187話 ラグ・ヴァダの神話 Ⅱ 1
「メルーヴァ……?」
ペリドットの台詞を復唱したのは、ルナだけではなかった。アズラエルたちも思わず口にしていたし、ベッタラですら驚きを露わに、ペリドットに聞き返していた。
「ルーナさんが、メルーヴァなのですか?」
「そうじゃよ」
ペリドットではなく、老人のひとりがうなずいた。三人の老人たちも、原住民の部族なのだろうが、口から出る言葉は流暢な共通語だ。
「今宵、我らはメルーヴァを迎える予言を受けておった。……さあ座りなされメルーヴァよ、アストロイの姫よ」
「ルナは“ルシヤ”だぞ!?」
大声でそう言ったのはルシヤだったが、ペリドットは穏やかな笑みを浮かべた。
「たしかにルナは、“ルシヤ”でもある」
ルシヤの言葉を否定はしなかった。
「だが、“メルーヴァ姫”でもあるんだ。彼女の前世のひとつだ」
ルシヤはあっけにとられたまま、口を開けていた。
メルーヴァと呼ばれたルナ本人は、呆然と突っ立ったままで、やがて、そのピンクのほっぺたが、だんだんと膨らんでくるのがアズラエルにも見えた。
アズラエルは驚いた――そう、ルナは、怒ったのだ。
「るなです!」
ウサギはほっぺたを盛大に膨らませて叫んだ。
「このあいだからルーシーとかメルーヴァとか、一応ルシヤとか! いろいろちがうなまえで呼ばれるけど、あたしはるなです! ルナ・D・バーントシェント!」
ルナの方に手を伸ばしていた金の蓬髪の男は――周りの老人たちも――呆気にとられた顔をした。ベッタラも、ルナが怒るとは思ってもみなかったのだろう。びっくりしてルナを見ている。
シュナイクルが、一番先に笑った。
ルナを“メルーヴァ”と呼んだ肝心の男は、手を引っ込めて、豪快な笑い声を響かせた。
「はっはっは! そりゃァそうだな! こいつァ俺が悪かった」
男は素直に詫び、
「俺の名は、ペリドット・ラグ・ヴァダ・マ・アース・ジャ・ハーナ・サルーディーバだ。座ってくれ、ルナ。俺はあんたを待っていたんだ」
そういって、今度こそルナに握手を求めて、手を差し出した。
「あんたが、ペリドットか」
アズラエルが以前、この地でベッタラたちと酒を呑んだとき、よく聞いた名だ。
「そうだ――ひさしぶりだな。シュナイクル」
「ああ」
ペリドットはルナより先に、シュナイクルの大きな手を握った。それから、彼はバンビに視線を移した。
「電子装甲兵の話は聞いたぞ。なんとかなったようだな」
「……おかげさまで」
バンビの声は、潤んでいた。さまざまな感情を込めて。
「サルーディーバ……?」
そして、グレンのつぶやき。
「あんたは、L03のサルーディーバと、なにか関わりがあるのか」
セルゲイもカレンも、アズラエルもグレンもまた、その名が意味するところを知らぬわけではない。名の中に、マ・アース・ジャ・ハーナの言葉が入ることも、彼らを戸惑わせた。
「関わりがあるかと問われれば、あると言える。ないと言えばない。今おまえたちがサルーディーバと呼んでいる生き神の存在は、地球人がL03の原住民を従わせるためにつくった傀儡で、俺は、太古からL03に存在する、ラグ・ヴァダ王族の末裔だ」
「王族だと……?」
この男は、何者なのだ?
ルナはぷっくりほっぺたをやっとしぼませて、ペリドットの手を取った。乾いてゴツゴツした、大きな手だった。
彼はしっかり、握り返してくれた。
「……もしかして、真砂名神社のイシュマールおじいちゃんと親戚ですか」
ルナは握手ついでに、おずおずと聞いた。彼の名は、名前と惑星の名以外は、すべて、あの真砂名神社の神主おじいさんと同じだ。ペリドットは首を振った。
「イシュマールは友人だ。だが、似たようなものか」
「ル、ルナ、ちがうよ、その人は――王様だよ!」
ルナの耳に飛び込んできたのは、ピエトの遠慮がちな叫びだった。
「ラグ・ヴァダ人の、王様だ……!」
ピエトは、アズラエルとグレンの隙間に引っ込んで、恐る恐るペリドットのほうを伺っているのだった。
「王様……!?」
ルシヤが叫ぶ。
ラグ・ヴァダの王族だとは聞いていたが、すべてのラグ・ヴァダ族の頂点に立つ、王そのひとだとは知らされていなかったようだ。
「坊主、おまえはラグ・ヴァダ人だな?」
ペリドットが笑みを向けると、ピエトは何度もうなずいた。
「そう畏まるな。たしかに俺はラグ・ヴァダ王族の末裔だが、今はただの根無し草だ。仲良くやろうぜ」
ピエトはきょろきょろと、落ち着かなげに皆の顔を見回し、それから、毛布から出てきた。
ペリドットは、ピエトを、ひょいと抱え上げて膝の上に乗せた。ピエトはあわてたが、このきかん気の子どもにしては、ずいぶん素直に、ペリドットの膝に落ち着いた。
「(おまえはどこのラグ・ヴァダだ?)」
「(エ、エルト……)」
「(ああ、アバドの民か)」
「(ペリドット様は――アバドに行ったことがある?)」
「(ああ、あるよ)」
ペリドットとピエトの間で交わされる会話は、ラグ・ヴァダの言葉だ。しっかりと聞き取れたのはアズラエルだけで、カレンとグレンは単語をひろってだいたい理解した。セルゲイとルナはまったく分からないので、アズラエルに通訳を頼まねばならなかった。
たき火を囲んで、ピエトとペリドットだけのおだやかな会話がつむがれているあいだに、軽快な音楽が鳴りだしたのでルナはうしろを振り返った。広場中央の大きな井桁の火の近くに、音楽隊がいる。それにあわせて踊るひとたちも。
陽気な曲だった。こちらまで楽しくなってくるような。
「ピエト。おまえ、さっきの歌、知ってるのか」
あの不思議な歌を、ピエトもいっしょに歌っていた。ベッタラも。
ルシヤが聞くと、ピエトは胸を張って言った。
「ルシヤは知らねえのか。あれはマ・アース・ジャ・ハーナの神話だぜ! ラグ・ヴァダ族ならみんな知ってる!」
「マ・アース・ジャ・ハーナの神話?」
ルシヤが首を傾げた。
ピエトは、それを、ルナとミシェルとクラウドに教えると約束したことは、すっかり忘れているようだった。
ルナだけが思い出した。さっきの歌詞には、何度もマ・アース・ジャ・ハーナの語句が出てきたが、まさかマ・アース・ジャ・ハーナの神話だったとは。
「ベッタラも?」
「ハイ、知っています」
ベッタラは、運ばれてきた、湯気の立つ料理を仲間から受け取りながら、そう答えた。
アズラエルは言った。
「どうして。おまえラグ・ヴァダ人じゃねえだろ」
「ラグ・ヴァダではないアノールですが、細かく言わないと分からない。アノールはラグ・ヴァダと同じくちがう、いっしょの勇敢な、たのしい民族で……」
「(しょうがねえ。アノールの言語で話すか)」
「(アノールとラグ・ヴァダはもともと同じ民族だ。アノールは、ラグ・ヴァダを守る武神の血を引いている。ラグ・ヴァダの武神はアストロスで没したが、ラグ・ヴァダに妻を残していた。アノールはその末裔だ。だからこの歌を知っている)」
「(武神の末裔か。なるほど。アノールが戦の民族と言われている意味が分かった気がするな)」
「(アズラエル。正確には武を重んじる民族だ。アノールは戦を好まない。武の民族である由縁だ。私は許すが、ほかのアノールのまえで“戦の”民族などと言ってみろ。決闘を申し込まれるぞ。どちらかが死ぬまでのな)」
「(すまん。気を付ける)」
「ふたりはいったい、なにをしゃべってるの」
ぜんぜん分からないルナが、口をとがらせてベッタラの袖を引っ張ると、ベッタラはとろけるような笑みを見せた。
「ルーナさんは、イワシのようにちいさく可愛らしいです……! ベッタラはアーズラエルを羨ましがることを希望します……!」
「おまえは共通語になると、急に残念な男になるな」
「まあ、込み入った話はあとにしよう。まずは同じ飯を食おう」
ペリドットはピエトを膝に乗せたまま、カップを掲げた。
「乾杯!」
ベッタラと老人たちがカップを掲げた。
「乾杯!」
ルナもアズラエルも――ピエトもカップを掲げた。シュナイクルたちも。遅れて、カレンとグレン、セルゲイも。
聞きたいことは山ほどあったが、たしかに全員腹の虫が鳴った。
原住民の集落のド真ん中で宴会をするなんて――しかも彼らと同じものを食しながら――というのは、グレンとカレン、セルゲイにとっては、この宇宙船にでも乗らなければ、半永久的に実現しないできごとであっただろう。
完全に緊張が解けたわけではないが、グレンたちもここまで来て、周りの原住民たちが自分たちを害する気がないことは、よく分かった。そう悟れば、肝の座りも早い彼らである。すっかり腰を落ち着けて、酒を呷った。
ここが地球行き宇宙船の中だということも、彼らの警戒をほぐした一要因だったろう。何分、この宇宙船は治安が良すぎる。
「これに慣れちまったら怖いな……」
グレンの独り言は、カレンとセルゲイの気持ちも代弁していた。
「はい、ルーナさんの分」
ベッタラがルナに差し出したのは、熱々のシチューが入っている丸い木の器だった。銅製のカップに、琥珀色の飲み物も継ぎ足してくれる。
「ベッタラさん、すごく身体が暖まったんだけど、これってお酒?」
「お酒です。ワタシたちがよく飲むものはお酒がきついでありますけれども、ルーナさんのものは、お酒が薄くて薄いものに、はちみつをたっぷりかけてあります」
なるほど。飲んだとき身体がぽかぽかしたが、酔っぱらうほどでもない。
「すごくおいしいよ」
ルナが笑顔を向けると、ベッタラも頬を赤くして「おいしいは、非常によろしいです」と笑顔になった。
「(おい、ベッタラ。ルナに惚れるなよ)」
今度はグレンがアノールの言葉でベッタラを制したので、ベッタラは目を丸くした。
グレンは、これでも勤勉で知られた優等生だったのである。学生時代、授業にまともに出ず、メフラー商社に入ってから原住民の言語を覚えた、どこかの傭兵野郎とちがって。
軍事惑星の学校には必須科目としてかならず、原住民の言語がある。原住民の種類は星の数ほどあり、学ぶ言語は選択制だ。グレンが学んだのはアノール族の言語。L4系にはラグ・ヴァダとアノール、ケトゥインが多いので、学生が選ぶのはたいていそのどれかだ。
「(私はひとの妻を奪いはしない。おまえとちがって)」
「(はァ!? 俺とちがうってどういうことだ)」
「(アズラエルの妻に恋慕しているのはおまえだろう)」
グレンはたまりかねて怒鳴った。
「(このクソ傭兵野郎とルナは、結婚なんぞしてねえ!)」
「(なんだと!? 妻ではないのか!?)」
「おい、余計なこと言うな銀色ハゲ!!」
アズラエルの制止で、グレンはやっと、自分がまずいことを言ったのだと悟った。ベッタラが、じーっとルナを見つめ始めたからだ。人の妻をジロジロと眺めるのは失礼にあたるアノール族の男が、遠慮解釈なく見つめ始めたと言うのは――。
「イルカ、じゃ……なくても……イワシでも……」
ブツブツいいながらベッタラはルナを見つめ、ルナが「いわし?」とベッタラを見返すと、彼はにっこりと笑った。
「いいか良く聞け少佐どの。アノールじゃ、結婚した女に横恋慕するのは罪だが、結婚してなきゃ奪っていい決まりなんだ」
「……」
アズラエルのまえで反省する気はなかったが、グレンは猛烈に後悔した。右手で顔を覆う羽目になった。
「強い男が自分の欲しい女を勝ち取るのには、だれも文句言わねえ。人妻でさえなきゃな!」
だからわざと女房だってことにしといたのに、とこめかみに青筋を波打たせるアズラエルに、反論する言葉はひとこともなかった。
蜂蜜酒をひとくち飲み、シチューに手を付けようとしたルナを、ベッタラが制した。
「ちょっと待って」
彼は、たき火の中で焼いていた肉の串を取り、ルナのシチューに入れてくれた。別の器に入っていた葉っぱと木の実を散らして、ルナに渡してくれる。
「アノールではこうやって食します」
「おいしい!」
「セルゲイ、なんとかしろよ」
ルナがベッタラに狙われてる……! とカレンがセルゲイを突いたが、アノールの言葉もよくわからないセルゲイには、無難な牽制のすべが見当たらない。
「ベ、ベッタラ、これ、アノール族の食事かな? おいしいね」
セルゲイがなんとか、ルナとベッタラの会話の間に入ると、「そうです! セールゲイはアノールの味を楽しみます!」と返ってきたので、「う、うん……楽しみます」と言って会話が終わってしまった。
「これほど……力不足を痛感したことってないよ……」
セルゲイはつぶやき、「うん……なんかごめん」とカレンが哀しげに言った。
かわりに、ルシヤが宣戦布告した。
「今日は、ルナのボディガードとして仕事をする、最初の日だよ!!」
セルゲイとカレンは、頼もしいルシヤに、盛大な拍手を送った。




