったけど、グレンさんのせいで、シンシアが死んだ。あたし、思わずにはいられなかった」
フライヤは一度ためらいを見せたが、それでも、思い切ったように言った。
「グレンさんが――死ねばよかったのに」
「……」
「どうして、シンシアが死ななきゃならなかったの? シンシアが時間までに帰ってこれなかったのは、敵に見つかったからだけど――もとから、無謀な作戦だったのよ。シンシアに“死の覚悟”がなかったら、あの任務は遂行できて、いなかった」
シンシアは、任務を中断して、逃げることだってできたはず。グレンが、助けに行ってくれれば――仲間は、どうしてシンシアだけを置いてきてしまったのか。言いたいことは山ほどあった。
だが、現場にいなかった自分が何を言っても、仲間を責めるだけ。フライヤは、何も言えなかったのだと、しゃくりあげながら告げた。
「グレンさんのせいでシンシアが死んだ。あたしは、許せなかった。怒って、怒って――グレンさんなんか、死んでしまえばいいと、何回も思って――」
アイリーンが貸してくれたハンカチで、フライヤは涙を拭って、つづけた。
「でも――あたしは、グレンさんを恨む価値もないことに――気づいたの」
息を継ぐ間もなくしゃべっていたフライヤの声がピタリとやみ、静かな涙がぽつりと落ちた。
「――あたしは、ずっと、シンシアの影にかくれていただけだった」
アイリーンが、そっと、フライヤの肩に手を置いた。
「小さなころからずっと――シンシアの影に隠れて、怯えて、ひとりじゃ何もできなくて、ともだちも、作れなかった。シンシアの取り巻きの中に、おまけのように入れてもらって、いつもビクビクしながら過ごしてた。シンシアに守られて、あたしは生きていたの。――シンシアのつくった傭兵グループに入れてもらっても、みそっかすだった。あたしは、任務に参加することもなく、待機してたアジトで、シンシアの死を聞いたのよ――」
フライヤは、自分を嘲笑うように、泣き笑った。
「親友と同じ傭兵グループにいながら、あたしが親友の死を聞いたのは、自分は何も傷つかない、待機場所。――シンシアは怖かったろう、敵に見つかって、逃げ回って、爆弾のスイッチを押すときは、どんなに怖かっただろうって――考えれば、考えるほど、自分には、グレンさんを恨む資格も、シンシアの死を悼む資格もないんだって思えてきた」
「……」
「自分ばかり安全な場所にいて、シンシアに守られて生きてきたあたしが、言えることなんてなにもない。みんなが、シンシアの死は無駄にしない。白龍グループでがんばるって言ったときも、あたしは、怯えて――」
フライヤのその先は、嗚咽に消えて、言葉にならなかった。アイリーンは、その背を、静かに撫でさすった。
やがてフライヤは、しゃくりあげながらも、言葉を繋いだ。
「あのレポートが来たとき、思ったの」
――あたしはもう、怯えてばかりで何もせずに、蚊帳の外になるのはいや。
「だから、今度こそは、笑われても、バカにされても、いらないっていわれても、役に立たなくても、自分で何かをしてみようと思ったの。できることを。……今でも、首相の秘書室に入ることを考えたら、震えるくらい怖い」
言葉だけでなく、フライヤの身体がほんとうに震えだしたので、アイリーンはあわててフライヤを抱きしめた。
「君が思うほど、怖いところじゃない。だいじょうぶだよ」
フライヤは、小さく首を振った。
「怖くて怖くて、たまらないの。――でもあたしは」
フライヤはもう一度、自分に言い聞かせるように言った。
「怯えてばかりで何もせずに、蚊帳の外になるのは、いやなの」
だから受けた。怖かったけれど。
カフェで、シンシアと自分のような学生を見たら、あのときのどうしようもない気持ちが湧きあがってきた。
――もう、“何もしなかったこと”を、後悔はしない。
フライヤは、しばらくアイリーンに抱きしめられていたが、震えが落ち着いてくると、そっと身を離した。
「あたし、ミラ様に笑われちゃったの」
「笑われた?」
「うん。あのレポート。データで提出する気はなかったのって」
「アハハ! それは、僕もそう思った」
フライヤの顔に笑顔がもどったので、アイリーンもすこし安心した。
「レポートの内容も、専門家に聞けば、全部わかることだって――目新しいことは、なにもない。レポートとしては、ほんとに未熟だって。――でも」
「――でも?」
「“おまえがあのエラドラシスの戦にいたら、あんな事態は避けられたかもしれない”って……言ってくれたの」
アイリーンは、黙った。だがそれは、ミラの意見を否定しているのではない。むしろ、うなずきたいくらいだったからだ。けれどそのことは――フライヤを戦争には行かせたくなかったアイリーンが求めていた結果とは、まるで違った意見だったから、何も言えなかっただけだ。
「だからね、アイリーンとのお茶会は、続行なの」
「え?」
話が繋がらなくて、アイリーンは首を傾げた。
「ミラ様がそう言ったの。これからも、アイリーンとのお茶会を続けてくれって。これからはあたしも忙しくなるだろうけど、なんとか都合をつけて、アイリーンとのお茶会だけは、続けろって、そう言ったの。ミラ様のお許しのもと、堂々とお茶会ができるのよ!」
「……!?」
アイリーンは、信じられない言葉に、カチンと固まった。
「どうせ、アイリーンとは政治の話か辺境惑星群の話か、軍事惑星群の話しかしないんだろうって。だったら、それを続けてくれってミラ様は言ったの。心理作戦部と秘書室のつながりができていいし、情報交換もスムーズにできるからって――あたし、笑っちゃったわ。ケーキを食べながら物騒な話ばっかりしている穴倉のお茶会は、秘書室でも噂になっていたって。何をたくらんでるの、だって」
「……!?」
「それで、何ヶ月かに一度くらいは、ミラ様も仲間に入れてくれって、そう仰っていたわ」
フライヤは、固まってしまったまま反応のないアイリーンの手を取り、跳ねてみせた。
「嬉しくないの? アイリーン」
「……う、」
アイリーンはついに絶叫した。
「嬉しくないわけが――ないじゃないか!! 僕、僕は――君とは、もう、ほとんど、会えなくなると――!!」
声を詰まらせたアイリーンは、「ゴ、ゴメン」と謝りながら、フライヤから手を離して目尻を擦った。
「僕は――だから、今日――」
「そうだと思った。あたしもほっとしたの。これからも毎日――とは言えないけど、アイリーンに会えるんだって」
アイリーンは、無言でフライヤをぎゅうっと抱きしめた。それが、史上最大の、喜びの証だった。
「フライヤ!」
アイリーンは、フライヤを離すと、今度は両手を握った。
「今日は前祝いだ! 夕飯はフルコースにするよ! 君の出世祝いと、それから、僕たちの友情と、ミラ様とカレン様と、アミザ様の健康を祝して! L20の幸先を祝って!」
「え――ええ!?」
驚くフライヤを尻目に、アイリーンはすぐに携帯電話を持ち出して、予約の電話をかけ始めた。
「ちょ、ま、あたし、そんな高いとこじゃなくても、ふつうの居酒屋とかで……」
「何を言ってるの! ――ああ、僕だけど。今夜八時から二名、フルコース、予約できる? ――そう、じゃあ、よろしくね。メインは魚で――フライヤは肉より魚が好きだから。それから、ケーキもつけて。ホールでね、祝いの言葉を。――そうそう、もちろん昇進さ。名前は、フライヤ・G・ウィルキンソン! それで、シャンパンを、ウィルキンソン家宛に届けてほしい。そうそう、――ヴィラ・ストリート225番地――あの高級住宅街でウィルキンソンといえばわかるだろう? 花束と、祝いのカードといっしょにね――」
フライヤは、「アイリーン!」と彼女を止めにかかったが、身長差、体格差ある相手には、あしらわれて終わりだった。
フライヤ宅の住所を告げるアイリーンの、喜びに火照った横顔に、フライヤはフルコース撤回をあきらめた。まったく、エルドリウスもアイリーンも、こちらがいたたまれなくなるほど気前が良すぎて、困る。
(最近は、やっと慣れてきたけど)
しかし、多忙な彼らにしてみれば、こういうきっかけでもなければ贅沢をする機会もそうそう、ないのである。最近それが分かってきたフライヤは、素直に好意を受け取ることにしている。
フライヤは、暗くなりかけている海をながめた。
潮の香りを、体いっぱい吸い込み、(――シンシア)と、だれにも聞こえないように、小声でそっとつぶやいた。
「予約が取れたよ――フライヤ、マスカレードにもどろう。八時からの予約だから、今から行けばちょうどいい」
アイリーンが、今朝のように、フライヤの手を取ってバス停への道をもどりだした。
フライヤは、灯台の灯りを見つめ、きらめく波間を見つめて、想った。
(シンシア、もうあたしは大丈夫。これからは、自分の足で踏みだすよ)
――怖くても。ひるんでも。
ひとつ深呼吸して、勇敢だった親友を、思い出す。
フライヤは、小さなピンクのウサギと、真っ白いウサギが、灯台の方で笑っている気がして、びっくりして目を擦った。
あんなところに、ウサギなんているはずはない。
でも――あのウサギは、どこかで見た気がする。キャラクター商品だっただろうか。
子どもが、ぬいぐるみでも抱えて、灯台に上がっているのか?
だが、灯台の展望台は暗く、人がいる気配はなかった。
「どうしたの、フライヤ」
バスに乗り込む途中に立ち止まってしまったフライヤに、アイリーンが声をかけた。
「ううん――なんでもない」
フライヤは、笑ってアイリーンの隣に座った。
シンシアという大きなストールに隠れてばかりいたあたしは、これからはちゃんと、自分で輝けるようにがんばっていく。
(ありがとう、シンシア――アイリーン)
灯台が、静かに波打つ、夜の海を照らしていた。




