202話 迷える子羊と、ロビンのいたずら 1
――サルーディーバは、迷っていた。
分からなかった。何もかもが分からなかった。自分のしたことは正しいのか。間違っていたのか、――サルーディーバは、メルーヴァを責める資格がないことを、自覚していた。
(なぜ今ごろ、ガルダ砂漠の戦争の夢などを)
サルーディーバは、かすかに痛むこめかみに手を当てた。
ひさしぶりに、鮮明な夢を見た。だがそれは未来の予言ではなく、過去の出来事だ。
忘れもしない、ガルダ砂漠でグレンの治療をした、あの日の出来事。
あのときは、ついついメルーヴァを怒鳴ってしまった。メルーヴァが迷いあぐねているうちに、長老会が勝手に「可」の札を上げてしまったのは、メルーヴァの優柔不断が招いたことであり、とても許せることではなかった。
メルーヴァの「不可」の札があれば、もしかしたら戦争は免れ得たかもしれないのだから。
けれども、長老会に対するサルーディーバという立場の脆弱さを考えれば、たとえメルーヴァとサルーディーバがふたりそろって「不可」と出しても、戦争は起こっていたかもしれない。
(それに、わたくしも、メルーヴァを責められる立場ではなくなってしまった)
迷っている暇などはない。サルーディーバが迷えば、ついてきてくれる皆も迷ってしまう。司令塔が、迷ってはいけないのだ。
後悔してはいけない。
サルーディーバは、幼いころからグレンの夢を見ていた。
なぜグレンの夢を見るのかが分からなかった。それ以外のことは、彼女にはなんでもわかった。
“父なる”真砂名の神が、何でも教えてくれるからだ。
予言として。
サルーディーバは生まれたときからサルーディーバとして育てられたから、自分が結婚できないことは知っていた。恋も、不必要なものだとして、育てられた。
もともとサルーディーバという存在は、歴代、男性神官しかいなかった。予言はかならず男性ばかりを指名した。そして、生涯独身を誓うことを厳命された。
サルーディーバは、なぜサルーディーバと予言された自分が女性なのか、分からなかった。けれども、自分の先代であるサルーディーバが、「あなたが女性として生まれ来たのもなにか意味があるのだよ」と言ってくれたから、自信が持てた。
彼女はたしかに、サルーディーバだった。
サルーディーバとしての力は、しっかり過不足なく持って生まれてきた。
物心つくころには、自分が女性ゆえに、長老会に認められていないということも分かっていたけれど。
だけれども、彼女は確実に、神託によって生まれ出でたサルーディーバである。
それに値する力も十二分に備えている。
ただ、女性であるということだけが、長老会の予定外だった。
奇しくも、革命の星メルーヴァとほぼ同時期に生誕したサルーディーバが、あろうことか女性という事実は、まさしく改革期の到来をL03に知らしめた。
サルーディーバは、女性であることを忌みはしなかったが、女性であるがゆえに、よりサルーディーバらしくあろうとした。マ・アース・ジャ・ハーナの神に何回となく、生涯独身を誓った。
それなのに、どうしてグレンの夢を見るのか、わからなかった。
サルーディーバは、グレンに恋をしていた。
恋もしない、生涯独身を誓ったサルーディーバにとっては、恋した男の夢を日々見るのは、毒でしかない。
グレンの夢を見る意味も分からなかったころは、ただただ自分の不明を恥じ、さらに厳格に自分を追い詰めていたサルーディーバだった。
サルーディーバの苦悩は続く。
権力と自己の保身にしか興味のない長老会と、ガルダ砂漠の戦争のことで争ったおかげで、次期最高権力者でありながら、サルーディーバは郊外の屋敷に「蟄居」を申し渡された。
さすがの腐った長老会も、サルーディーバという象徴は殺せなかったらしい。
しかし、彼女が“サルーディーバ”という象徴になれるかは、分からなくなった。
長老会は、いにしえからの風習を廃止し、べつのだれか――まったく関係のない人間――男性を、サルーディーバとして据えようとしている――という、おそろしい噂までサルーディーバの耳に届くほどだった。
サルーディーバは、サルーディーバである。予言されて生まれてきた自分以外の何者かが、サルーディーバになれるはずがない。
だが長老会は、傀儡を持ち上げてまで、彼女をサルーディーバでなくそうとしている。
サルーディーバは失意の中にいた。
そのころだ――ずっと謎だった、グレンの夢を見ていた意味がわかったのは。
サルーディーバに、マ・アース・ジャ・ハーナの神からようやく神託が下った。
――グレンの愛する女が、イシュメルを産む。
サルーディーバは、長らく疑問視していた夢の意味が解け、ようやくほっとし、興奮すら抱いた。
マ・アース・ジャ・ハーナの神は、イシュメルを産む者を導く役割を、わたくしにくださったのだ。
それゆえ、イシュメルの父となる男の夢を見たのだと。
サルーディーバは、より積極的に、グレンの夢を見ることを望むようになった。
グレンの周囲の、彼が愛する女性が、イシュメルを産むにふさわしい女性かどうか――見極めねばならない。
それと同時に、かすかな心の痛みもあじわった。
それが、グレンの愛する女に対する嫉妬だと、サルーディーバは気づく由もなかった。
しかし、グレンが愛でる女は、とてもではないがイシュメルを産むに値する女は、ひとりとて見当たらない。だれもがグレンの容姿と家柄に食いつくだけの、醜い亡者のような者たちばかり。
グレンもまともに相手をしていない。サルーディーバは、心のどこかでほっとしていた。
グレンが、周囲の女たちを愛していなかったからだ。
だが、シンシアが現れた。
シンシアもやはり、サルーディーバから見れば、イシュメルを産むに値する女ではなかった。今までの女性より心はずっと純真だが、それでも、小さい。
偉大なるイシュメルの母になるには、存在も魂も小さすぎる。
だが、グレンははじめてその女性に心を開いた。その鋼鉄の心臓がほんのわずか、溶けた。
――それが、サルーディーバには信じられなかった。
サルーディーバは動揺した。このままでは、シンシアとグレンが結ばれてしまう。グレンが、ほんとうにイシュメルを産む女性と会う前に、べつの女と結ばれてしまう。
サルーディーバははじめて、だれかを「邪魔」だと思った。
神の象徴である自分が、そんなことを思ってはいけないのに。
そうしたら――恐ろしいものを見た。
シンシアが、死んでしまったのだ。
サルーディーバは激しく動揺し、悔い、自分の邪な考えを何度もマ・アース・ジャ・ハーナの神に謝罪したが、父なる神は、サルーディーバを責めなかった。
「おまえのせいではない」と言った――。
それどころか、サルーディーバの彷徨える心を見抜き、新しい神託を下した。
――地球行き宇宙船に乗れ。そうすれば、ルナという少女が、おまえを救ってくれる。
サルーディーバは、宇宙船に乗って、グレンと、グレンと縁が深い女性――ルナの前世の夢も見るようになった。そして確信した。
月の女神の前世を持つ彼女こそが、イシュメルを産む存在であると。
だが、それと同時に、“父なる神”に疑問も沸いてくるようになった。
アントニオやカザマ、メリッサと触れ合ううちに、やはりL03のマ・アース・ジャ・ハーナの神は偽物で、宇宙船のマ・アース・ジャ・ハーナの神が本物であることを、確信することが多くなった。
宇宙船のマ・アース・ジャ・ハーナの神は、神託を寄越さない。
予言をおろすこともない。
それどころか、かつてサルーディーバが使えていた、サルーディーバとしての摩訶不思議な力は、消えていく一方だった。
力が消えていくことに不安は抱いたが、宇宙船の、真実のマ・アース・ジャ・ハーナの神は、サルーディーバを包み込んでくれた。
マ・アース・ジャ・ハーナ神社で相対するたび、すべての苦しみが解けていくような安堵を、彼女に与えてくれた。
L03のマ・アース・ジャ・ハーナの神は、腐った長老会も放っておく。L03の違和を、矛盾を、放置しておく。
しかし、アントニオは、真実のマ・アース・ジャ・ハーナの神が、サルーディーバとアンジェリカを宇宙船に招いたのだと教えてくれた。だとすれば、あの神託は、本物のマ・アース・ジャ・ハーナの神がくだしたものなのか。
(わからない)
L03のマ・アース・ジャ・ハーナの神が偽物なら、神託も間違っていたのか?
グレンが愛する女が、イシュメルを産むというのは間違いなのか。ルナが、自分の迷いを解決してくれるというのも間違いなのか。
だが、マ・アース・ジャ・ハーナの神から、直接神託を受けられるアントニオは、サルーディーバに言った。
――イシュメルだのなんだの、もう君が考えることじゃない。グレンの愛する女が産むなら、グレンの愛する女が産むんだ。放っといてもグレンがだれかを好きになり、子を産ませればそれがイシュメルだ。君がグレンを好きなら、君がグレンの恋人にだって、妻にだってなっていいんだ――
アントニオは、そう言った。やはりグレンの愛する女性が、イシュメルを産むことは間違いない。
カザマはサルーディーバがアントニオと結ばれることを望み、アントニオは、グレンとサルーディーバが結ばれてもいいのだという。
(おかしなこと)
メリッサは、いつも物言いたげな目をするが、決してアドバイスめいたことはいわない。いつも、「……私は、サルーディーバ様が安心して生活できるように、努めるだけですわ」と寂しそうに言うのだ。
ペリドットがこの宇宙船にもどったから訪ねてみたが、彼もやはりサルーディーバの話を一通り聞き終わったあと、「まあそうだな。“グレンの愛する女”が生むんだろうな、それは」と肯定してくれた。
そして、「ルナがあんたを助ける――それもあながち、まちがっちゃいねえ」とも言った。
やはり、神託は間違ってはいなかったのだ。
それからペリドットは言った。
「メルーヴァがルナを襲いに来るのは分かってんだろ。だったら協力しろ。おまえの力が必要だ」
次期とはいえ、権力ももうないとはいえ、サルーディーバを「おまえ」呼ばわりするのは、この男くらいのものだろう。だが、彼女はそれを許していた。男は、「傀儡」としてつくられたサルーディーバではなく、本物のサルーディーバの子孫だからだ。
「わたくしの……? ですが、わたくしは、サルーディーバとしての力はもうほとんどないのです」
サルーディーバが断ると、ペリドットは重ねて協力を要請しなかった。だが、不思議なことを聞いた。
「おまえの父母は元気か」
もはや人の心が読めなくなった今では、彼の真意を探ることもできない。
「宇宙船に乗ったとき以来、会ってはいないですが――L05に避難しましたし、政変には巻き込まれていません。でも元気で暮らしていると……」
「おまえは、自分の家のルーツをなにひとつ聞かされちゃいないのか」
「ルーツ……?」
「アンジェリカもか」
サルーディーバは困惑した。
生まれてすぐ、サルーディーバとして王宮で育てられ、父母と直接しゃべったことは、片手で足りるくらいの数しかない。
ペリドットは苦笑いし、「おかしなことを聞いた。忘れろ」と言った。
そして、
「イシュメルのことは、おまえが努力しなくてもどうにかなる。だから、まずは一緒にルナを助けよう。無理にとは言わん、考えておいてくれ」
と言って会話を終わらせた。
(ルナさんを助けたいのは山々ですが……)
サルーディーバは思った。
(そもそも、ルナさんとグレンさんが結ばれ、イシュメルが生まれれば戦争は終わるのです)
ルナが、イシュメルを懐妊すればいいのだ。腹に魂が宿ったその時から、イシュメルの働きは始まるのだという。
(急がねばならぬというのに……いったい、ロビンさんはなにをしていらっしゃるのか)
サルーディーバはいたむこめかみを押さえつつ、寝間着のまま寝室を出て、電話を取った。こちらから連絡するのは初めてだ。
数回鳴り、寝ぼけ眼の声が、向こうからした。
『はいはい――だれですか――あ――え!? サルーディーバさん!?』
あっという間に目覚めたようだ。
「ロビンさん、状況はどうなっていますか」
サルーディーバはつとめて冷静に言ったつもりだった。だが、苛立ちは声にあふれていた。ロビンはあきらかに、サルーディーバ本人が電話を寄越したことに戸惑っていた。
彼は沈黙したあと――神妙な声で詫びた。
『あ――申し訳ない。作戦は立てたが、肝心の“足”が動いてねえ』
「なるべく急いでくれと申し上げたはずですが。動いてくださらないのなら、契約は切らせていただきます」
『うっ……おっ!? ちょい待て!!』
ロビンは電話向こうで、あわてて叫んだ。
『ちょっと待ってくれ。もう金はもらってるんだぞ?』
ロビンを正規に雇ったときに支払う報酬、五百万デルを、彼女は即金で寄越したのだ。
「動いてくださらないのならけっこう。わたくしもいい勉強になりましたわ、メフラー商社の傭兵というものは、存外、信用ならないものだと、」
『ちょっと! 待て待て待て!!!』
本気で電話を切ろうとしたサルーディーバに、ロビンが必死の形相で食らいついた。
『悪かった! 俺が悪かったよ!』
依頼の内容が内容だっただけに、ロビンは侮りがあったことを、もう一度詫びた。
『俺が悪かった――でもあんた、期限を切らなかったろ』
サルーディーバは、急ぎだとは言ったが、期限は切らなかった。それはたしかだ。
急に無言になったサルーディーバに、ロビンは恐る恐る話しかけた。
『サルーディーバ……さん?』
「では、一週間以内になんとかしてください。それができなければ、契約は解消です」
電話は切られた。
ロビンは電話をしばらく眺めていたが、やがてポリポリと顎を掻き、床に放り投げられたパンツを拾って、女たちの待つベッドにもどった。
そこに、当然だがイマリもブレアもいない。ロビンがさっき言った“足”というのは、彼女らのことだ。
(そろそろ潮時だな)
ご機嫌取りも飽きてきたところだ。
(ふたりそろって、降りてもらうか)




