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キヴォトス  作者: ととこなつ
第五部 ~導きの子ウサギ篇~
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168話 布被りのペガサス Ⅵ 2


(――いったい、この状況はなんなの)


 フライヤの、優秀な方である脳みそすらも処理遅れを起こすほど、この状況は不可解極まりなかった。 

 鬼悪魔と恐れられている、だれも近づきたがらない、心理作戦部の恐怖の根源であるアイリーン隊長と、膝を突き合わせてケーキを食べている――。


「う、うまいか?」


 ずいぶんとアイリーンは、フライヤを気にしているようで、相変わらずチラチラとフライヤを横目で見ながら尋ねてくる。フライヤは緊張と困惑でケーキの味など分からなかったが、この状況下で「分かりません」などと答えられるわけもなく、「お、おいしい、です」とあわてて言った。

 ごくり。大きな音を立ててケーキが喉を通っていく。


「そ、そうか……よかった……」


 アイリーンは肩の荷が下りたような顔をし、ケーキを突ついた。アイリーンはケーキをつつくばかりで一向に口に運ばない。それが、彼女の緊張によるものだということは、フライヤには、いまだ分かろうはずもない。いつしかアイリーンの皿のチーズケーキは、原形をとどめることもなく崩れ、粉チーズと化していた。


「き、貴様は……」


 フライヤにとっては鉄の扉より重たい沈黙が五分ほど続いたあと、アイリーンは皿を机に置いた。


「貴様は――あの、いや、君は――あの、エルドリウスの妻だって?」

「へっ?」


 フライヤが甲高い声をあげたのに、あわててアイリーンは手を振った。


「あ、いや、すまない。その――悪いことをしたと思っている。その――君のことが知りたかっただけなんだ――ほんのちょっと。な、内情までは――そんなに根掘り葉掘り聞いてはいない。ただその、――庶務部の管理官に、すこし、聞いてみただけだ。そうしたら、君は、エルドリウス大佐の妻だって聞いて――驚いた」

「……」


 フライヤは、もう一度大きな音を立ててケーキをごくりとやり、それから、糖分のためか(一応そういうことにしておく)にわかに動き出した脳みそで、ようやく状況を把握し始めた。


 なんだ、すべては、エルドリウスの妻だということが、原因か。


 アイリーンがフライヤを、「貴様」呼びを改めて、「君」と呼び始めたのも。こんなところで、ケーキをごちそうしてくれているのも。


 原因が分かったせいで、フライヤもようやく肩の荷が下りた。


 心理作戦部のアイリーンは庶務部経理部だけでなく、名前を聞いただけでだれもが震えあがる暴君だ。


 そんな彼女に、バインダーを投げつけられるどころか、厚遇(こうぐう)ともいえる扱いをされて、フライヤは戸惑っていた。だがそれも、エルドリウスがバックにいるからだと考えれば納得がいく。


 エルドリウスの影響力はこんなところまであるのかと感嘆しながら、安堵(あんど)のためにふうーっと大きなためいきを吐きそうになって、あわてて(こら)えた。


「君は、出自が傭兵だって聞いて――そっちも、その、驚いた。でもまあ、あのエルドリウスなら、やりかねんな」


 瞬間、フライヤの顔が強張ったのを見て、アイリーンはかすかに(ほころ)ばせた顔を同じ理由で痙攣(けいれん)させた。


「あっ……すまない。いや、べつに、君が傭兵だからどうとか――いうわけでは、ないんだ」


 アイリーンは、急に、はっきりと怯えた目になったフライヤに、眉じりを下げた。

 つづける言葉を見失い、うつむいたアイリーン。


 どうしようもない沈黙が訪れた。


 アイリーンは、フライヤに声をかけようとし、詰まり、肩を落とすという動作を三回ほど繰り返した。


 その態度を見て、さすがにフライヤも、想像すらしがたかったことではあるが――アイリーンが落ち込んでいる――ように見えたために、フライヤのほうが、恐る恐る、声をかける番になった。


「あの……、」

「なっ、なんだ!?」

「ひっ!!」


 フライヤに話しかけられたのが嬉しくて、つい大声で返してしまったアイリーンだったが、フライヤが身を竦めるのを見てまたショボンとした。


 フライヤもいっぱいいっぱいであり、そしてまた、アイリーンもいっぱいいっぱいであった。互いの緊張を見抜く余裕もないほど。


 アイリーンは大好きなチーズケーキを粉状にし、紅茶の味を間違えるわけもないフライヤが、ダージリンかアールグレイか分からなくなるほど。


「あ、あの……」


 アイリーンは、恐らくはフライヤに、むやみやたらに怒鳴ったりはしない。バインダーも投げつけたりしないし、その腰のサーベルを抜いて襲い掛かってくることも、きっと、ない。

 バックの神様仏様エルドリウス様に手を合わせてフライヤは、思い切って聞いた。


「わ、わたしが傭兵だって知って――な、なんで、ケーキなんか、ごちそうしてくれたんですか」

「え?」


 フライヤは、言ってから後悔した。

 アイリーンは、フライヤのバックにいるエルドリウスに対して、腹に一物あるのだろうか。たとえば、お近づきになりたいとか? だから、フライヤに遠慮がちな言葉をかけるのだろうか。


 でも、貴族軍人であるはずのアイリーンが、フライヤを元傭兵だと知ってもこの態度なのは、フライヤには不思議な部分が多く、それらたくさんの疑問符が、この短くも、単純な言葉に集約されてしまったわけだ。


 言ってから、もう少しべつの聞きようがあったと、言葉で失敗して死を招くという現実が実際あるものだと――たいそうな取り越し苦労をしてフライヤは自分の死を思ったが、アイリーンのほうは、フライヤに言われた意味が分からずに少し呆け――そして理解した。


 アイリーンは、フライヤが気分を害したと思ったのだが、ちがうとわかった。アイリーンは、自分の立場を失念していたことに気付いた。


 心理作戦部の隊長と言えば、相手は勝手に貴族階級だと思い込む。そもそも、アイリーンの出自など説明せねば分からぬことだ。


 傭兵は、古来より貴族階級の軍人には差別されている。それは、軍事惑星の常識ともいえる現実であり、そのためにフライヤは、自分が傭兵だということを、貴族階級の軍人に悟られたことに怯えたのだ。


 フライヤの声は、はじめ来たときより震えていた。アイリーンは、かわいそうなことをしたと自分が涙ぐみそうになりながら、小さく言った。


「すまない――あの、僕がうかつだった」

 アイリーンは、しぼるように言葉を発した。

「僕は、君と仲良くなりたいだけだ。その、――君が傭兵だということは、僕にとっては親近感を覚えこそすれ――忌避(きひ)すべきことがらじゃない。君がエルドリウスの妻ということも、傭兵だったということも、秘密にしておいた方がいいとは思うが」


「えっ?」

 アイリーンの予想通り、フライヤからは疑問符が飛び出た。


「僕は、貴族階級の軍人だが――出自は農家の出だよ――つまり、一般市民。傭兵と同じく、差別される側の人間だ。話せば長くなるから今は言わないけど、僕は貴族軍人の家であるオデット家に養子に入ったんだ。だから僕も、純粋な貴族軍人じゃない。だからその――君を差別したりなんか、しない」


 アイリーンもまた、もうすこしうまく言えないものかと自分の言葉のまずさに後悔していた。部下に指示するときは、もっと理路整然とした言葉が出てくるのに、肝心なときにうまく言葉を選べないなんて。


 でも、伝わっただろうか。自分がフライヤを(おびや)かすつもりではないということは――。


「あっ……! ぼ、僕は言いふらしたりなどしないぞ? そんなに口は軽くない」


 心理作戦部隊長であるアイリーンの口が軽いなど、だれが思うだろう。フライヤの怯えた表情がわずかでも消えたことに、アイリーンは安堵した。アイリーンの、固く強張っていた表情が、安堵に緩んだことに、フライヤもまた、肩の力が抜けた。


 そのことで、フライヤはやっと、周囲に気を配る余裕ができたのだった。そうして、一番に目に入ったのは、自分が座っているソファのすぐ隣にあった、ガラス戸棚の中の写真立てだった。驚くほど自然に、目が吸い寄せられた。


 写真には、アイリーンと思われる――髪はボブヘアで、今より鋭さがなく、なにより眼帯がない。そして、そこそこまろやかな体つきの“女性”――と、男性が並んで映っていた。


 男性は、アイリーンよりわずかに背が高かったが、あまり身長差はない。けれど、やはり男性の身体だった。そう、今目の前にいるアイリーンと同じような。顔だちはひどく優しげだった。


 童顔に、黒縁眼鏡――まるで。


 フライヤは唐突に、アイリーンが自分に優しかった意味が、またひとつ、分かった。


「それは、僕と、“夫”の写真」


 アイリーンが言った。どこか切なげに。

 まさか結婚していたとは。もちろんフライヤはそれを口には出さなかったが。


「もう死んでいるんだけどね。先代の、心理作戦部隊長だったんだ。任期はたった二年きりだったけれど」

「お亡くなりに……」

 フライヤが思わずつまると、アイリーンはあわてて言った。

「す、すまない! こんなことを教えられても困るよな」


 泡食(あわく)って叫んで、それからまた沈黙が落ちた。アイリーンの顔にはやっちまったという後悔しかなかった。

 けれど、ようやく「理由」がすこし分かったフライヤは、やっと自分から話しかける勇気が湧いてきた。


「あ、あのう……」

「う、うん。……なに?」


 アイリーンは、表情も声もやさしく見えるよう、かつてないほどの努力をした。


「チーズケーキ、あの、ものすごく、美味しいです……」


 フライヤもやっと、自分が食べているチーズケーキのたいそうな美味しさに気付くことができた。


「あの、わ、わたし、今朝すごくチーズが食べたくて、クロック・ムッシュなんか作って食べて……」

「う、うん」

「そうしたら、おやつはチーズケーキなんて、嬉しいです……。チーズケーキなんて、ずいぶん久しぶりに食べました」


 恐ろしくぎこちない会話だったが、やっと二人の間に、交流という名の空気が生まれ始めた。


「そ、そうか! そうか! よ、よかった……! の、残りのケーキは持って帰ってくれ」

「え!? そ、そんな、悪いです……!」

「い、いいんだよ。君に食べてもらいたくて買ってきたんだから……!」

「え、でも、こんなにたくさん……だったら半分こしませんか!?」

「僕はチーズケーキしか食べないんだ」


 わずかな押し問答ののち、ケーキの箱はフライヤの膝に乗せられた。


「それでその――ちょっとお願いが――」


 フライヤは、アイリーンがエルドリウスに会わせてくれと言ってくるのかなと思っていたが、アイリーンの台詞は、フライヤの予想を大きく外れるものだった。


「もしよかったら――明日も、この時間に来てくれないかな?」


 フライヤは、予想外の言葉に返事が遅れた。


「嫌じゃなかったら――僕と、また明日この時間に、お茶を一緒に……。しょ、庶務部はヒマだと聞いたし、仕事をさぼれと言っているんじゃないけど、あ、いや! 君が嫌じゃなかったらでいいんだ。今度は別のケーキを用意しておくし、あ、そうだ、ちゃ、ちゃんと経理書類も毎日渡す!」


 アイリーンはあわてて、経理書類の封筒を引き出しから出して、フライヤに渡した。


「諜報部のもあるぞ。僕が受け取っておいた。あそこも遅いからな」


 アイリーンはちょっぴりドヤ顔だった。


「僕と、ともだちに、なってほしい」

「と、ともだち!?」

「これは僕のわがままだ。なにひとつ強要なんかじゃない――だ、ダメだろうか?」


 断りの返事をすでに予想しているかのようなアイリーンの表情に、フライヤは、ようやく気付いた。ほんとうにようやくだ。


 この人――もしかしたら。


(すごく、あたしに似ているのかもしれない)


 それを口に出す勇気はまだなかったが、フライヤは、やはり小さく「あの」と前置きし、


「じゃ、じゃあ――わたし、明日、紅茶を持ってきます!」


 そう言ったら、アイリーンの恐ろしげな顔が、これ以上もなく輝いたので、フライヤは自分の考えが当たらずとも遠からずだと思ったのだった。



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