176話 エレナとルーイの降船 1
「ただいまあ」
「お邪魔します。……ルナ、いるかい」
ルナたちが家に帰って、腰を落ち着けたころだった。玄関のベルが鳴り、ちこたんがドアを開けると、そこにはミシェルとエレナの姿が。
「ミシェルおかえり! エレナさん、いらっしゃい!」
ふたりは、同じ手芸店の紙袋を下げていた。
「ルナ、だれ? お客さん?」
ミシェル以外の聞きなれない声を聞きつけたせいだろうか。ピエトもリビングから駆けてきた。ピエトを見ると、エレナの切れ長の目が、真ん丸になった。
「……でしょ?」
ミシェルが、エレナに目配せし、
「本当だ。アズラエルにそっくり」
エレナが、感心したように何度も首を縦に振った。
「産んでないよ、あたし」
ルナは一応訂正しておいた。
「ピエトって言うんだろ。ミシェルちゃんから聞いたよ。あたしはエレナ。よろしくね」
エレナがふんわりと笑うと、ピエトの顔が真っ赤になった。めずらしいことに、ルナの背に、ささっと隠れる。
「ど、どうしたの、ピエト」
物怖じしないピエトが、人見知りを?
ルナがびっくりしていると、ミシェルが笑いながら言った。
「エレナさん、キレイだから照れちゃったんだよね~」
「来たか。入れよ、エレナ」
アズラエルまで顔を出したので、エレナはくすくす笑いながら、「じゃあ、お邪魔するね」と言ってリビングに向かった。ミシェルも後を追う。ピエトはずっと、ルナの陰からエレナの後ろ姿を見つめ、
「なあ、ルナ」
「んん?」
「……あの人、お姫様? すっごいキレイだ……」
とつぶやいたので、ルナもついに吹き出してしまった。
「もう王子様がいる、お姫様だけどね」
残念だったねとルナが言うと、ピエトは口をとがらせて、「俺にはルナがいるからいいもん!」と叫んだ。
ルナはお約束通り、ピエトをぎゅうっとしたのである。
クラウドの心配をよそに、ミシェルは出かけたときより元気だった。クラウドが何気なく、「講習会はどうだったの」と聞くと、ミシェルより先に、エレナがけたたましい勢いで暴露した。
エレナによる、「アンジェラという意地悪なおばさんがミシェルをいじめた」という講演会が始まった。それはアンジェラの講義より、よほど長かった。
エレナの講義によると、クラウドが予想していた出来事は、ほぼ百パーセント、起こったということだ。ミシェルもエレナも、その十分程度の講義すら聞かず出てきたことになるが、ミシェルは落ち込んでいる様子も――傷ついた心を隠して無理をしている様子も、ない。
「……ミシェル、だいじょうぶなの」
「なにが?」
クラウドは、ちょっとだけ――いや、かなり、ミシェルが大泣きに泣いて自分の胸に飛び込んでくる結末を期待していた。そして傷ついたミシェルを心身ともに時間をかけて慰める俺――という幸せな妄想に浸っていたのだが、そちらはどうやら現実化しないようだ。
(なんでなんだろうな……)
世の中というものは、クラウドの明晰な頭脳をもってしても、思うようにはいかなかった。
「お昼ごはんを、ミシェルちゃんがおごってくれてさ」
ふたりで、K37区の、ピザの美味しいレストランで食事をしてきたらしい。アンジェラの画集のお礼だと、ミシェルは幸せそうに、画集に頬ずりしながら付け足した。
ルナは、「あたしも行きたかった!」と叫びだそうとして、危うくとどまった。ミシェルもエレナも、そういえば、「ルナも今度一緒に行こうよ」と言ってくれるに決まっているが――その「今度」は、一週間以内。
ルナは、エレナを見つめた。
――ほんとうに、一週間後には降りてしまうんだろうか。
「ほえ~、アンジェラ最高。やっぱ最高。……綺麗だわ~このグラス。マジ欲しい」
ルナとクラウドの思いはよそに、ミシェルはアンジェラの画集に夢中だった。
アンジェラにひどいことを言われたのは事実なのに、アンジェラのファンであることは変わっていないらしい。クラウドは、事実とミシェルの心理がうまく結びつかず、しきりに首をかしげていた。
「欲しかったら、このグラスもあげようか?」
エレナもさっそく包みを開けて、中のペアグラスを眺めながら言った。
「えっ!? いや、そこまでは……、あ!!」
ミシェルは、エレナの手にあるグラスが、自分がリリザで買ったものと同じだということに気付き、恐る恐る言った。
「エレナさん、それ、あたしもう持ってるんだけど――あたし、それリリザで買ったとき、八十七万デル(税抜)だったの――」
あのチャンスを逃したら二度と買えないと思っていたから、貯金全額はたいて、残りはローンで買ったんだよ、とミシェルは付け足した。
それを聞いて、エレナだけではなく、ルナとアズラエルも「ふぐっ!!」と変な声を出して詰まった。
「コップふたつが、八十七万デル!?」
エレナは絶句して、グラスをまじまじと眺めた。
たしかに、ブルーのグラデーションも、魚の模様も綺麗だが――それにしても、そんな値段なんて――。
「そんなに高いもの、もらっちまってよかったのかな……」
参加費は三千デルだったのにと、ぶつぶつつぶやくエレナに、
「そこまですれば、あんな講習会でも、クレームは抑えられるだろうと踏んだんだよ。それはアンジェラの作品の中でも新しいやつだから、今なら、オークションに出せばきっと、十倍の値で売れるかも――俺が、売ってあげようか?」
クラウドが冗談交じりにエレナに手を差し出したが、エレナはグラスを抱きしめて、ぶんぶんと首を振った。
「売るなんて、もったいないよ! エレナさんが売るなら、あたしがローンで買うわ!」
六十回払いくらいでなんとか、とミシェルが必死な顔で言い、
「ミシェルは持ってんだろそれ。俺が一括で買うよ。エレナ、百万でどうだ」
アズラエルが、まるで煽るようににやにや笑いながら言うので、エレナはついに、
「これはあたしがもらったもんさ!」
と叫んだ。
ルナとちこたんが、皆の分のお茶を淹れてリビングにもどってくると、アズラエルとクラウド、ピエトはいなくなっていた。
エレナとミシェルは、アンジェラの画集ではなく、別の雑誌を開いている。
「あれ――羊毛フェルト、入門?」
羊毛フェルトのマスコットのつくりかたを記した雑誌だ。
「いっしょに作ろうって、ミシェルちゃんがいったから。本と材料を買ってきたんだ」
「エレナさんも、縫い物好きだっていうし、たぶんできるよ」
K37区の手芸屋さんで買ってきたという紙袋の中身は、羊毛フェルトのキットだった。ミシェルは、黄色と茶色の羊毛フェルト、エレナのほうは、黒ネコが作れるキットだ。
「まあ――今回のお礼にね。クラウドにも作ってあげようと思って」
ミシェルは、ライオンのマスコットをつくるつもりらしい。
「講習会はアレだったけど、クラウドにも心配かけたし」
ソファに座ったふたりは、さっさとキットの袋を開け、中身を出し始めた。ミシェルが、裁縫道具持ってくるからちょっと待ってて、と席を立つ。
リビングに、ルナと二人になったエレナが、待っていたように、「さっきミシェルちゃんにも話したけど」とつぶやいた。
ルナは、宇宙船を降りることかな、と思ってドキリとしたが、
「あとでさ、リズンに行こうよ。おやつの時間くらいに。それでね、ルナ、一緒にケーキを食べよう」
エレナの目が、すこし潤んでいるように見えたのは、ルナの錯覚だったろうか。
「真っ白なやつ。いちごの乗ったケーキ」
それは、ルナとエレナが、ともだちになった日に、一緒に食べたケーキだった。
「……うん」
ルナは、自分も涙ぐみそうになりながら、うなずいた。
ずいぶんと和やかな時間を過ごした。
エレナとミシェルは、ときおり何かしゃべりながら、フェルトを縫う手を止めなかったし、ルナはそのそばで、ピエトにトランプの遊び方を教えていた。新聞を読むのに飽きたクラウドとアズラエルが割って入ってきて、大人気ないポーカーでピエトから小遣いを巻き上げたり。
時計が午後三時半を指したあたりに、「そろそろ、リズンに行こうよ」とエレナが言った。
ふたりは作りかけのフェルトをしまい、ルナも、アズラエルがピエトに簡単なイカサマを教えようとしているので、その後頭部を叩きながらトランプを取り上げた。
六人でリズンに行くと、カフェテラスの席でルートヴィヒが待っていた。
「よ! 久しぶり」
そして、ピエトの顔を見て驚くのは恒例だ。アズラエルはもう面倒だったので、説明はクラウドに任せた。
人は午前中よりまばらだった。テーブルふたつをくっつけ、七人は席に着いた。
ピエトだけミルクティーになったが、大人はコーヒー。そしていちごのショートケーキ。注文は決まっていた。
「ケーキってなに? もう夕ご飯?」
ピエトが聞くのに、エレナが、「とっても美味しいものだよ」といった。
「幸せになれる味なの」
ケーキと飲み物が運ばれてきて、なぜかみんな、申し合わせたように「いただきます」と言った。
ふわふわのクリームをフォークですくったピエトは、最初は不審げに眺めていたが、口に入れた瞬間に「うめえ!」と叫んだ。
ピエトの歓声のおかげか、どこか神妙だったテーブルは、小さな笑いに包まれ、なごやかな空気を取りもどした。
エレナは、宇宙船を降りるということを、一度も口にしていない。ルートヴィヒもだ。ただ、なんとなく、ミシェルもクラウドも、エレナたちが宇宙船を降りることを知っているように、ルナには思えた。
だが、だれも、そのことを口にしなかった。
エレナは、じつに幸せそうにケーキを食べた。ケーキと同じように真っ白い頬を火照らせて。
「……あたしが、この宇宙船に乗ってから、一番つらかったときね」
エレナがぽつりと言った。
「一生懸命お金をためて、L7系のどっかの星に行って、おだやかな暮らしをするんだって、それが支えだったの」
ルートヴィヒとクラウドとアズラエルは、三人で話をしていて、ピエトはケーキに夢中でこちらに意識は向いていない。
エレナの話を聞いているのは、ルナとミシェルだけだ。
「ちっちゃな家に住んでさ、一ヶ月に一度、レストランでいちごの乗った真っ白なケーキを食べる。それが夢」
みんなと出会って、レストランじゃなくてもケーキ屋さんがあって、そこにもケーキがあるのを知って、ジュリとたくさんケーキを食べた。レオナとヴィアンカと、ケーキバイキングに行ったこともいい思い出だ。あの日は、びっくりするほどケーキを食べた。
それでなくても、ルートヴィヒもグレンも、セルゲイもカレンも、エレナがケーキ好きなのを知っていて、よく買ってくれた。
宇宙船に乗ったばかりのころは、ケーキを食べることさえ特別で。そのうち、みんながエレナにケーキをくれるので、特別感は薄れていった、とエレナはこぼした。
でも、この真っ白なケーキは特別中の特別。
「あたしに初めて、寝なくてもいい男の友達っていうのができた。そのとき、アズラエルがあたしに食べさせてくれたの。でもアズラエルはケーキを食べさせてくれたからといって、あたしの身体を要求したりとか、しなかった」
ミシェルもルナも、黙ってエレナの言葉を聞いた。
「信じられなかった。ミシェルもロイドも――クラウドもみんな。あたしに親切にしてくれて、仲良くしてくれるけど、身体は要求しない。不思議だったの、あのころはさ」
エレナは、ルナとミシェル以外に自分の声が聞こえていないのを確認してから、最後に取っておいたいちごをぱくりとやった。
「……ルーイがね、あたしに言ったの」
――俺は、エレナを幸せにはできないかもしれない。
緊張で小さくなったルーイは、それでも真摯にエレナを見つめて言った。
――エレナの幸せが、地球に行くことだったら、俺はエレナの幸せを取っちゃうことになるよな……。でも、俺は、何があってもエレナとセグと、毎月レストランに行って、ショートケーキを一緒に食べるっていう生活、約束する。
――だから、一緒に、来てほしい。




