191話 孤高のキリン Ⅱ 4
ルナが部屋に帰ると、ずいぶんといい匂いが玄関先まで漂ってきた。
「ただいまぁ」
ルナとミシェルがぺたぺたとキッチンまで行くと、ノートパソコンをテーブルに乗っけてにらめっこしているクラウドと、キッチンに立つ、紺色のエプロンが似合うアズラエルが迎えてくれた。
「アズ、なにつくってるの」
「バリバリ鳥のシチューだよ。おまえ、血は嫌だとかなんとかいってたじゃねえか」
たしかに言った。カレンの状態を見たあとでは、もっとつくる気がなくなって、ピエトは楽しみにしているけれど、どうしようかと思っていたところだったのだ。
「え! アズがつくってくれたの?」
「アイツが言ってたとおり、肉はクセがある――やっぱ、セロリもいれるか」
アズラエルは、バリバリ鳥を売っていたラグ・ヴァダ族の商人に、シチューのつくり方を聞いてきた。
だが、そのままのレシピでつくると、肉は固いまま、野性味あふれる味で、とてもではないがルナもミシェルも食べられないだろう。シュナイクルに電話をすると、彼は惜しげもなくレシピを教えてくれた。
教えてもらったレシピ通り、肉を一度香草で煮流し、ジャガイモやトマト、タマネギにくわえて、ワインもだぶだぶ入れた。すると、なんだかとても高級そうな味になった。
味見をしつつ、満足げな顔のアズラエルの脇に来て、ルナは、彼のTシャツの裾をちょいと引っ張った。
「アズ――カレンの話、聞いた?」
「聞いたよ」
アズラエルはそっけなく言ったが、彼なりに動揺し、落ち着かないから、こんなに早い時間からシチューをつくっているのだろう。なにしろまだ午後三時だ。夕食には早い。アズラエルは悩みがあると、急に活動し出すので、ルナにはすぐわかる。
「ピエトには内緒だぞ」
「う、うん! もちろんだよ!」
ピエトに、言えるわけがない。
カレンがあと、三年しか生きられないなんて――。
「まったく、バリバリ鳥を買いに行っただけなのに、とんでもねえ土産持って帰ってくるハメになったぜ」
アズラエルは文句を言った。
「まぁ、毎度のことか」
ルナは床を見つめた。
「ごめんねアズ――」
「あ?」
「あの、あたし、……」
アズラエルはさらりとルナの髪の毛を梳いた。アズラエルのこういう触れ方は珍しい。
「あたしのせい、とか一度でも口にしたら、また気分転換のひとつきになるが? 今度はマルカあたりまでもどるか」
「それは、こまるのです……」
「だったら、笑ってろ。ボケウサギ面でな」
アズラエルはこれまた珍しい、柔らかな笑みを浮かべた。ルナはすこしほっとしたように「うん」とうなずいた。
「うらやましいから、そこでイチャつかないで!」と、クラウドからの非難を浴びながら。
「すんごいいい匂い~、ね、アズラエル、味見させて!」
ミシェルが寄ってきて、アズラエルにねだった。
小皿にひと匙、シチューをよそってもらう。ミシェルは、「マジやばいコレ! ビーフシチューみたい! ビーフシチューより美味いかも!」と歓声を上げた。
ミシェルも、なんだか無理にはしゃいでいるような気が、ルナにはした。
「アズラエル、ごはん炊いてね、あたしごはんにかけて食べる!」
「分かった分かった。まだ完成してねえんだ。あっち行って待ってろ」
「あたし、なんか手伝おっか」
「じゃあ、メシ炊けよ。おまえが食う分だけ」
「え? そんなんじゃ足りないでしょ」
「今日は、グレンがルシアンの警備員バイトで、セルゲイも病院にもどるんだろ。カレンはいねえし、ジュリはオトコのとこ行ったまま連絡ねえし、たぶん、今日は俺たちだけだ」
「ピエトは?」
「ピエト用に、ラグバダのパンを買ってきた」
「さすがパパ!」
「パパじゃねえよ」
「あっ、先に弁当箱洗っちゃお。ルナ、おべんと、マジうまかったよ! ありがとね♪」
「……うん」
ルナ~、エプロン借りるね~と、ルナのエプロンをつけてキッチンに立ったミシェルを、ルナはぼけっと見ていた。
「ルナちゃん、ヒマなら、俺の相手をしてほしい」
クラウドがパソコンの画面を睨みながら、厳かに言った。
「そこの、アストロス族の筋肉ムキ男は、さっきから俺を邪魔者扱いするんだ」
「俺は地球人だ。てめえのくだらねえおしゃべりに付き合って、シチューがまずくなったら、だれが責任とるんだよ」
今日のシチューははじめて作るんだから、アタマつかってんだ! とアズラエルが吠えた。
「俺は、K33区であったことを聞きたいだけなのに」
クラウドはふて腐れてぼやく。ルナはクラウドの要望に応じて、向かいにぽてりと座った。
「なんでも聞いて!」
「ラグ・ヴァダの神話のことは、ピエトに聞くとして――じゃあ、ルナちゃん、昨日の出来事を一から話してくれる?」
「うん!」
ルナは喜び勇んで説明をはじめたが、聞かないことにしていたアズラエルのツッコミが十数回を数えるほど、その話の解読は困難をきわめた。だがクラウドは、何度もルナの夢の話をまとめてきた辣腕の持ち主である――彼の頭脳は、常人よりもはるかにかしこい。
脳の「ルナ専用翻訳機」らしきものを始動させたクラウドは、ルナのあちこちに飛ぶ話を、見事に要点をまとめ、正確に記録した。
「俺も、K33区に一度は行くべきだな……」
クラウドは、パソコンに記録したデータとにらみ合いながら、そうつぶやいた。
「サルディオーネにも聞かなきゃ。“真実をもたらすトラ”ってのは、だれか。俺はその人に会わなきゃならないし……」
ルナのウサ耳が、ぴこん! と跳ねあがった。“真実をもたらすトラ”の語句にだ。
「あたしにまかせて!」
ルナは叫んだ。
「アズ! あれどこにあっただろ!?」
「アレか? グレンが俺たちの荷物を玄関先に置いてって――たしか寝室に置いた」
「二人とも知ってる? アレコレで会話が成り立つのは熟年夫婦の証で」
クラウドの微妙な冗談を聞いていないルナは、てててーっと寝室に行き、ZOOカードボックスを抱えて戻ってきた。
「ルナちゃん――それ――なに!?」
クラウドは、箱を見て予想がついたのだが、それをルナが持っていることが信じられなくて、とりあえず聞いた。
「ZOOカードです!」
ルナは叫んだ。
「ペリドットさんにもらった!」
「もらった!?」
「マジで!?」
ミシェルがシンクの方からあわてて出てきた。ルナの手元を興味津々で覗き込む。
「あたしはZOOの支配者になりました! ペリドットさんが指をパチンして月を眺める子ウサギが出てきて王冠がピカピカしたの! あたしはそれでうさこが期限付きのZOOの、」
「ルナちゃん、それで“真実をもたらすトラ”がだれか分かる?」
「きっと、わかります!」
ルナはZOOカードボックスをゆかに置き、正座して、箱に向き直った。ミシェルとクラウドが、ごくりと唾を飲んだ。
ルナが、指を鳴らした。むなしい擦過音がして――指がさらっとこすれたような音がしただけで鳴らない――箱は、微動だにしなかった。
「あれ?」
ルナは首を傾げ、もう一度同じことをやった。でも、箱は開かない。三日月模様の南京錠も、外れない。
「きのう、ペリドットさんは、そうやって開けたんだよ?」
ルナは言い訳をしたが、開かないものは開かない。クラウドが、指をパチンと――今度はアズラエルにもその音が聞こえるほどはっきりと――鳴らしてみたが、開くはずもなかった。
「えーっと、アンジェは――」
アンジェリカは、ZOO・コンペティションのとき、どうやって、ZOOカードをあつかっていた?
「そうだ! 眠れ――そして目覚めよ!」
ルナは、アンジェリカが言っていた文句を思いだし、声高らかに叫んだが、箱は開かない。
「ZOOカードの箱よ開け! 月を眺める子ウサギ出てこい! 真実をもたらすトラさん出てきてください! 箱さん、開いて!」
ルナは、ボックスを見つめた。
「どうやったら開くの!?」
「ペリドットさんとやらは、つかいかたを教えてくれなかったの?」
クラウドが聞いたが、ルナは首を振った。
「てきとうにつかえって、ゆわれた……」
「てきとう……」
ミシェルが呆れた顔をした。呆れる気持ちもわかる。
「う、ウサギのカードよ出てこい! う、うさこ! うさ! 開けごま! ウサギ、うさこ! 月とウサギ! うっさ! ウサギ! あたしはルナです! 開いてください! 開けうさ! ひらけごま! ごま! くるみ! ぴーなつ! ごま!」
ルナは思いつくかぎりの言葉をZOOカードボックスに浴びせたが、箱はピクリとも動かない。
まったく、開く気配はなかったのである。
「――なんですって?」
セルゲイは、医者が言った言葉がにわかには信じられず、聞きかえしてしまった。
「ですから! アバド病の細菌が、消えていってるんですよ!」
膠着状態のセルゲイとは逆に、医者は大興奮だった。カレンの肺のレントゲン写真をセルゲイに押し付けながら、医者は踊り出しそうないきおいでしゃべった。
「カレンさんのアバド病、治るかもしれません!」
セルゲイはやっと、言われていることを認識した。
「ア――アバド病の細菌が、消えた?」
いままで、L系惑星群の名医といわれた医者、何人に見せたことだろうか。地球行き宇宙船に乗ってから、彼の主治医となった医者――めのまえの彼――も、なかばあきらめかけていたと言うのも、嘘ではない。
カレンのアバド病は、肺に付着した細菌が、薬を飲んでも一向に消えなかった。肺そのものも、一度だけ移植した。カレンの肺は、人工臓器だ。だが、移植してまもなく、再発した。いままでの事例では見ない再発の仕方に、カレンのアバド病は「治らない」と診断されたのだ。
それでも、根気よく薬は飲み続けた。宇宙船に乗ってからのカレンの病状は、ますます悪化の一途をたどった。来年にはレベル5になるだろう、そうしたら、周りにも告知して、入院しなければなりませんと、この医者はセルゲイに告げたのだ。
「検査の連続で申し訳ないですが、三時間後にもう一度検査を」
「なんですって?」
「ものすごい勢いで、細菌が消えてるんです。この調子でいけば、明日の診断は、レベル1まで下がるかも」
「……!?」
「新薬が効いたのかなあ……! そうかもしれない、――いや、でもまさかほんとうに、吐いたら出て行ってしまったんですかねえ」
医者は、しきりに首をかしげている。セルゲイだって信じられない。レントゲン写真を見つめたまま、セルゲイは絶句する。
「カレンさんの症状は、レベル3から一気にレベル2の初期へ。きのうの検査でレベル3の初期に下がっていて、一日でレベル2の初期に。すごい効きようですね、新薬は」
「……」
セルゲイは言葉が見つからなかった。
新薬が効いたのか、ほんとうに、吐いたら出て行ってしまったのか。そのどれもが本当で、ちがうような気もした。
『あたしが、メルーヴァ討伐の総司令官になる』
(カレン)
カレンが見つけた生きる希望は、たしかな形となって、カレンの中に芯を根付かせたのか。生きる希望は生命力となって、カレンの命をつないだのか。
(――ほんとうに、治るの)
セルゲイは、だれにともなくつぶやいた。




