193話 アストロスの兄弟神 Ⅰ 4
「――九庵?」
アズラエルは、半分薄れかかった意識の中で、九庵の足袋と草鞋の足元を見つめ、頼もしいヤツが来たと安堵し、それから気づいた。
「おまえ、階段――」
上がれたのか?
先は言葉にならなかった。恐ろしいまでの圧迫感で。グレンはピクリとも動かない。
生きているのか? まだ――。
九庵は全身で息をしていた。ひと息に、アズラエルとグレンが倒れ伏している、五十八段目まで上がったのだ。
――まるで、小さなウサギに手を引かれるようにして、九庵は階段を上がった。
ルナではない。人の子のようで、人の子でない。ウサギにも見えたし、男の子のようにも見えた。チョコレート色をしていた。
彼に導かれるように、まるで跳ねるように、九庵は足取り軽く、階段を上がった。
ついに階段を上がれたことに対する、喜びの気持ちはほとんどなかった――それどころではなかったのだ。目の前の惨状を見て。
「わた、わ、わしは、な、何をすれば?」
息を切らせながら九庵がこぼすと、驚きから一早くよみがえったフサノスケが言った。
「アズラエルどグレンに肩を貸すが、引っ張って、上に上げる!」
九庵は、果てしなくも思えた、階段の上を見上げた。
「拝殿まで、ですね?」
「たぶん、そごまでは無理だ。神さんでも十段上げるのがせいぜいだがら」
「あたしで五段いった」
「ララさん」
九庵は、ララの存在にやっと気づいた。
「あたしで五段だ。それ以上はきっと無理だよ」
「ンじゃ、六段いぐど! 不死鳥ォ!!」
「なんだい!? 可愛くないヘビ公だね!」
不敵にニッと笑ったフサノスケに、ララは噛みつき、九庵はニッコリと笑った。
まるで用意されていたように、エンヤエンヤと運び込まれる酒樽。
グビグビと、自分の身長ほどもある樽酒を飲み干したウワバミことフサノスケの目が、ギラン! と金色に光るのを皆は見た。
「おいっしょォ!!」
掛け声とともに、フサノスケの背後に現れたのは、ララと同じ、八つの頭を持った龍だ。
「おいおい……ヤマタノオロチのお出ましかい」
ララの口から、タバコがぽろりと落ちかけた。
「うわぁ……おっきい」
ララの黄金の八つ頭龍よりも少し小さいが、それでもずいぶんな大きさだ。ルナたちは呆気に取られて空を見上げ、ニックとベッタラも、ケガの痛みに呻きながら、ようやく笑顔を見せた。
「こりゃ、頼もしそうだ」
フサノスケの龍体が、ぐるりとグレンを押しつぶしている巨大な足に絡みつき、ぐぐっと持ち上げた。フサノスケの、二本のたくましい腕も同時に。
「鬼ども!! いだいげな酒屋の坊ちゃんを助けでけろーっ!!」
「だれがいたいけな坊ちゃんや!!」
「いたいけな坊ちゃんは頭が八つもないわ!!」
「樽酒も一気飲みせんよ!!」
口々に突っ込んだ鬼たちは、彼らも様相を変えた――もともと屈強だった二の腕は倍の太さに盛り上がり、頭からは立派な角がにょきりと生え、口は、龍もビックリの二本の牙が、ぐわりと剥きだされた。
「ええ!?」
「君たち、そんな隠し玉持ってたの!?」
ニックとベッタラの眼窩からおめめが飛び出し、大声で叫んでしまったニックは、ふたたびケガの痛みに撃沈した。
「うおっ!?」
「うがあああああああああ」
むさくるしい気合いとともに、グレンはひと息に、六十三段目まで上げられた。
「あと一段!!」
「無理や無理!!」
「あーどーいーぢーだんーっ!!!!!」
「無理やこのボウズ!!」
「ガキンチョ!!」
「手ェ離し!!」
しばらく粘ったが、やはりこれ以上は無理のようだ。
血管が切れそうなオロチと鬼たちは、泣く泣くあきらめて、グレンを石段の上に降ろした。
息をつめてそれを見守っていた九庵は、今度は自分の番とばかりに、アズラエルに肩を貸した。
とたんに、すさまじい重さに気づくことになった。
膝をついた体勢から、立ち上がれない。アズラエルの片腕を担ぎ上げただけで、肩の骨が折れる音がした。
「お、おい――やめておけ、」
アズラエルの、らしくないほどのかすれ声を聞き、九庵は歯を食いしばった。
この人が、こんな弱々しい声を出すなんて。
足を、踏ん張った。そのまま、身体を持ち上げる。アズラエルの体躯ごと。
バキバキバキ、といくつかの骨が折れる音がした。
指の、腕の、足の、膝の、肩の、腰の、肋骨の――。
「があああああああっ!!」
九庵の口から出たのは悲鳴ではなかった。掛け声だ。
ぶわりと、九庵のわななきに呼応するように、階段の上に、焔に包まれた鳥の姿が現れた。
空が、夕焼けに染まった。
羽根の先が見えないほど――巨大な鳥が、空を赤く染めた。
――折れたそばから再生する。
九庵の骨は、何度も折れた。負荷に耐えきれずに折れた。そのたびに、折れたそばから再生した。
担ぎ上げられたアズラエルにもだが、九庵にも、何が起こっているのか分からなかった。
こんな速度で傷が、骨折が、再生するのは初めてだった。
九庵は、全身の骨が折れる音を聞きながら、前進した。
不思議なほどに痛みがない。これほどの目に遭っていながら、九庵は涙が出るほど嬉しかった。
自分は今、階段を上がっているのだ。
あの、何度も死ぬほど、死ぬ目に遭うほどに乞うた、拝殿目指して――。
「きゅ、きゅうあんさん、がんばって……」
ルナとミシェルは、互いの手を握りしめて、九庵を応援した。
「九庵ーっ!! がんばれ!!」
「上がっとるぞぉーっ!!」
階下からは、大路の皆の声援が背を押す。
九庵には、上がっている意識はなかった。ただ、前に進んでいた。意識を失った瞬間もあったかもしれない。アズラエルの声も、だれの声も聞こえない。
けれど、足は前に進んでいた。
恐怖はもう、なかった。
六十三段目で、九庵の足は止まった。それ以上上がろうとしても、先に勧めない。
「す、すみません、アズラエルさん――」
「いや、もう十分だ」
九庵は謝りながら、アズラエルを降ろした。そのとたん、ふっと世界を追いつくしていた不死鳥が消え、九庵も倒れ込んだ。
「だいじょうぶか!」
オニチヨが助け起こしてくれた。声が出ない。
骨という骨は無事だったが、なんだか、一気に生命力を使い果たしてしまったような気がした。
今は、燃えるような夕焼けではなく、白雲たなびく、青い空が見える。
「九庵! おまえ、上がったなぁ!!」
「上がれたんやぞ! 六十三段!」
キスケとキキョウマルが、泣きながら九庵を覗き込んでいる。
「キューちゃぁん!!」
今度はその声は、はっきりと聞こえた。はるか上から。
「ありがとーっ!! ホントにありがとう!! アズとグレンを助けてくれて、ありがとおおおおお!!!!」
ルナの声だった。声がかすれるほど張り上げているのが、九庵にもわかった。
自然と笑みがこぼれた。
拝殿までは行けなかったけれど。
自分は、ルナの役に立っただろうか。アズラエルの、グレンの、――真砂名の神の。
九庵は、今までにない幸福な気持ちで、目を閉じた。




