174話 羽ばたきたい孔雀と偉大なる青いネコ Ⅰ 4
「こちらの作品集は、皆様方へ、アンジェラからのプレゼントです。そして、講習会終了後、さらに抽選で、三名の方に、アンジェラのペアグラスが贈呈されます」
歓声が上がった。
だが、ミシェルは昨日夢で見させられたから知っていた。ペアグラスは、ほんとうに抽選で当たった三名だけがもらえる物だ。最初からそう決まっている。――ようするに、身内以外に配られる袖の下――アンジェラの、講義にもならない十分のおしゃべりだけで終わるこの講習会を、不満に思わせないための、スタッフ側の苦肉の策だった。
「では、アンジェラの登場です」
アナウンサーの声に、ミシェルはびくりと肩を揺らした。いよいよだ。
(うわ、あたし、泣く自信あるわ)
ミシェルはこれから起こることへの緊張に一度目を瞑ったが、カツカツ……とヒールの音を響かせて壇上に上がったアンジェラに、釘づけになった。
(綺麗――)
やはりアンジェラは、美しかった。
真っ青な髪の色に、真っ青に輝くドレスが彼女の艶のある肌を引き立たせている。
青も似合うが、ミシェルはアンジェラにはやはり、赤が似合うと思っている。だがどの色も申し分なく彼女は着こなす。さまざまな色で彩られた孔雀のように。
神秘的な女王の風格――容姿が整っているのは無論だが、彼女の魅力は、佇んでいるだけでこちらにも伝わってくる圧倒的な生命力の輝き。
孤高で、世界のなにをも恐れないといった顔は、ほんとうに美しくて――はじめてムスタファのパーティーで彼女を見たときのように、ふたたびミシェルの心を奪った。
「キレイな人だねえ」
エレナも、感嘆のため息を漏らした。ミシェルは感動で泣きそうだった。このあとに起こることを知っていたとしても。もう一度、彼女を間近で見られるなんて――!
「講習会をはじめるまえに、ひとつ言っておきたいことがあるの」
アンジェラの声は、アンジェラのつくるガラスの作品のように透明で、割れた破片のように鋭かった。
「あたしは卑怯なやりかたであたしに会おうとするやつが嫌い」
会場が、ざわめいた。
アナウンサーが、顔色を変えてアンジェラに詰め寄ったが、一瞥されて終わった。
「恋人のコネで、この講習会のチケットを勝ち取った――言わなくても、わかるでしょうよ。そうした本人はね」
そう言いながらも、アンジェラはまっすぐにミシェルを見つめていた。会場がますますうるさくなった。だれだ、だれだと、詮索の気配が濃厚になる。
ミシェルは、このあいだまでの自分だったら、アンジェラの視線を受け止められなかっただろうと自覚していた。分かってはいても――夢で顛末を知っていたのだとしても、憧れの人からの鋭い拒絶に、きっと泣いてこの場を走り去って、しばらく立ち直れなかっただろうと。
――きっと、“ガラスで遊ぶ子ネコ”だったら、そうなっていた。
あの繊細で、夢見がちで、子どものようなあの子ネコのままだったら。
「すこしでも恥じる気持ちがあるなら、この部屋を出て行って。あたしはそんなやつの顔は見たくもないわ」
会場の、エレナとミシェルをのぞくすべての参加者が、その卑怯者に対する糾弾を口にし始めた。
ずるい人っているものね。だれかしら。だれなの。俺はちゃんと申し込んだのに。ずるいわ、わたしだって、正式に。コネなんてないのよ。そういうやつがいるから、本当に来たかった人が――。
ミシェルは立った。自然に腰が立ち上がったのだ。皆の目が、ミシェルに注目した。エレナがあわてたように立ったミシェルを見たが、ミシェルの表情はひどく凪いでいて、エレナは驚いた。
「あなたを不愉快にさせたのなら謝ります。……今日は、あなたに会えてうれしかった」
アンジェラの顔から表情が消えていた。ミシェルが泣き出すのを期待していたのだろうか――ミシェルは作品集を机に置いて、自分のバッグを持って背を向けた。ざわつきは非難の嵐になり、勢いは増すばかりだ。
「なんだよ! おまえ!」
ミシェルの背を、だれかの怒り声が追った。「皆さん、落ち着いてください」アナウンサーの焦り声だけが聞こえた。
「恥ずかしいと思えよ! 卑怯な真似してここへきたんだろ!!」
(卑怯な真似、かあ)
特別扱いといえばそうなのかもしれない。でも、怒鳴る男の声はミシェルの耳を素通りしていくのだった。
ミシェルがコネだというなら、それはアンジェラの気まぐれのためであって、報復のひとつであって、抽選で受かった三名以外は、皆コネにちがいないだろう。ララの取り巻きばかりなのだから。
裏の事情を知らないたったふたりの、正式な参加者には、ミシェルは何か言われても仕方がないと思ったが、ほかの人間に言われる筋合いはない。
ミシェルは会場を眺め渡したが、だれもがミシェルと目が合いそうになると、ふっと反らすのだった。
そうしてミシェルの視線は、叫んだ若者にたどり着き、見据えた――ミシェルに他意はなかったのだが、じっと見つめられた若者のほうが、急にうつむいた。
ミシェルは哀れにすら感じていた。自分を糾弾した若者を。彼が、この講習会後に感じる、打ちのめされるほどの喪失を思えば。
アンジェラに憧れ、抽選に当たったよろこびを胸に抱いてここにきた彼は、アンジェラの、ほんの十分ほどの――しかも用意してきた紙切れを読み上げるだけの講義に――自身が持ってきたプレゼントも受け取ってくれない彼女の冷たさに――絶望するのだ。
彼女は興味なさげに彼を見遣り、眉をしかめて安物の包みを拒否するのだ――そうして彼は、しばらく立ち直れないほどの喪失を抱える――憧れと淡い恋と目標を、同時に失って。
ミシェルが何も言わないのに――だがこの場を立ち去らないので、会場は、異様な緊張に包まれた。
アンジェラも硬直していた。会場の不穏な空気に乗じて、あと二、三――ミシェルを再起不能にする言葉を浴びせるつもりだった。口から出るはずの悪意が急速にしぼんでいく。
アンジェラは気圧されていたのだ。
やがてミシェルの目がゆっくりとアンジェラを見据え――そこにあるのは悪意ではなかった。
公衆の面前で罵倒されたことに対する恥辱や、悔しさ、悲しみ、涙――アンジェラが求めたものはなにひとつ、ミシェルの目にはなかった。
(鏡だ)
アンジェラは、足がガクガクと震えだした。ミシェルの目が何故鏡に思えたかは知らない。そこに映っているのが――ミシェルの凪いだ瞳に映っているのが自分だと分かった途端に足が震えだしたのだ。
アンジェラの言葉も悪意も、なにひとつミシェルには届いていない。アンジェラだけではない、皆口を閉じ、ミシェルの目を見られなくなったのは、ミシェルに向けた怒りと揶揄と、糾弾がそのままおのれに跳ね返ったからだった。
ミシェルがあと五秒、振り返るのが遅かったら、アンジェラは悲鳴をあげてこの場を逃げ去っていたかもしれない。
自分がミシェルに要求した負の感情――そして、自身がミシェルに向けた、激しい悪意――すべてを浴びて。
ミシェルは黙って、会場を出た。
ミシェルは、もう二度と、アンジェラに会うことはないだろうと悟った。ミシェルが望んでも、望まなくても。
たとえ、アンジェラが望んでも。
おそらくもう二度と、会うことはない。
老人は先に消えていく。赤子が物心つくころには、めのまえにはいない。
「さよなら、あたしの、憧れのひと」
――あたしがとっくの昔に失ったものを、持っている貴女。




