165話 導きの子ウサギ Ⅱ 2
「ここに、アズがいたの」
アズラエルが考え込んでいるうちに、ルナは車から飛び出し、ガソリンスタンドの敷地内へ入って行った。
「俺が?」
「うんそう。アズが」
ほかの人間が言うことなら、相手にしていない。ルナの言うことだからアズラエルは、聞いた。
「いつ?」
ルナはちょっと困ったようにアズラエルを振り返り、「……いつ。いつなんだろう……あれって、いつの、記憶なのかな……」とつぶやいた。
立ち止まったあとルナはきょろきょろあたりを見回し、ガソリンスタンドの側面の、小さな小道へ入って行った。アズラエルは車のエンジンを止め、ロックしてルナのあとを追った。
ルナは、大きな八階建てのマンションの前にたたずんでいた。住宅街の中に、急にそびえたつ高級マンション。ほんとうにここは、不思議なつくりの街だ。
アズラエルが聞く前に、ルナは言った。
「ここ……あたしのマンションだった」
「ここが?」
「うん」
ルナが迷うように、回転扉のマンション内を覗き込む。中はホテルのようにフロントがある。セキュリティが完備されている高級マンションだ。
「あ」
ルナの声に、アズラエルも気づいた。向かいから、見覚えのある人物が歩いてくる。マンションの回転扉を開けて出てきた人物も、ルナたちの姿を見て「あ」と口を開けた。
「お久しぶりですねえ! ルナさんに、アズラエルさん」
相手はそういって、深々と六十度のお辞儀。ルナもあわててお辞儀をした。
「バーベキューパーティーのときは、お世話になりました」
「タケルじゃねえか」
アズラエルと握手をする――タケルは、セルゲイとカレンの担当役員で、メリッサの夫である。バーベキューパーティーにも来ていたので、ルナとアズラエルも面識があった。
ずいぶんあわてているのか、スーツはよれかかっていたし、メガネもななめに傾いている。
「相変わらず忙しそうだな」
アズラエルの苦笑に、タケルは破顔した。
「いえいえ。お二方は観光ですか? ずいぶん穴場に来ましたね」
「穴場?」
「だってここは、あまり遊ぶところはないでしょう。水族館や海水浴場があるのは、ここに来る大道路じゃなくて、もう一本あっちですよ」
「ああ、知ってる。知ってんだが、あの区役所か、あのあたりから見る海の景色が良くてな。それをルナに見せたくて連れて来たんだ」
「そうだったんですね」
タケルは納得したようにうなずいた。
「そっちにもどるなら、区役所のうしろに灯台見えたでしょう。あそこに上って、海を眺めるのもいいですよ」
「へえ。行ってみるか、ルゥ」
「うん!」
「あの……もしよかったら」
タケルが、申し訳なさそうに頭を掻きかき、言った。
「区役所まで、乗せていってくれませんか? タクシーを呼んだんですが、ここまでくるのに二十分かかるみたいで……」
「かまわねえよ。乗んな」
アズラエルは気安く承知した。
実際、区役所のある石畳の広場まで十五分とかかりはしない。なのにタクシーが来るのは二十分もかかるという。この街にはタクシー会社がないらしく、さっきタケルが言った、もう一本外側の大道路――水族館や海水浴場がある観光地――のほうから来るのだそうだ。
「なんでこっち側、こんなに寂れてんだ?」
アズラエルは聞いたが、それに返ってきたのはルナの質問だった。
「アズはなんで、ここにきたの?」
アズラエルがタケルにした質問と、ルナの質問はほぼ同時に為されたため、仕方なくアズラエルが先に言った。
「……宇宙船に乗ったばかりのころ、海が見たくてこっちに来たんだよ」
海水浴場に行くつもりが、道を一本間違えてこっちに入ってしまった。だが、意外と穴場で、ここから見る海の景色はなかなか良かった。だから、ルナを連れて来ようとしたのだと。
「アズでも、道を間違えることがあるんだね」
「目的もなしに、適当にドライブしてただけだからな。……で、こっち側、なんでこんなに寂れてんだ?」
アズラエルはタケルに聞いた。後部座席のタケルは「う~ん……」と唸り、「なんででしょうね?」と困った笑みを見せた。
「まあ、このあたりは居住区だからっていうこともあるでしょうね。K19区は、子どものための区画ですから。だから昼間はいないんですよ、人が」
「子どもだって?」
「そう。学校がね、観光地化されたあっち側の道路にあるんです。だから昼間は、この辺、だれもいないんですよ」
ルナがパンフレットを取り出して見ると、K19区はこどもの乗船者が住む区画になっている。なんらかの理由で親をなくした子どもたちや、孤児院出のこどもたち。保護者がおらず、子ども二人だけで乗船した場合、住む区画と記されている。
「じゃあ、あの遊園地もガキのために作られたってことか」
「そうらしいです。でも僕が役員になったころにはもう、運営はしてませんでしたよ」
ここに住む子どもたちは、遊園地に遊びに行くような子は滅多にいませんから、と意味深にも聞こえるセリフを最後に、区役所に着いた。
「ありがとうございました!」
タケルは礼を言ってすぐに降り、区役所へ駆けて行った。よほど急いでいたらしい。
「じゃあ、ルゥ。俺たちも灯台に上ってみるか」
「うん!」
ルナが先に飛び出した。アズラエルも降り、車をロックして灯台へ向かう。ルナは一度振り向いて、海を眺めた。
(宇宙船の中に海があるって、ほんとにすごいなあ……)
でも、ほんとうに、あたしはいつこの景色を見たんだろう?
ルナがぼうっと、水平線に見惚れていたそのとき。
「うきゃっ!」
なにかがぶつかってきて、身体がよろめいた。
ものすごい勢いで、だれかに体当たりされたのだ。ルナは、こどもの後姿を見た。そして気づいた。そのこどもが――褐色の肌のこどもが、ルナのバッグを持っていることに。
「こっ……こらーっ!!」
ひったくられた。
気づいた時には遅かった。
ルナはすぐ追いかけたつもりなのだが、その子どもは驚くほど足が速い。遊園地のほうへ、ものすごいスピードで走っていく。
追いつけない。ルナはウサギの代名詞をもつくせに人一倍足が遅く、そのこどもは、運動会では間違いなく一位を取れるくらい足が速かった。
「ま、待ってーっ! 待ちなさいこらあ!」
あっというまに子どもの姿を見失い、先にルナの息が続かなくなって、足がもつれて転んだ。
「いたっ!」
どうしよう――バッグ、取られちゃった。
財布もカードも、あの中に入っているのだ。アズラエルは灯台に行ってしまって、気づいていないだろう。役所に言った方が早いかもしれない。
涙目でスカートについた砂ぼこりを払っていると、ルナのほうまで聞こえるくらい、盛大なゲンコツの音がした。ついで、背の高いシルエットがジタバタ暴れるこどもの襟首を引っ掴んで、こちらへやってくるのが見えた。
「アズ!」
「すばしっこい野郎だ」
アズラエルがルナにバッグを放り投げたので、ルナはあわててバッグを受け止めた。アズラエルが捕まえてくれたのか。アズラエルも足が速いらしい。こどもはアズラエルに襟首を引っ掴まれていても、がむしゃらに暴れて抵抗している。
「離しやがれコノヤロー!!」
「うるせえぞクソガキ。船内でのスリはご法度だ。役所に突き出してやる」
ルナは、目を見張った。子どもの、行儀の悪さにではない。改めて真正面から見たら、その子どもが、びっくりするぐらいアズラエルに似ていたからだ。
アズラエルより肌の色は濃い。茶褐色の肌、こげ茶の髪に、目の色も同じ。
まるでアズラエルのミニチュアだ。
「チクショー! 離せよ馬鹿力! 俺はピエトだ! 俺の名を知らねえとは言わせねえぞ! 今なら大目に見てやるから、下ろしやがれチクショー!」
――椿の宿の夢で見た、アズラエルの子どものころに、そっくり。
「離しやがれ! コンチクショウ! 俺様の名前を知らねえってのか!」
ジタバタ暴れる子どもに、アズラエルは容赦なく「知らねえよ」と返した。
「知らねえってンなら教えてやる! 俺ァピエトさまだ! どんな悪党も怯えて逃げる、正義の味方、ピエト様だ!」
「……そういう幼児番組でもやってンのか……」
アズラエルは相手にしなかった。子どもの襟首を引っ掴んだまま、区役所――教会の形をした建物へ歩いていく。ルナもあわてて後を追った。
アズラエルが区役所に入ろうとしたところで、タケルが扉を開けて飛び出してきた。アズラエルと、その手がつまみ上げている子どもの姿を視界にとらえる。
「ピエト君!」
「うっげ! タケル!」
子ども――ピエトは今までにない勢いで暴れだし、アズラエルも襟首をつかんでいるだけでは支えきれなくなり、ついに手を離したが。
「アズラエルさん! すいません、つかまえてください!」
タケルの悲鳴のような声に、アズラエルはすかさず踵を返してピエトを追い、あっという間にピエトのズボンのベルトを、長い腕でひょいと持ち上げた。
「ちくしょう! この悪党面が!!」
ピエトは暴言を吐いたが、アズラエルの頑丈な腕が簡単にゆるむわけもない。ルナだって、あれにつかまえられたらもう抜け出せないのだ。たかだか十歳くらいの子どもが逃げ出せるわけはなかった。
「アズラエルさん……助かりました、ありがとうございます」
ぜいぜいと息を切らしたタケルが、ヘロヘロという感じでこちらまでやってきた。タケルはさっきからずいぶんと忙しなかったが、ピエトを捜していたのか。やっと地面に下ろされたピエトは、アズラエルとタケル、両方から同時にゲンコツを食らった。
「イッデエ!!」
「ピエト君、学校はどうしたんです!」
「このクソガキが! まずはごめんなさいだろ!」
アズラエルとタケルが同時に怒鳴ったので、ルナはぴーん! とウサ耳が立ってしまった。びっくりした。あの優しそうなタケルが、子どもにゲンコツを食らわせるとは思わなかったし、アズラエルのゲンコツは大変に痛そうだったからだ。
「ピエト君、何をしたんです」
タケルも、ピエトが、ルナとアズラエルに悪さをしたであろうことに気づいた。怖い顔でピエトを睨んだが、この子どもはよほどふてぶてしいのか、知らぬ顔で口笛を吹いている。
「ルナのバッグ、掠め取りやがったんだよ。コイツ、どこのガキだ」
「ええっ!? 本当ですか?」
タケルはふたたびピエトを怒鳴った。
「ピエト君、もう、スリはしないって約束だったでしょう!」
「バカ言えよ。スリの腕、鈍ったらどうすんだよ」
「ピエト君」
タケルは、ピエトと目線をあわせるようにしゃがみ込み、ピエトの目をしっかり見て言った。
「ピエト君、この宇宙船は、――いや、もう、スリも盗みもダメだと言ったはずだ。人の物を盗んだりするのは、いけないことだ。それにもう、なにかを盗んだりしなくても、生活していける環境にあるんだから。今度盗んだら、宇宙船を降ろされてしまうって、私は言ったよね?」
急にピエトの顔から、表情がなくなったのをルナも見た。アズラエルも、ほんのわずか、眉間に皺を寄せた。
「……悪さしたら、元の場所に帰してくれるんだろ」
「ピエト君」
「だったらさっさと帰せよ。帰りてえんだよ俺は」
ピエトは両の拳を震わせて叫んだ。
「つまんねえよこんなとこ! もうピピもいねえし! この宇宙船に乗ったらピピのこと助けてくれるって言ったくせに、大嘘じゃねえか! ピピは死んじまったし、俺だってすぐに死ぬんだろ! だったら俺は、仲間がいる家で死にてえよ!」
タケルは言葉を失い、すこし悲しい顔をしたが、ピエトの両肩をしっかりと押さえて首を振った。
「ピエト君は治る。ちゃんとこの宇宙船で治療をすれば、必ず治る。だから、宇宙船を降りちゃいけない」
それを聞いたとたんにピエトの顔が大きくゆがんだ。こどもの大きな両目から、ぼたぼたと涙が零れる。
「大嘘つきだ……! てめえなんか!」
「ピエト君!」
今度こそ、ピエトはタケルの両手を振り払って逃げた。だが、数歩も行かないところで立ち止まり、大きく咳き込んだ。
「おい……」
風邪にしてはあまりに急な咳き込みようと、喉が切れたようなおかしな音に、アズラエルも変だと気付いた。ピエトは咳が止まらぬままうずくまり、糸が切れたようにばたりと倒れた。
「大変だ!」
ルナが、大慌てで駆け寄った。だがタケルのほうが早かった。ルナが手を出すまえにタケルが抱き起こす。ピエトは、青黒い顔をして、ぐったりとしている。
タケルが携帯電話で救急車を呼ぶ。タケルの処置は冷静であったし、この事態に慣れているようでもあった。
「K19区、区役所前です。――はい、一台お願いします。私はタケル――ピエト君の担当役員です。そうです、アバド病の――はい、ピエト君です」
――アバド病?
ルナがアズラエルを見上げると、アズラエルは苦い顔をしたままぽつりと、「鉱山病の一種だ」と言った。




