20話 リハビリ夢の中 Ⅲ ~ガソリンスタンドの男と黒いスリッパの娘~
ライオンさんは、いつも、見ているだけでした。
二〇四号線のガソリンスタンドは、いつも閑古鳥です。
ガソリンスタンドのガラス戸の向こうには、険しい顔をしたライオンさんが新聞を広げて、黒い革張りのソファに座っています。
ライオンさんは、刑務所から出て来たばかりだと近所ではもっぱらの噂で、だから、近所の人はそのガソリンスタンドには行きません。このガソリンスタンドに止まるのは、ライオンさんのことを知らない、この町を通り過ぎていく人たちだけです。
平和を望むこの町内の人々は、できればライオンさんに町から出ていってほしかったのです。
ライオンさんが本当に刑務所に入っていたかどうかはわかりません。でも、愛想とは無縁の人でしたし、第一、左腕に派手な刺青がありました。体格はよかったし、渋い声と口調は、いかにもその筋の人特有の雰囲気を醸し出していました。
近所の人は皆、ライオンさんを怖がっていましたし、嫌っていました。
ライオンさんがみんなになにか悪いことをしたわけでもありません。ライオンさんはただ黙って、いつもガソリンスタンドで新聞を読んでいました。
そんな、だれも来ないガソリンスタンドに、たまに小さなお客さんが来ることがあります。
それは、仲のいい、銀色トラのお兄ちゃんと、ウサギちゃんの兄妹でした。ふたりは仲良く手をつないで、ライオンさんのところに灯油を買いに来るのでした。
ライオンさんも近所では噂の種でしたが、その兄妹も噂の種でした。なにしろ、この兄妹のお父さんのキリンさんは、酒乱で、飲むと暴れて、幼い二人に暴力を振るいます。お母さんはとっくに逃げ出してしまい、ふたりは、昼間から酒を飲んで暴れるお父さんのもとに残されてしまったのです。
トラお兄ちゃんは、いつごろからか、小学校に行かなくなっていました。妹のウサギちゃんがまだほとんど言葉を話せないので、家に残しておけないと言います。
ライオンさんのガソリンスタンドに来るとき、トラお兄ちゃんはよく顔を腫らせてやってきます。ウサギちゃんもケガをしていることがありました。
たまに、ライオンさんは腫れた顔に湿布を貼ってあげたりします。妹のウサギちゃんにお菓子をあげると、ウサギちゃんも喜びますが、滅多に笑うことのないトラお兄ちゃんがすこし口の端をあげるのをみると、ライオンさんもなんだか嬉しいのでした。
子どもの手には重いポリタンクを、小さなトラお兄ちゃんが、ふらふらと持って歩いていくのをみると、手伝ってあげたくなります。でも、一度ポリタンクを持って家の前まで送ったら、トラお兄ちゃんが、あとでもっとお父さんに殴られたのだと、ウサギちゃんが泣いて話したことがありました。
ライオンさんは、どれだけキリンお父さんを殴って、あのふたりを手元に置きたかったかわかりません。そうしてもいいと思っていました。でも、そういうわけにもいきません。近所の人は、ライオンさんがあわれな兄妹に近づくことにいい顔をしませんでしたし、そんなに簡単な問題でもなかったのです。
……ライオンさんは、いつでも見ているだけでした。
見ていることしかできませんでした。
数年経ちました。
トラお兄ちゃんは、親戚の援助もあって、なんとか小学校を卒業して中学校に上がりました。
ウサギちゃんは小学校には行っていません。相変わらず、体も小さく、言葉もうまくしゃべれません。
兄妹が灯油を買いに来るのも、続いていました。
トラお兄ちゃんはすっかり大きくなり、妹のウサギちゃんを抱っこして、ポリタンクを片手で持てるくらいでした。トラお兄ちゃんは滅多に話しませんでしたが、それでも、ウサギちゃんに微笑みかけるたまの笑顔は、相変わらずライオンさんの心を和ませていました。
そんなある日の夜中。
ライオンさんは、木戸を叩く音で目が覚めました。階下に降り、木戸をあけると、そこには兄妹が立っていました。トラお兄ちゃんの目が爛々と光っています。ライオンさんにはわかりました。それが、なにをしたあとの目だったかは。
トラお兄ちゃんは荒い呼吸で言いました。「親父を殺した」
ぼろ切れのようなリュックサックを、妹ごとライオンさんに突き出しました。
「妹は何も知らない。アンタのとこに預けといた、そういうことにしてくれ」
そう言って、トラお兄ちゃんは駆け出して行きました。
それが、ライオンさんの、トラお兄ちゃんを見た最後です。
ウサギちゃんは何も分からずにライオンさんを見上げています。
ライオンさんは黙って、ウサギちゃんを部屋に入れて、血のついた服を着替えさせました。ウサギちゃんのパジャマは、お兄ちゃんの手からついた血で汚れていました。
着替えはリュックサックにいくつか入っていたので、パジャマはまとめて捨てました。ウサギちゃんがサンダルがわりに履いてきていた黒いスリッパ――は、洗って、乾かしておきました。
ウサギちゃんの靴は、この黒いスリッパだけだったのです。
明日になったら、かわいい靴を買ってやろう。ライオンさんは、なんだか楽しみができたような気がして、すこし微笑みました。
夜中だったので、ウサギちゃんはこっくりこっくりと、首を揺らしています。ライオンさんは自分の布団に連れて行き、寝かしつけました。
次の日、たくさんのパトカーが、兄妹の家の前にとまっていました。
ガソリンスタンドにも警察は来ました。ライオンさんは色々聞かれましたが、黙っていました。
ウサギちゃんは、親戚だという夫婦に連れられて、去って行きました。
夫婦はまさか、ウサギちゃんが外ではいている靴が、黒いスリッパだとは思わなかったのでしょう。靴のないウサギちゃんを、夫のほうが背負って、出て行きました。
可愛い靴は、買ってあげられませんでした。
ウサギちゃんのスリッパだけが、ガソリンスタンドに残りました。
何度も、何度もウサギちゃんは、振り返ってライオンさんを見ました。
ライオンさんは、ただ、見ているだけでした。
数年後、刑務所から出てきたトラお兄ちゃんは、この町に戻ってきましたが、あの二〇四号線のガソリンスタンドは、チェーンが掛けられていて、だれもいません。さびれたガラス戸の奥に、黒い革張りのソファが見えました。
ライオンさんがどこに行ったかも、だれもわかりません。
トラお兄ちゃんは、妹の行方を探しました。でも、町内のひとはだれも知ってはいませんでした。
一度だけ、ウサギちゃんは大きなパンダさんに連れられて、この町へ帰ってきたことがあると言います。パンダさんは親戚の人で、トラお兄ちゃんが住んでいた家を管理してくれていたそうです。でも、トラお兄ちゃんは、パンダさんなんて親戚は知りませんでした。
トラお兄ちゃんも、妹を探してこの町を出て行きました。やがて、兄妹が住んでいた家は壊され、更地になりました。
二〇四号線のガソリンスタンドも更地にされて、レストランができました。
もうこの町には、トラとウサギの兄妹や、ライオンさんのことを知っている人はどこにもいません。




