180話 布被りのペガサス Ⅷ 2
(――おや)
エルドリウスが帰宅した、深夜一時すぎ。
フライヤが寝室におらず、書斎の方から灯かりがもれているのに気付いた。
彼は軍装のままそっと書斎の扉を開け、パソコンに向かっているのがフライヤだとわかると、ついでのようにノックをした。
「あ、エルドリウスさんおかえりなさい」
よほど集中していたのだろう。カツカツと軍靴を響かせて廊下を歩いたはずなのに。ノックするまで気づいてもらえなかったエルドリウスはあきれ、
「ずいぶんがんばっているね」
とフライヤのところまで来て、肩をもんだ。
「うん。ちょっとね」
「まだ、寝ないのかい」
「うん――三時くらいまでがんばって、寝る」
フライヤは目を擦りながら、またキーボードに向かった。
「なら、僕も、そばにいていいかい」
フライヤは驚いて、「え? 寝ていてもいいですよ」と言ったが、エルドリウスは笑って、部屋を後にした。
エルドリウスはどこか胸をときめかせながら軍装をとき、シャワーを浴びて、寝間着とガウンに着替え、それからフライヤと自分のために紅茶を淹れた。はちみつたっぷりのロイヤルミルクティーを。
(――僕が、だれかの仕事のために、紅茶を淹れる日が来るとは)
エルドリウスの胸のときめきをだれかに説明しても、きっとわかってもらえないだろう。シルビアあたりなら、「信じられない人ね」と憤慨しそうだ。
エルドリウスのいままでの恋人は、彼自身が多忙であるせいか、尽くす形の女性が多かった。こうしてエルドリウスが遅くまで仕事をしていると、紅茶を淹れてくれたり、ガウンをかけてくれたり。それを当然のことと享受していた自分――鬱陶しいと思うことすらあった自分が。
(まさか、多忙な妻のために、紅茶を)
意外と自分は、尽くされるより尽くすタイプだったのかなと、エルドリウスは、新たな自分の発見に驚きあきれながら、クッキーを添えた紅茶を、フライヤのもとに運んだのだった。
「え!? うわ、エルドリウスさん、ありがとう!!」
フライヤは今でもたまに、さん付けになったり、敬語になったりするが、それはあくまで年上に対するフライヤのクセのようだ。
「僕も、ここで本を読んでいていいかね。話しかけたりはしないから」
「え? あ、う、うん。だいじょぶです」
フライヤは紅茶を軽く口に含んで、キーボードで続きを打つ。
エルドリウスは、かたわらのソファに腰かけ、読みかけの本を開いた。
しばらく、キーボードをたたく音が続いた――三十分もたっただろうか。紅茶が冷めかけたころ、フライヤが大きな伸びをしたのが、エルドリウスの視界に入った。
「う~ん。ちょっと、休憩!」
フライヤはさくりとクッキーを齧り、甘いミルクティーを飲んだ。
「おいしい……。疲れた脳に効きます」
「それはよかった」
エルドリウスも、本から目を上げた。
「なんだか、嬉しいです」
フライヤは、パソコン画面に疲れた目に目薬を差し、目をぱちぱちさせながら言った。
「なにがだい?」
仕事疲れか、昂揚しているのか――のんびりとした彼女にはないくらい、言葉がぽんぽんとリズミカルに出てくる。
「こういうの、嬉しいし、楽しいです――なんだか」
目を擦りつつ彼女は言った。半分眠ったような顔だった。でもエルドリウスは、フライヤのいわんとしていることが分かった。
エルドリウスも同じだ。
「僕もだよ」
それはほんとうにそうだった。さっきの胸の高鳴りが、それを証明している。
「僕も嬉しいし、楽しい。僕の理想だったんだ――妻とこうして、同じ部屋でいっしょにすごす。僕が仕事をしていて、君も仕事をしていてもいい。本を読んでいてもいい。おだやかな、時間を、ともに、――」
エルドリウスの言葉が終わらないうちに、フライヤの頭ががつんとキーボード上に落下した。エルドリウスは深夜にもかかわらず、声を上げて笑ってしまった。
さいわい、データは消えていないようだ。エルドリウスは慎重に、デスクトップにデータを保存し、フライヤを抱き上げて、寝室に向かった。
朝起きたら、いつも通りエルドリウスの姿形もなかった。いったい彼は、いつ休んでいるのだろう。フライヤは寝ぼけ眼を擦りながら、ベッドから這い出た。
フライヤは、自分がオチたことは分かっていたので――紅茶を飲んでからの記憶がなかったので――エルドリウスに、丁重なごめんなさいメールを送っておいた。
カレンダーをチェックすると、エルドリウスは来週まで帰って来ないことがわかった。
ようするに、フライヤは夕食を作ったりせずともよい。エルドリウスさんごめんねと心の中だけで謝りながらにんまりし、ついでに掃除と洗濯もサボることにした。一週間後、エルドリウスが帰ってくるまえになんとかやっておこう。
こんなことになるんだったら、初日にpi=poでも買い込んで、設定しておくべきだったのでは――あんなに暇を持て余していた時期があったのに――フライヤは思ったが、もともとフライヤにとってpi=poは贅沢品だ。買おうと思う思考にすらならなかったのだ。
pi=poは、良心的な値段で売ってはいるが、メンテナンスや機能のアップロードなど含めると、維持費がけっこうかかるのだ。あまり安いものだと五年で交換が常識の消耗品。暮らしていくのに精いっぱいのフライヤの家庭では、不必要なものだった。アパートも狭かったし。
エルドリウスはフライヤとふたりで暮らしたいといって、執事やメイドも置かなかったし、家事は最低限ふたりでやっていたが、こういうときは悩む。
フライヤは生まれて初めて、pi=poが欲しくなった。
しかし、先日のエルドリウスのプレゼントの中に、pi=poはなかった。
いつもどおり出勤し、コピーひとつ仕事がなく、「フライヤさんは、レポートやっといてくれればいいよ」と上司の公認を得たので、喜んでそれに集中させてもらうことにした。
一日をレポートづくりに費やし、定時に帰宅して、つづきは家でやろうと玄関扉を開けると、おいしそうな夕食の匂いが。
まさか、またエルドリウスに作らせてしまったのか。それはさすがに……! と思って、「エルドリウスさん、すみません!」とキッチンに駆け込むと。
「あんた、やっぱりエルドリウスさんに作らせていたのね!」
母親がいて、フライヤは呆気にとられた。
「あんたは、料理が下手だから! いつ返品されるかと思っていたけどね――まさか、まさかエルドリウスさんにつくらせていたとは! あんなに忙しい人に!」
フライヤは、母親がいた衝撃で頭が回らなかったのだが、あわてて否定した。下手なりに、日々食事を作っていたのはフライヤだ。フライヤのほうが先に帰るから。
母親はうさんくさそうに娘を見――フライヤとは比べ物にならない小柄な身体を反り返らせて、娘を睨んだ。
「きのう、何食べたの」
フライヤは、おずおずと白状した。朝に菓子パン、夕飯に菓子パン、夜食にクッキーと紅茶。今朝も昼も、菓子パン一個と紅茶。テーブルに並ぶ、なつかしい母親の手料理に涙が出てきそうになりながら。
「ほんとになさけない子だよ! エルドリウスさんがいないときたら、そんな食生活ばっかり!」
フライヤには言う言葉がなかった。エルドリウスが帰ってくる来週まで、そんな食生活がつづくことはすでに決定事項だった。
もしかして、母親を呼んだのはエルドリウスだろうか。フライヤがおずおず聞くと、そのとおりだと返事が返ってきた。
「あんたは、エルドリウスさんに心配ばかりかけるんじゃないよ!」
あたしはあの人のおかげで仕事もしなくていいし、いいお医者さんも紹介してもらった、こんな料理も掃除もできない娘をもらっていただいて、涙しか出てこないよと母親はさんざんわめいたあと、
「あたしが、しばらくこちらに居させてもらうことにしたんだよ! こんなバカ娘のために、お手伝いさんなんてもったいない……!」
フライヤは呆気にとられた。エルドリウスは、メイドを雇おうとしていたのか。
もしかしたら――もしかしなくても、フライヤを仕事に集中させてくれるために。
去年までのフライヤだったら、まさかそんなことは考えなかったが、あのリビングが埋まるほどのプレゼントをもらったあとでは、エルドリウスがそれくらいやりかねないことは、十分予想できた。
『はじめましてフライヤさん。わたしはpi=poの、ケフィアくんです』
ピポパピポ♪ と軽快な音を奏でてリビングからやってきたのは、最新式のpi=poだった。
球形のスケルトンホワイト。女子人気が高いタイプ。やたら長い手を伸ばしてきて、pi=poはフライヤに握手を求めた。
「シルビアさんが、こんな高いやつ買ってくれて、掃除やら料理やら、設定までしてくれたんだよ……! もう母さん、あの人たちに足を向けて寝られないよ! さぁ、さっさとシルビアさんにお礼の電話を、」
「母さあああん!!」
「うわっ、なんだいこの子は! いいからはやく電話して、お風呂入っておいで!」
フライヤはpi=poの「ケフィアくん」と両手で握手をしたあと、温かいお風呂に入っておいしい夕食を食べながら、ちょっぴり泣いたのだった。
一週間後。
栄養失調で倒れることもなく、フライヤは無事に、レポートを満足いくまで仕上げることができた。それもこれも、家で食事を作ってくれたり、掃除洗濯をしてくれた母親と、「ケフィアくん」をくれたシルビアのおかげであり、さらには、母親を呼んでくれたエルドリウスのおかげだ。
作りこんだ資料を、お茶室のプリンターでプリントアウトし、倉庫から空きダンボールをもってきて、紙の束をつめこんだ。
とりあえず、心身ともにフラフラだったが、ひどく充足していた。
ひさしぶりだ――こんな、達成感は。
「できました。これ、作戦立案部に持っていけばいいんですよね?」
管理官は目を剥いた。
彼のデスクにどかんと置かれたそれは、ダンボール二箱分。
中身はぜんぶ、紙。
「――あんた」
彼はやっと言った。
「USBとか――記録媒体におさめるって手は、なかったの」
フライヤは口をあんぐりと開けた。
「USBでよかったんですか!?」
フライヤがあわてて要項をたしかめると、“文書の提出は電子媒体でも可。”とちゃんと書かれていた。
フライヤは恥ずかしすぎて顔を覆った。どちらにしろ、用紙一枚程度でいいものを、ダンボール二箱分もレポートを提出するような部署はないだろう。
管理官が目を白黒させていると、バターン! とお茶室のドアが無遠慮に開き、黒い軍服――心理作戦部の隊員がふたり入ってきた。
菓子を貪っていた女たちは「きゃあ」だか「うわあ」とかいう悲鳴をあげて、部屋の隅まで逃げて行った。
心理作戦部隊員はそれらを一瞥し、まっすぐフライヤのもとへ向かってきた。
彼女ら二人は、フライヤも見知っている。
いつも心理作戦部にいけば会う、アイリーンの側近だ。
「アイリーン様の命令で来ました」
フライヤに敬礼して言った。
「なにか、お手伝いできることがあれば」
彼女らはいかめしい顔はしているが、フライヤにこっそりウィンクしてみせた。心理作戦部に通ううち、仲良くなったふたりだ。
(アイリーンも、エルドリウスさんも、ほんとに気がつくというか、手回しがいいというか)
フライヤは感嘆とともに呆れもした。だが助かったのは事実だ。
ひとりでこのダンボールを運ぶのに、二往復しなければならなかったところだから。
「あ――じゃあ――これ運ぶの、てつだってくれますか」
「こちらですね」
「行き先は、作戦立案部ですね」
大柄な隊員二人は、さっさとダンボールをひと箱ずつ持って、部屋を出た。
フライヤは、「じゃあ、いってきます」と管理官にあいさつし、二人の後を追った。
残された皆がそろってドアに突進し、フライヤたちの後ろ姿をのぞく。
「心理作戦部の隊員を、アゴでつかってる……」
「すごいじゃない、あのこ……」




