21話 ジャータカでもないその隙間 Ⅳ
ルナが目覚めると、隣にアズラエルはいなかった。
部屋は薄暗く、夕方か朝方か分からない。ベッドわきのデジタル時計を見ると、十七時ではなく、五時を指していた。
朝だ。朝やけが、大きな窓から見える。
ここは、海が見える、あのマンションだ。
まだ太陽は上がっていない。うっすらと、海の向こうにオレンジが空を染めようとしている。ルナは思わずその美しさに目を引かれ、それから気づいた。
アズラエルは部屋にいなかったが、別のひとがいる。
大きなソファに腰掛け、新聞を広げていた。
男が気づいて、目を上げた。
「おはよう」
渋い声に、ゆったりとした動作。アズラエルのように大きい人だが、アズラエルほど、妙な威圧感はない。銀色の髪が、光に反射して綺麗だ。色素の薄い髪と目。髪はアズラエルほど短くなかった。白い清潔なポロシャツを着て、長い足をスラックスに納めている。
足が長くて、ソファから放り出した先のガラステーブルに当たって、邪魔そうだった。
「いい時間に起きたな。朝陽が上がるぞ」
男はそう言って、ひょいとルナを持ち上げて、窓際まで連れて行ってくれた。
大きなベランダと窓。風景は、窓いっぱいの海と朝やけ。
「綺麗だろう」
男はルナを片手で抱えながら、窓を開けてくれた。優しい風と、わずかな潮のにおい。
海の波満ち引く音が、穏やかな音量で鼓膜に届いた。
「……ほんとだ。きれい」
ルナはベランダに下ろされたので、手すりにつかまって、海と空を眺めた。
爽やかな風が、ルナを包み込んでは吹き去っていく。
ベランダは、カーペットが敷かれていたので、ルナはぺたりとそこに座った。しばらくそこで、陽が昇るのをぼうっと眺めていた。
男が、大きなカーディガンをルナにかけてくれる。それから、大きなマグカップに、コーヒーを入れてきてくれた。
「ありがとう」
ルナは受け取り、飲みながら朝やけを見た。男もルナの後ろに、長い足を放り出して座り、ルナを後ろから抱きかかえるようにして、一緒に朝やけを見た。
朝日が昇り、すっかり明るくなって、街並みも鮮やかに見えるまで二人でそうしていた。
かあん、かあん、と遠くで工事の音が聞こえる。部屋から左斜めの方向に、建設中の建物が見える。ビルのようだ。
ルナが、くしゅん! と小さなくしゃみをすると、男が苦笑して窓を閉める。
「風邪をひく」
ルナの冷えた身体を温めるようにまた抱き抱え、ソファに戻る。
「アズラエルは? どこ行ったの? ……あなただれ?」
男はルナの髪を撫でながら、笑った。
「覚えてねえってのは分かってたが、いざそう言われるとこたえるモンだな。俺はグレンだ。アズラエルは、ちょっとでかけてる」
「……グレン?」
「そう、グレン」
グレンが作ってくれた朝食は美味しかった。目玉焼きにソーセージがふたつと、蒸したアスパラガスとトマト、レタスがついていて、オニオンスープとバターロール、デザートに剥いたオレンジ。ヨーグルト。
「……“キョウカイ”には行った?」
グレンの問いに、ルナは首を傾げた。
「教会……?」
「いや、いいんだ」
グレンは首を振り、「いつか、行ける」とあいまいな笑い方をした。
「キョウカイ、には、なにがあるの?」
今度はルナが聞いた。グレンは少し考えてから、言った。
「“始まり”があるのさ。あそこには――」
「はじまり……」
「ああ。ホントの始まりだ。まだ、ずいぶん先の」
「あたしは……」
「まだ終わってない。俺たちの“物語”は」
グレンは食事を終えてから、静かにつづけた。
「おまえがアズラエルに負い目があるからさ。無意識のうちにアズラエルを幸せにしたい、と考えてるだろう? アズラエルもそうだ。アズラエルもおまえも、互いに、相手に負い目を抱えてる。――負い目ってのは言い方が悪いな。ようするに、互いに愛し合って幸せになって、相手も幸せにしたいのさ」
「グレン、は?」
「俺か?」
グレンは苦笑して、言った。
「俺もおまえを愛してる。おまえも俺を愛してる」
「うん……」
ルナは素直にうなずいた。
「だろ? 俺とおまえはもう満たされてる。セルゲイもそうだ。今は、アズラエルの番なんだ」
「……」
「そんなに考え込むなよ。単純な話だ」
「グレンとアズラエルは仲がいいの?」
グレンは盛大にコーヒーを吹きかけた。
「仲がいいわけないだろ」
「なんだか、グレンとアズラエルって、似てるの」
「それはそうだろう。俺とアイツはきょうだいだった時期もあったし。おまえが――」
グレンは言いかけて、じっとルナの目を見つめた。何か言いたそうだったが、グレンは静かな目でルナを見つめたまま、動かない。
それを告げられても、違和感は湧かなかった。そうではないかという気はしていたからだ。
「セルゲイは――どうなの?」
「そうだな……」
グレンは、ちょっと考え込むような顔をした。
「おまえとセルゲイの関係は、ある程度修復されてはいるんだが、セルゲイは、長い間支えてくれてた、縁の濃い人間がいる。カレンっていうんだが」
「カレン!」
「彼女はセルゲイの父親だったり、執事だったり、不倫相手だったり、妹だったりして、ヤツの不遇の時期を支えてた。だから今度はセルゲイがカレンを支える番なんだ。だから、今はカレンが優先だから、おまえとの関わりは後回しなのさ」
「うん。セルゲイは、あたしの、おにいちゃん、だった……」
「そうだな」
「グレンは――なんでも教えてくれるんだね」
「教えるさ。おまえが知りたければ」
そう言って、苦笑するグレンは、「アイツは、不安なんだ」と付け足した。
「……アイツが一番不安がっているのは、おまえを失うことだ。なぜそういう不安が生まれるのかは、おまえも分かるだろう? アイツはおまえと、安心した幸せを築けたことがないからだ。いつも、アイツがおまえを失う結果になった。恋人の時は無論、親子や兄妹であってもだ。アズラエルは、その傷がとても深い。俺とおまえは、そりゃいろいろあったが、お互い愛し合って幸せにいれた時期もあった。だから、互いに不安はない」
「あたし――」
ルナは、フォークを置いた。
「あたし、どうしてアズラエルがあたしを守ってくれるのか、わかったような気がする」
グレンが、ルナの髪を撫でた。それはそれは、優しく。
「……苦しみや悲しみ、つらさ、そういった経験は、もう、いらないだろう? おまえがいらないと思ったら、それでもう、忘れていいものなんだ。いつまでも後生大事に自分の中にしまっておく必要はない。捨ててしまっていいんだ。むやみやたらに傷つきたがる必要もなければ、大切にしまっておく必要もない。長い年月が、苦しみの経験を癒し、浄化してくれる。不思議だろう? 苦しみは長い年月の中でやがて喜びや嬉しさと混じりあって熟し、それは不思議な強さや、安心の元になるんだ。捨てても捨てきれなくても、やがて円熟する。おまえにもアズラエルにも、そういう強みがあるんだ。今はまだ、真新しいキズに、気を取られているだけだ。傷もやがてかさぶたになり、綺麗にかさぶたも取れる時が来る」
ルナは泣いた。
かさぶたが剥がれて、朝日が昇ったのだ。
汽笛の音がし、まるで笛のような、なつかしい鳥の声がした。




