191話 孤高のキリン Ⅱ 1
カレンは目覚めた。
病院のベッドの上でだ。消毒液の匂いをひさしぶりに嗅いだ。エレナの出産以来――そのまえは、L20の病院――もっとさかのぼれば。
この匂いに慣れなければいけない原因となる病が発覚した、L85のアバド鉱山近くの、陸軍病院――。
「カレン、具合はどう」
セルゲイが、憔悴した顔で自分をのぞき込んでいた。カレンは申し訳ないことをしたと思った。なによりもセルゲイにだ。自分の身に何かあったら、面倒を背負い込むのはセルゲイだ。自分の身を、ひとつの星の首相から任されている彼の立場を、カレンはまた慮らなかった。
「ごめん――ほんとに。あたしはだいじょうぶ」
身を起こす。大丈夫な証拠だ。カレンがいるのは集中治療室ではなく、ただの病室。意識不明で集中治療室、とでもなったらだいじょうぶ、なんて言葉は言えないが、このとおり動けるし、気分も悪くない。
「また、派手に吐いちまったな。ルナがびっくりしてなきゃいいけど」
その言葉に、セルゲイは顔を曇らせ、カレンに寝るよう促した。
日は高い。あれから何時間たった――カレンは昼近いと思ったが、まだ午前十時にもなっていなかった。
セルゲイの顔がげっそりしていて、目の下には隈があった。彼は寝ていないだろうし、カレンを心配するあまり、必要以上にやつれたに違いなかった。
「どうしよ、セルゲイ」
「なにが?」
「グレンたちにバレちゃった」
「……」
セルゲイは困ったように微笑し、
「潮時ってことじゃない?」
「いやだなあ。アイツら、変に気をつかって、あたしを病人扱いしたらどうしよう」
「しかたがない。事実、病人なんだから」
「……ルナなんか、ホント、お母さんみたいに、心配してくれそうだよな……」
カレンの目の端から、涙がひとすじ、こぼれた。
「ごめん、……あたしもう、ひねくれたこと、言わないよ。昨日はホントにバカなこと、言ったと思う……」
「うん。反省してるならいい。許すよ」
昨夜は、セルゲイも頭を抱えてしまうほどの話を聞いたのだ。カレンの気持ちが、過度に高ぶっていたとしても無理はない。
「義母さんも、アミザも、あたしのこと一生懸命守ろうとしてくれてるの、分かる。でも、正直こたえた……地球行き宇宙船に乗れって言われたときには」
「……」
「あたしの病気にも、後継者問題にも、もう匙を投げちゃったんじゃないかなって思った。それでなくても、義母さんはとっくの昔からひどく傷ついてる……あたしがいなければ、どれだけいろんなことが楽だったか。正当な後継者はあたしだけど、一族はみなアミザを後押ししてる。あたしが、いなければ、」
――すべては、丸く収まるんだ。
カレンは喉を詰まらせた。
「そう思うのなら、このまま地球行き宇宙船に乗っていればいい」
セルゲイは、優しくカレンの髪をすいた。
「ここには、君を疎む人間はひとりもいない。君を邪魔に思う人間も。マッケランの跡取りだとか、君のお母さんのことで、君を穿った目で見る人間もいない」
「……」
「アズラエルもグレンも、君のいいケンカ仲間。ジュリという可愛い妹件彼女がいて、クラウドのくどい解説を聞きながらみんなでテレビを見る。ミシェルちゃんとたわいないことを話しながら食器を洗って、ピエトを連れて買い物に行って、ルナちゃんがおいしいご飯を作ってくれる。ラガーに行けば飲み仲間がいる。オルティスも、バグムントもいい人だ。最近会ってないけど、ミシェルもロイドも、いつあっても変わらない態度で接してくれる。ハンシックのみんなも気のいい人たちだ。バーベキューパーティーを、またやろう。――そして君は、このまま宇宙船で暮らして、地球に行く」
セルゲイの長い指が、カレンの頬を撫でた。セルゲイは初めてそうした。最大限の慈しみを込めて。
「――夢みたいな生活だな」
カレンは泣き笑いの表情でつぶやいた。
「その夢みたいな生活は、夢じゃなくて、現実なんだ。わかるだろ」
カレンは涙を拭った。――夢のよう。ほんとうに。
アズラエルやグレンとどつきあって、ジュリがなにかおかしいことを言って、みんなで笑って、――ルナが、おいしいコーヒーを淹れてくれる。おいしい、ルナのごはん。
ミシェルはどこかアミザに似ていて、いっしょにいると落ち着く。
クラウドの理屈っぽい話も、なくなるとさみしい。ピエトみたいな弟がいたら楽しい。
エレナとルーイと暮らした生活も、それはそれは楽しかった。
にぎやかで明るくて――なんて、夢みたいな生活。
「……ずっと、続けばいいのに」
「続くんだよ。君が、宇宙船を降りなければ」
「……」
「あたしのそばには――セルゲイがいるの?」
「そう。俺は、ずっと君のそばにいるよ。ぜったいに、一生、君のそばから離れないから……」
「なんだか、プロポーズみたいだな」
カレンはおかしげに笑った。
「そう思っても、いいんだ」
「……あたしは、女としてあんたを受け入れることはできないのに?」
「俺は、君の友人として、一生そばにいるといった」
「――ルナは」
ルナはどうするの――あんたの、ルナへの想いは。
カレンが穏やかに聞くと、セルゲイはしばらく黙し、言った。
「君が宇宙船をおりたら、俺も君と一緒に宇宙船を降りなきゃいけない」
カレンは目を見開いた。考えてもいなかった、という顔だ。
「君が、ルナちゃんを守りたいと願うなら、このまま宇宙船にいて。俺もルナちゃんを守りたい。それは同じだろう」
「セルゲイ」
カレンは腕で瞼を覆った。
「あんたは、この宇宙船に残っていいんだよ」
セルゲイは、カレンの、目を覆った腕を引き剥がした。多少、強引に。
「いい――カレン。俺の目を見て」
セルゲイの漆黒の目が、カレンを見据えていた。
「君が宇宙船を降りるなら、俺も降りる」
「セルゲイ――」
「俺は君を独りにはしない。言っただろう、俺は君のそばにいる」
「ルナは」
「ルナちゃんには、アズラエルがいる」
カレンは困ったようにセルゲイを見返し、
「あたしには、あんたを縛り付ける理由なんてない。――あたしは男も女も好きになれない。あんたの恋人にもなれない」
「俺は君の友人だ――恋人じゃない」
セルゲイはきっぱりと告げたが、カレンは困惑した顔で、セルゲイから目を反らしていた。
「カレンが、アバド病だって?」
シャイン・システムという便利な移動手段のおかげで、クラウドとミシェルは、アズラエル一行より早く、中央病院に着いていた。病院のロビーで、やっと着いたアズラエルたちをつかまえたクラウドは、当然のごとく「なんでおまえら、ここにいるんだ」というグレンのツッコミを受けたが、追跡アプリを見せると、皆納得して肩をすくめた。
そうして、知った事実がこれである。クラウドもミシェルも、アズラエルの期待通り驚いたあと、顔を曇らせた。
「昨夜、宴会の最中に血を吐いて、そのままここに搬送だ」
「血……」
ミシェルが不安そうな顔をした。
「だいじょうぶなの?」
「アバド病って、いつから? そりゃ、宇宙船に乗る前だろうけど――進行度は? 悪いのかな」
「知らねえよ! 俺たちだって、きのう知ったばかりなんだ。それをこれから、本人たちに聞くところなんだよ」
クラウドとミシェルに質問攻めにされ、アズラエルは鬱陶しげに顔をしかめた。
受付でカレンがいる病室を聞くと、一般病棟だったので、皆はひとまず安堵した。意識不明の重体というわけではなく、患者の症状は、落ち着いているらしい。
「ピエト、おまえはカレンの病室に顔を出したら、そのまま俺と帰るぞ。ルナのカードでシャインつかって帰る」
「ええっ!? なんで?」
ピエトは口を尖らせた。
「午後の授業だけでも出ろ。学校に行け」
「ええーっ!?」
アズラエルの言葉に、ピエトは本格的に嫌な顔をしたが、アズラエルは譲らない。
「俺との約束、破る気か? 二度とK33区、連れてかねえぞ」
きのうは特別に学校を休んだが、身体の調子を崩しているわけでもないのに、二日連続休暇は、パパは許してくれなかったようだ。ピエトはつまらなそうな顔をしたが、それでも約束は約束。不満げに、「はぁい」と返事をした。
「――ところで、その格好、どうしたの」
ミシェルのツッコミは、だいぶ遅れていた。ミシェルの疑問は当然である。グレンとアズラエルの服装は、どこぞの民族衣装だ。
「聞く順番がちがうだろ」
最初に、この服装のことを聞けよとグレンは言ったが、「コスプレ?」とクラウドが聞くと、「違ェよ!」と怒鳴った。
救いは、ここが中央病院で、宇宙船一大きな病院であるため、こういった民族衣装の人間もちらほら見かけることだった。グレンとアズラエルも、ちらちらと視線を浴びた。「辺境惑星群のひとかなあ」とでも思われているのだろう。
「似合わなくはないよ――ほら――アレ――剣とか持ってたら、地面とか割りそうな感じ――ほら、あったじゃん――鎧つけて映画で――グラディエーター!」
「かみさまみたいだよね」
ルナの襟首をひっつかまえ、グラディエーターと言われた筋肉ムキムキの太もも丸出しの男二人は、さっさとエレベーターに乗り込んだ。
「なんか、あのふたりってほんと体型にてて――白と黒で、兄弟みたいだよね」
真顔でいうミシェルの台詞に、クラウドは吹きだしかけ、カレンの心配で曇っていた顔がすこし晴れた。




