178話 八つ頭の龍 Ⅰ 4
(ヤベ)
絵に見惚れていたであろう時間に、ふいに突入した来訪者――ミシェルを驚きの目で見据えたララの表情に、不機嫌がやどるのをミシェルは見た。
「あ――す、すみません」
神妙な空気をぶちやぶってしまったことだけは、ミシェルにもわかった。
なんとなく、黒髪の男に睨まれているように感じる。ララにも。
もうすこし遅れてくればよかった、とミシェルは後悔した。おそらく、この場に自分はお呼びでなかっただろう――クラウドに聞かされていたイメージも強かったし、あのパーティー会場の一件もあったせいで、ララは怖い人だという刷り込みは消えていなかったが、挨拶くらいしなくては、ますます気まずい。
ミシェルは恐る恐る、
「は――はじめまして。ミシェル・B・パーカーです」
と小さく頭を下げた。
ララの反応は、ミシェルが想像したどれともちがった。
「ミ――ミシェル・B・パーカー!?」
きらめくドレスの影がゆらりと立ちあがったかと思うと、ズダーン! とものすごい音がした。それが、ララがミシェルの前にひざまずいた音だと分かるのにミシェルは――寸時、要した。
「ミ、ミシェル・B・パーカー!? あなたが!? あなたがミシェル!?」
両手を握りしめられ、ミシェルは若干、引いた。
「は、はい――ミシェルで――」
「お会いできて光栄です!!」
「――はい?」
ミシェルにはい? 以外の返事が可能だったろうか――可能なわけはない。ミシェルは、頬を紅潮させて自分の足元にひざまずいている人物がだれなのか――一瞬でも、不明になりかけた。
「あ――こち――こちらこそ――お会いできて光栄です――?」
ミシェルは、両手をララにつかまれたまま、へっぴり腰でやっとそれだけ言った。
「信じられない――信じられない。ほんとに、今日は最高の日だよ! ルーシー、どうして、どうして、まあ!!」
ララはルナとミシェルを交互に見て、興奮気味にしゃべった。
「アンジェの言ったとおりだ――ルーシーがあたしに、百五十六代目サルーディーバの生まれ変わりと出会わせてくれるって――まさか、今日にかい? ルーシーとの再会の日に!? ルーシーに出会えたあげく、船大工の兄弟の絵も手に入って、あたしの憧れのひとと――ああ――あたし、しあわせで溶けちまいそうだよ――!!」
ララの有頂天ぶりには、ルナも目をぱちくりとさせ、それ以上にミシェルの腰が盛大に引いていた。
「はじめまして――あたしはララ。ずっとあなたに、会いたかった――」
「――あ、ああ……あ、ありがとう、ゴザイマス……?」
「シグルス!!」
ララはしばらく、ものすごい目力でミシェルを凝視していたが、やがてすっくと立って、秘書に手を出す。秘書は――シグルスは、心得たように、ララの手に、ペンと小さなノートを渡した。
ララがそれにサラサラとなにか書きつけ、一枚破って、ルナに渡した。ルナが戸惑いながらもそれを受け取ると――その紙切れが小切手だということが分かった。だがルナは、そこに書付けされた金額を見て――「んん?」と唸った。
ぜろが、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん――。
うしろからそれを覗き込んだミシェルともども、ものすごい勢いで吹いた。
「五億!?」
「もちろん、あの絵のお代だよ。ルーシー」
ララは、ルナが突き返すことを予測していたのか、ルナの手ごとにぎりしめて言った。
「ダメだよ。これは受け取っておくれ」
「でも、あたしはなにも――なにもしてないんです。ほんとに。そのっ……夢を見ただけで。この絵も、理由は分からないけど、サルーディーバ記念館から送られてきて、」
「ルナ」
ララはルナの肩を抱きしめて言った。
「あなたは――なにもしていないかもしれない。でもこれは、わたしの、ルーシーへの感謝の気持ちなんだ。彼女には、どれだけ良くしてもらったか分からない」
「でも――」
「あなただけじゃない。ミシェルへの報酬でもある。あの絵を描いたのは、ミシェルの前世だからね」
ミシェルも、困ったように頭を掻いた。前世だと言われても――覚えがないのだ。
ミシェルには、あの絵を描いた記憶など残っていない。
「じゃあ、こういおうか」
ララは、ルナとミシェルと視線を合わせたまま言った。その表情も声も穏やかだったが、“ビアードではなく、“ララ”だった。
「え?」
「クラウドは、あの絵で、あたしと取り引きをしようとした」
「――え?」
顔色を変えたのはミシェルだ。
「ああ、責めてるんじゃないよ。あたしもクラウドなら、取り引き材料に使っただろう。そして、それもあなたのためだ、ミシェル」
「あ、あたしのため……?」
「そう。具体的な内容は言えないけれど。――クラウドがよくあなたたちを、ふたりだけでここへよこしたね? 悶着あったんじゃないのかい」
ルナとミシェルは顔を見合わせた。
「ふふ、まぁいいよ! あなたは、たぶんほとんど何の見返りもなく、あたしに直接、絵を届けてくれた」
それは、ルナの夢に、八つ頭の龍が出てきて、泣いたからだ。
私に絵をちょうだいと。
「百五十六代目サルーディーバの絵に、どれだけの価値がついているか知っているかい? 知らないだろうね。まぁ、中途半端に“知っている”ヤツなら、このあたしに対して、何の見返りもなくあの絵を、しかもお願いしたとおりに届けてくれるなんて、ふつうはしやしないということさ」
ララは微笑んだ。
「でもあたしは、これでもこの地球行き宇宙船の事業にも関わる、一実業家なのさ。あなたの所有財産を、快く譲渡してくれたことに対する礼儀を示したまでだ。あたしの信用のためにね」
ルナはこくりと息をのみ、「わ、わかりました……」とつぶやいた。
「それに、昔のルーシーだったらこういうだろうね。『ビアード、ひとにいいことをすれば、いつか返ってくるのよ。幸運は巡るものだから』」
ララは歌うように言った。
「『幸運は、ひとところに留まらない。不幸も同じ。巡るもの』。――あなたには、巡り巡って返ってきただけのものさ。わたしだって、物のわからないやつにこんな大金を与えたりはしないよ」
ルナは、ララを見つめた。ララの目は、ルナを慈しんでいた。
「あなたが、だれよりも有益にそのお金をつかってくれるから――渡したのさ。あなたは、昔からそうだったから」
でなければ、宇宙船内の美術館の創設に、あれほどの投資をすることはなかった、とララは言った。ルーシーは純粋に、宇宙船に乗る船客に、世界で最高の美術品を見せたかった、そして、そう願うビアードのために、投資してくれたのだと。
世界最高の美術館をつくるために、彼女は生涯をかけて尽力した。
「あなたが美術館に投資した資産に比べたら、こづかいのようなものさ」
「おこづかい!」
ルナは絶叫した。宝石商であり、宇宙船の株主でもあったルーシーにとっては、たいした額面ではないかもしれないが、田舎星L77で平凡に暮らしてきた一庶民、ルナにとっては、気の遠くなるような数字であることはちがいない。
(宇宙船のチケットが五枚もかえます……)
隣のミシェルを見ても、目と口が真ん丸になっていて、金額を指さしておおげさに両手を広げて、肩を竦めた。
ララはシグルスとなにか話している。ルナには、ララがこの小切手を返して欲しくないと思っていることは分かっていた。――でも。
ルナの唇がバッテンになっているのを見て、ララはしゃがんでルナと目線を合わせた。
「だったら、詫びとしてもらってくれないか」
「わび?」
「アンジェラがあなたにしたことのお詫びだよ。謝っても、謝りつくせないことを、あの子はした」
ルナは言われて、ようやくそのことを思い出した。ルーシーとビアードの再会ショックで、そちらのことはすべて頭から抜けていたのだった。
ルナをアズラエルと別れさせようとするために誘拐をたくらんだことや、アンディ、ルシヤ親子を利用したこと――なにより、そのことで、ルナに大きな危険が迫ったことを。
ララは、ひとつひとつ挙げて、謝罪した。
「言い訳にしか聞こえないかもしれないが、アンジェラは、DLのことや“電子装甲兵”なんてものの意味なんて、まったく分かっていなかったんだよ。どれだけ危険な男をつかおうとしたのか分かっていなかった。フリーの傭兵くずれみたいに思っていたのさ」
ララは嘆息気味につぶやいた。
あの事件をもみ消すのは、さすがのララでも無理だった。降船と理事降任も覚悟したと彼女は言った。
「さすがのあたしも、報告書を読んで肝が冷えた。……もうあんなことは、こちらもゴメンだ。今度の講習会のことも、しっかり見張っていたつもりだったんだけどね。あの子は、こちらの思惑をいつもぶっ飛んで、もめごとを起こしちまう」
ララは立って、首を振った。
「いや、なにを言ったって、いいわけにしかならないね――」
困り顔で肩をすくめたララに、ルナは小切手を見、ミシェルを見、それからララを見上げた。
「ありがとう。――あたしがなにかしたってゆうのじゃないけども、受け取ります」
「ホントかい!?」
ララの顔が明るくなった。
いろいろ思うところはあるけれど、アンジェラのことは、もしかしたらララも押さえきれないのではないかと、ルナもミシェルも思い始めていた。
けれど、このお金を受け取ることで、今までのことに対しての謝罪を受け取ることになるような気もした。どこまでもこれを突き返せば、ララは自分が許されていないと感じるのではないだろうか。
もし、ララがララのままだったら、受け取ること自体が怖かったかもしれないが、(あとでなにが起きるか分からないし。)「ビアード」からだと思うと、受け取ってもいいような気が、ルナにはした。
ルーシーの心かどうかは、分からないけれども。
「あなたが、必要だと思ったときに、つかえばいい。きっと見つかる。あなたなら、見つけられる。というよりも、」
ララは、笑った。いたずらっぽく。
「あなたにはきっと、必要になるさ」
「必要に……?」
ルナはもう一度小切手に目をやったが、まったく使い道が思い浮かばなかった。宝の持ち腐れとはこのことではないだろうか。
ルナとミシェルが小切手を呆れ顔で眺めているあいだに、またたくさんの人間が駆けつけてきて、船大工の兄弟の絵を、それはそれは慎重に、五人がかりで運び出した。
「ていねいに、ていねいにね! 一筋たりとも傷をつけようもんなら、同じ傷をつけてやるからね!」
ララの凄みのある脅しは、子ウサギと子ネコを竦みあがらせるのにじゅうぶんな迫力を持っていた。絵が業務用エレベーターのほうへ運び込まれるのを見届けると、ララとシグルスは、ルナたちのいる場所へもどってきた。
「まあいいさ! 積もる話をしよう。シグルス、応接室は空いていたっけ」
「はい。ではお先に。私はお茶のご用意を」
「頼むよ」
ルナとミシェルの肩を抱いて向かおうとするララに、ふたりは怪訝な顔を向けたので、ララは拗ねるように言った。
「なんだい? もう帰るなんて、そんな寂しいことを言うんじゃないだろうね?」
ララは、ララだった。
過去や前世がどうであれ、いまや宇宙船の株主であり、大きな会社や財団の社長であるララの貫録に、ちっちゃなうさこと子ネコが、否やを唱えられるわけがなかった。




