165話 導きの子ウサギ Ⅱ 1
「アズはいっつもいきなりすぎるよ!」
ルナは助手席でぷんすか怒りながら聞いた。
「どこ行くの!!」
「まえ言ったろ。K19区だ」
「K19区!?」
ルナは怒ったままだったので無意味に叫んだ。アズラエルはそんなルナの怒りなど意にも介さず、鼻歌交じりに車を走らせる。
「海が見れるぞ」
「海……」
海の一言でルナの怒りは静まった。このあいだの旅行の時から車内に入れていたパンフレットを持ち出して、開く。
「ほんとだ……うみのそばだ……」
K19区は海に隣接した区画だった。水族館も海水浴場もある! と輝きだしたルナの顔をちらりと見遣り、アズラエルは言った。
「今夜はK08区に泊まる」
「K08区? リゾート地?」
「そう。湖のそばのレイクホテル」
「みずうみ!」
グリーン・ガーデンとは反対側のコテージだ。
この子ウサギが、水辺が大好きだということは、ライオンは把握済みだった。
さて。
湖畔のホテルで、ルナは豪勢なディナーを――船内の海で獲れる、キラキラした魚がメインのコースを食べた。
綺麗に焦げ目がついた七色の鱗はサクサクして香ばしく、ルナはほっぺたが落ちそうだと思った。そして値段を聞かない方がいいワインを飲み、豪華絢爛なデザートまで食したルナは、すっかり酔っぱらってご機嫌だった。
スイート・ルームは三部屋もあり、寝室は頭上に満天の星空と、湖畔が見える。
薔薇の花びらが浮いた乳白色の湯があふれんばかりの浴槽に、アロマキャンドルが灯された寝室。
(これはたいへんだ!)
あまりにあまりな、恋人チックでロマンチックな部屋に、ルナは一気に酔いがさめて戦慄したが。
ベッドはちゃんと、ふたつあった。
「……」
ふたつどころでなく、五つくらいあった。
「どうした? ルゥ」
シャワーを浴びたアズラエルがもどってきた。
「おまえ、どこで寝る?」
「……」
ルナはなんだか、釈然としない顔をして、窓際の、景色がよく見られるベッドを選んだ。
やはりその夜も、健全に、すこやかに、ふたりは就寝した。
「ふぎ……」
そうして気づいたら、陽は高く昇っていた。
昼近い時刻で、アズラエルは行方知れずだ。
ルナはぼうっとする頭でぺとぺと浴室までいき、シャワーを浴びた。浴室から出ると、バスローブ姿のアズラエルがいて、朝食を乗せたワゴンを動かしていた。
「ルゥ、生ジュースがあるぞ。三種類。それともコーヒーにするか?」
ルナはワゴンの上のピンク色を見て、「その、ピンクのオレンジジュース」と言いかけたが、「ぜんぶ、ちょっとずつ飲んでみたい」と言い直した。
アズラエルがジュースをピッチャーから注いだり、サラダを取り分けたりするのをボケッと眺めていた。
ルナは、山積みのパンかごから、ほんのり温かいクロワッサンとロールパンを選んだ。
オムレツにベーコン、ルナが見たことのない花びらみたいな赤いフルーツと、キウイ、マンゴー、イチジク、エトセトラ。
じゃがいもとコンビーフやチリビーンズ、エッグベネディクト、ワッフルにフレンチトーストまであった。
ルナは、ひとくちずつ口をつけるという、なかなかお行儀の悪いことをして、最終的に、飼い主に皿を取り上げられた。
「なんか、旅行っぽい旅行だ」
ルナは、pi=poの給仕に、ワッフルにたっぷり、アイスクリームとヨーグルトと果物とメープルシロップを乗せてもらい、満足げな顔で言った。
「いままでのは、旅行らしい旅行じゃなかったっていうのか?」
アズラエルは、ルナがひと口ずつ口をつけた食材を片っ端から片付けていった。
「なにごともなければいいんですけども」
「なにごとかは起こるはずもねえ。これは、純粋な旅行だ」
アズラエルは言い切ったが、ルナはどうも、そうは思えないのだった。
ホテルをチェックアウトしたのは昼近く。
それは車内で起こった会話だった。
「アズは、赤ちゃん触ったことある? 育てたことある? 好き?」
アズラエルは驚いた顔でルナを見、「プロポーズかそれ」と言った。
プロポーズ。
そんなつもりで言ったわけではない。ルナはあわてて訂正しようとした。真っ赤になって。だがルナがなにか言う前に、アズラエルが面倒そうな顔でぼやいた。
「冗談だよ……まぁ、そうだな。ガキは嫌いだ」
昨日、エレナ邸では、みんなそろって、「ルナの子どもは可愛いだろうね」だの「見たいな」だの「早く産んで」だのうるさかった。みんなというか主にエレナ。
そこでルナの「まだつきあってません!」が炸裂したのはいうまでもない。
アズラエルはエレナの赤ちゃんを一度は抱いたが、おっかなびっくりで、すぐエレナの腕にもどした。
「ガキは苦手だ」
アズラエルははっきりそう言った。
「うるせえし、すぐ泣くし、わがままだしな。……赤ん坊もなぁ。潰しちまいそうで、ヒヤヒヤする」
ルナは、昨日、一番エレナから離れていて、なるべくなら近寄りたくない、という顔をしていたアズラエルを思い出す。
「アズは、子育てじょうずそうだと思ったんだけどなあ……」
ルナのぼやきに、アズラエルはやっと気づいて取り繕うように言ったが、失敗した。
「ガキの面倒なんか、妹ふたりでもうじゅうぶんなんだよ」
「アズがスタークさんとオリーヴさんの子育てしたの!?」
「当たり前だろ。俺のおふくろは、家事どころか子育てにも向いてなかった。ほとんど俺がオムツ代えてたよ」
「……」
ルナが無言になってしまったので、アズラエルはあわてて話題を変えた。
また、このあいだみたいな失敗旅行をするつもりはない。
「ルゥ。機嫌治せよ――ほら、観覧車見えてきたぞ」
ルナは、怒ったわけではなかったのだが。
「え?」
海ではなく?
言われてルナは、窓の外を見ると、ほんとうに観覧車が視界に入ってきた。
「遊園地もあるの?」
「ああ。……今は、やってねえみたいだな」
「やってない?」
いつのまにかK19区画に入っていたようだ。
道幅は広かったが、車どおりは少なかった。歩道をあるく人影もない。観覧車が瞬く間に近づいてきて、道路の側面は遊園地の敷地になった。アズラエルの言うとおり、今は運営していないのか、ジェットコースターも観覧車も、遊具はまるで動いていない。
「ほら、海だ」
ルナが観覧車のほうに気を取られている間に、潮の匂いと生ぬるい空気がルナの肌を擽っていき、前方に青が見えた。
広い道の前方は、広場で、海がみえる突き当たりだった。
――あれ?
ルナは、目を疑った。
(この景色、どこかで見たことがある)
車が広場へ躍り出る。広場の右手は橋を越えて道路になっていて、街がある。街の中に遊園地があるという、不思議な光景だった。石畳の広場の向こうは水平線が見える海。アズラエルはモダンな造りのレールで仕切られた海との境界近くで、車を停めた。
ルナが車から降りると、潮の匂いが、ますます濃く鼻を衝いた。海風に煽られて、麦わら帽子が吹き飛びそうだった。
この景色、見たことがある。
どこで? いつ?
……思い出せない。
ルナは記憶を探ろうと、あちこちを眺めた。
運営していない遊園地、その隣の広い道路――あそこは、霧がかかって通れなかったのでは? いやちがう。今、そこを通ってここへ来たではないか。
いつ? 通れないと思ったのは、霧に閉ざされていたのは、いつだ?
思い、出せない。
ウミツバメの鳴く声に、ルナは導かれるように見た――目前に立つ、教会を。
教会の隣に、螺旋状につらなる階段が奥に見える、潮風に錆びた鉄製の扉。螺旋上の階段は、教会後ろの灯台につながっているらしかった。
「アズ――あたし、ここ、」
「なんとなくだけどな、おまえをここに連れてきたかったんだよ」
アズラエルも、外に出ていた。「いい風だ」とガードレールに肘をつき、懐かしそうに目を細めて水平線の彼方を見た。
アズラエルも?
アズラエルも懐かしいと感じているのだろうか。ルナもそうだ。
ルナはここに、来たことがある。
ここに。
――いつ?
「アズ」
「ン?」
「……あそこはなんだろう。あの、教会みたいなところ」
「なんだろうな」
ルナは、アズラエルと一緒に教会のほうへ歩いて行った。
灯台へ続く鉄錆びた扉――見たことがある、間違いない。
「ここ、K19区の区役所だってよ」
アズラエルが観音開きの扉の横にある表札を見て、言った。
「区役所……」
区役所は、今は閉じられているようだった。鍵がかかっているし、周囲に人の気配はない。
「ルゥ?」
「あの、あのねアズ!」
「なんだ?」
「あの橋の向こう、行ってみたいの!」
「向こう? 向こうの街か?」
「う、うん……」
アズラエルは橋の向こうを眺め、その寂れ加減に顔をしかめながらも、「カフェくらいあるよな」とつぶやいた。
「うん、あのね、そこの通りを曲がってね、」
「……おいおい、どこに向かってんだ」
街に入り、カフェでコーヒーでも飲もうと思っていたアズラエルだったが、ルナには行きたい場所があるようで、せっかく見えたカフェは素通りした。
ルナは奇妙な行動ばかりをとった。いきなりホテルの前で車を停めろと言い、車を降りてホテルに向かい――「入れる!」と言ってもどってきた。
あたりまえだ。街に人気はまるでないが、ホテルは運営している。フロントにも数人いた。
「おまえ、ここに、来たことがあるのか」
自分と出会う前に、ミシェルたちと来たことがあるのだろうか。だが、ここは観光地とは思えないほどの寂れ具合で、ルナたちがわざわざ来るような場所には見えなかった。
それに、レオナのマンションで遠目に海を見たとき、「海があるんだ!」と感激していたルナである。そのときまで、宇宙船内に海があることすら知らなかったわけだ。この区画に来るのが初めてであろうことは明白だ。
「ううん。――でもね」
だがルナは、アズラエルの常識では測りきれないことを言うことがある。
「こういうの、なんていうんだっけ? デジャヴュ? あたしぜったい、いつだかここに、来たことがある」
「……」
「この大道路をね、そう、こっちへ曲がって――」
「……」
「ガソリンスタンドが、あるはずなの」
そうしてね、道は突き当たりなの。工事をしてたはず。
ルナは言った。
アズラエルはルナの指示通り左へ曲がり、――その先は、ルナの言うとおり、工事現場だった。海に面した工事現場。波に削られた個所を修復しているらしい。カアン、カアン、という音が聞こえてくる。
「――あった」
ガソリンスタンドがあった。ウソでしょ、とつぶやくルナは、あれだけ確信に満ちた言い方をしながら、自分の記憶を半分以上疑っていたらしい。スタンド入り口にはロープが掛けられ、壁も一部崩落して寂れている。閉店して長いことが伺える。
アズラエルはガソリンスタンドまえに車を停めた。
ここは道の突き当たりで、ほかに車がくる気配もない。どうしてこんなところにガソリンスタンドがあるのか、アズラエルは疑問だった。こんな道のどん詰まりに作ったところで、だれにも気づいてもらえやしない。せめて街の入り口に作ればいいものを。潰れるのはあたりまえだった。
だがこの宇宙船内の店は、ニックのコンビニ然り、到底やっていけないと思える経営状態でも、経営している店舗はけっこうある。
地球行き宇宙船公営の店舗はずいぶんあるのだろう。
ニックのコンビニも、あの位置に一ヶ所でも、トイレと飲食物が置いてある場所があれば便利だから、あるのだ。ほとんど営利目的はないといっていい。
あのコンビニは電気自動車やガソリン車の補給システムも整っているし、あの駐車場の広さは、ヘリが離陸できる広さだ。この宇宙船内でヘリはまだ見たことがないが、ニックのコンビニはそういう利便性がある。
だからアズラエルは、地球行き宇宙船に乗ってからはじめて、潰れて、しかも潰れたまま放置された店舗を見た。この宇宙船ならば、こういう店舗は、景観を損ねる、などの理由ですぐ更地にされそうな感じがするのに。
この、どんづまりの道路もそうだ。道路がガソリンスタンドをゴールにぶっつり切れていて、目の前はすぐ海。波に打たれて崩れるのか、補修工事中ではあるが。この道をどこに繋げようとしたのか、アズラエルは想像すらできなかった。
この街は――どうも、具体的には言えないが、ほかの街に比べて奇妙なつくりだ。アズラエルはそう思った。




