176話 エレナとルーイの降船 2
「そう言われたら、あたし、うなずいちゃってた……」
エレナの目からぽとり、としずくが落ちてコーヒーの水面に波をつくった。
「あたしが最初に想像してたのは――たったひとりで、L7系に行って、ちっちゃな家で、娼婦じゃない仕事で暮らして、一ヶ月に一度、いちごのケーキを食べる生活。だんだんその世界が、こどもと一緒に暮らす世界にふくらんで……そのうちにルーイのおかげで、あたしの想像は一人じゃなくなっちゃった。ルーイと、セグと、それからルーイのお父さんと、お母さんと……欲ばりだね、あたしは」
「エレナさん」
ルナはついに我慢できなくて言ってしまった。
「しあわせになってね」
エレナは、やっとルナを見た。涙で真っ赤になった目で。
「……ルナと、ここでケーキを食べたの、本当に嬉しかった」
あんたを一度は殺そうとした――あたしを許してくれて、ありがとう。
講習会では泣かなかったミシェルが――いきなり鼻をかんだおかげで、ルナも涙目になったのを、ごまかすことができた。
「ミシェルちゃんもありがとう。あたし、羊毛フェルトで、いっぱいマスコット作るよ。ルーイの分も、セグの分も」
「ちょ……やば、それダメ、あたし、それダメだわ……」
ついにミシェルもずびびと大きな音をたてて鼻をかんだ。音が大きすぎて、男たちにも気づかれてしまった。
「なんで、みんな泣いてるの」
子どもとは、黙っていられないものだ。ピエトの言うみんなとは、ルナとエレナとミシェルだけではなかった。聞いていないはずのルートヴィヒまで目と鼻を赤くし、ミシェルからティッシュをもらっていたのでは、ごまかしようもなかった。
「ごめ、ごめ、ごめんでも俺はエレナと、セグと、エレ、エレナを幸せに……、」
ミシェルとルナと、エレナとルートヴィヒの鼻をかむ音だけがしばらく盛大に響いた。
「エレナ」
クラウドがエレナに手を差し出した。
「俺のことを忘れないで。俺は、エレナにはじめてできた、寝なくてもいい男友達だろ?」
この地獄耳どもは全員、聞いていたのだ。
エレナはしっかりとクラウドの手を握り、涙をぬぐうためにやっと離した。アズラエルは何も言わなかった。だまって、エレナに手を差し出した。エレナの目はふたたび決壊し、アズラエルの懐を十二分に濡らすまで泣いた。大洪水だった。
ルナがエレナの背をさすり、ルートヴィヒも同じだけ大号泣していたが、だれもルートヴィヒの背はさすってくれないので、ピエトが見様見真似でルナのまねをし、ルートヴィヒの背をさすってやった。
「おまえ! いいヤツだなあああああ!」
「うわっ! なんだおまえ」
感動したルートヴィヒがピエトを抱きすくめ、いいこいいこをしだしたので、ピエトは暴れ、やっとみんなの笑い声とともに涙は止まったのだった。
「降りちゃうのか、ほんとに。残念だなあ」
涙が笑いに紛れたそのとき、八人目の声がして、皆の目はそちらに向いた。
アントニオが、お盆にコーヒーポットと、スリムなグラスに盛られたパフェをふたつ載せて、立っていたのだ。
「アントニオ――店、いいのかよ」
「だいじょうぶ。今の時間帯、混まないしね。俺もちょっと、交じっていい?」
「ああ、す、座ってくれ」
ルートヴィヒが鼻まで真っ赤になった涙顔を隠しつつ、隣をあけた。アズラエルがそばのテーブルから、椅子を引っ張った。
「これ、お代わり用のコーヒーね」
飲んで、とアントニオは、まずコーヒーポットをテーブルの中央に置き、それからパフェをひとつずつ、エレナとルートヴィヒの前に置いた。
「え? 頼んでねえけど」
ルートヴィヒが不思議な顔をすると、アントニオが笑った。
「宇宙船を降りるひとへのサービスなんだ。リズンのね――ルナっちは、知ってると思うけど」
アントニオのおおげさなウインクに、ルナはうなずいてみせた。
ルナがケヴィンを、このリズンから見送ったのが、なんだか遠い昔のことのように思えた。ルナはうつむく。
陽が沈む夕暮れは、なぜこんなにも感傷的になるのだろう。
「そ、そうか。悪いな! じゃあ遠慮なくいただきます!」
「い、いただきます」
ルートヴィヒもエレナも、甘いものは好きな方だ。だがショートケーキを食べたあとだったし、パフェは小ぶりだが、食べきれるか不安で――。
不安は、杞憂だった。
「……それ、なに?」
ピエトがよだれを垂らさんばかりの顔でパフェを見つめていたので、大人たちは思わず吹き出した。
「食うか? いっしょに食おうぜ」
ルートヴィヒが、ピエトのほうへパフェを置いた。
「いいのか!?」
ピエトは目を輝かせてスプーンを取った。今、パフェを食べてしまったら、ピエトは夕ご飯が入らない。ルナは止めようとして、やめた。
――今日くらい、いいだろう。
「ルナ、ミシェルちゃん、いっしょに食べよ」
エレナのパフェは女三人でつついた。ケヴィンが宇宙船を降りたときは、チョコレートパフェだったが、今日のパフェは違っていた。柑橘系の香りがするクリームもさっぱりとしていて、ルートヴィヒはひとくち口に入れた瞬間に、ぜんぶ食えそうだと思った。
エレナもそう思った。思ったよりずっと爽やかな味だ。
オレンジとミントが飾られていて、アイスも、レモネードの味がするシャーベット。エレナの好きな、レモネードの味――。
(――あ)
夕日。そして、このレモネードの味。
エレナが、すべてに疲れて、このリズンのそばの公園にたどり着いたときだった。
エレナは沈むようにベンチで寝た。そのとき、温かいレモネードを置き、毛布をかけて撫でていってくれたのは、ほんとうは、だれだっただろう。
アントニオは、用意された席には座っていなかった。ルートヴィヒとエレナの後ろにいて、二人の肩を抱くと、
「リズンのパフェ、忘れないでね」
にっこり、笑った。
「忘れねえよ。ここのメシも美味かったし――アントニオのこともさ、」
「そんなこと言われたら、俺も泣いちゃうよ。仕事中なのに!」
「それに、このパフェ、うまいぜ」
ルートヴィヒの言葉はお世辞ではなかった。ピエトと二人で、あっというまにグラスを空にしてしまった。
「そう? よかったな。今年の夏に出そうと思ってた新メニューなんだ」
「へえ……もう食えねえのが残念だな……」
「バーベキューパーティー、楽しかったねえ」
「ああ。もう一回くらいやってから、降りたかったな」
アントニオの顔に夕日が影を差し、その姿が、エレナが夢うつつに見た、毛布をかけてくれただれかの姿に重なった。
エレナは確信した。でも、言おうと思った言葉が、口から出なかった。
「エレナさん、最後のアイスのとこ、食べない?」
ミシェルに呼ばれて、エレナははっとテーブルに意識をもどした。めのまえにあったのは、レモネードのシャーベットが半分残った、ロンググラス。
エレナがあわてて後ろを向いたが、もうアントニオはいなかった。オレンジ色の、沈む間際の太陽が、色をにじませて、空を茜色に染め上げているだけだ。
「あの――さっきの人は? アントニオさんは――」
ルートヴィヒが、きょとんとした顔で言った。
「もう店の中にもどったぜ。見送りにはいけないかもしれないけど、元気でなって言ってた――って、エレナも聞いてたじゃん」
「……え」
エレナが見ていたのは、太陽の光だったのか――アントニオだと思っていた。
(……ありがとう)
エレナは、店の方を見つめて、あのとき言えなかった言葉を、心の中でつぶやいた。
一週間後。
宇宙船の入り口ゲートには、とんでもない見送りの人数が集まっていた。
バーベキューパーティーに集った仲間が、勢ぞろいしたのだ。
ルナたちがシナモンたちを誘って着いたころには、もう結構な人出で、ルナは驚いた。
ルナたち五人に、レイチェル夫妻とシナモン夫妻。リサとミシェルはもう来ていた。かれらはもとより、ラガーの店長、デレクにマスター、エルウィンも。
バーベキューパーティーには来なかったが、ロイドとキラもいた。カザマにヴィアンカ、バグムント、レオナとバーガス夫妻。タケルとメリッサ、ユミコも、もと白龍グループの研修生まで。
あのバーベキューパーティーにきた参加者、ほぼ全員だ。
アントニオは、あの日の言葉通り、やはり来ていなかった。
だれにもらったのか知らないが、エレナが大きな花束を抱えて、チャンとマックスと、何か話しているところだった。セグエル――赤ちゃんは、セルゲイがそばで抱いていた。
「ルナ!」
エレナがルナの姿を一番に見つけて、手を振ってくれた。
「見送りに来てくれてうれしいよ」
「すごい人だね」
「うん、ほんと――チャンさんとマックスさんが連絡してくれたみたいで、こんなにたくさんの人が来てくれて。びっくりしちまったよあたし」
「ルナ」
グレンがさっそくルナを抱きしめようとして、アズラエルとぶつかった。いきなりルナの前に飛び出たアズラエルを抱きしめるところだったグレンは、こめかみに青筋の立った状態で、「退け、カス」と凄んだが、「退くか、ハゲ」と返ってきただけだった。
会えばすぐにいがみ合う猛獣二頭を尻目に、赤ちゃんを抱いたセルゲイとカレンと、じつにおだやかに「久しぶり」の挨拶を交わしたルナは、エレナの赤ちゃんを抱かせてもらった。
一度、エレナの家に遊びにいったときに抱かせてもらったことがあるだけだ。赤ちゃんのふわふわした匂いと、感触。
(君とも、いっしょに地球に行きたかったな)
ルナはセグエルをあやしながら、だれにも聞こえないような声で、つぶやいた。
「チャンは宇宙船に残るってよ」
グレンがため息交じりに言ったのに、ルートヴィヒが笑いながら返した。
「おまえみてーに何が起こるかわからねえ船客を放って、宇宙船を離れられねえとさ」
本来なら、船客を生家まで送るのは、その担当役員の義務であるそうだが、ルートヴィヒの担当役員であるチャンは宇宙船に残り、エレナの担当役員であるマックスが、L53のルートヴィヒの生家まで、きちんと彼らを送り届けることになったそうだ。
ルナは、ジュリの姿が見えないことに気付いた。
「――ジュリさんは?」
思わず口にしていた。カレンが、苦笑しながら「あっち」と教えてくれる。
ジュリはずっと集団から外れたところで、立ちすくんでいたのだ。
「仕方ないよ――あれでも、聞き分けた方だと思う」
エレナは、下唇をかんでうつむき、青い顔をしているジュリのところへ行った。ジュリはエレナが来ると、ますます顔をしかめてそっぽを向いた。
エレナは、小さく、ほんとうに小さく言った。周囲に聞こえないような声で。
「あんたも、一緒に来る?」
「――え?」
エレナは、ジュリは連れて行かないといった。セルゲイ先生も、いっしょに行っちゃだめだといった。ジュリは荷造りなどしていない。ほんとうに今さらだ――もう、L系惑星群に帰る宇宙船は出発しようとしているのに。
でもエレナは、意地悪で言っているのではない。エレナの顔は真剣だ。
「荷物なら、あとからでも送ってもらえる」
宇宙船のチケットも、混んでないからなんとかなるって、マックスさんも言っていた。
エレナはそう言った。
ジュリは、鼻水を垂らした顔を間抜けに上げ――思わず、うなずきそうになった。一緒に行くと、言ってしまいそうになった。
「行かない」
ジュリは半泣きのまま、笑顔で首を振った。
「あたし、行かない」
拍子抜けしたのは、エレナのほうだった。
エレナは驚いた顔をしたあと――「そう」とぽつん、つぶやき。
「……じゃあ、元気でね」
と背を向けた。
「エレナ!!」
顔中涙でぐしゃぐしゃのジュリは、「じあわぜになっでね!!」と叫んだかと思うと、ステーションの長い廊下を走り去った。
「ジュリ!!」
エレナも叫んだ。ジュリの背に追いつくように。
「あんたも、幸せになってね!!」
――見るのは、ジュリの泣き顔ばかりだ。
エレナは思った。
L44で、あんなひどい泣き笑いの顔の、ジュリの手を引っ張って逃げた。それが終わりで、はじまりだった。L44の娼婦人生の終わりと、あたらしい人生の始まり。
いつもジュリは泣いてばかりだ。
エレナに叱られ、嫌われ、喧嘩をして。見捨てられたと泣いて、許してもらったと泣いて、いなくなったと泣いて、エレナが心配で泣いて。
でも、大好きなエレナ。
エレナもあたしが大好きだった。
いっしょに来てもいいって、言ってくれた。
ジュリは、だれもいないステーションの回廊の途中でぺたりと座り込み、吠えるように泣いた。




