162話 キラとロイドの結婚式 Ⅲ 2
ロイドは結婚することを親と兄のリックに知らせたが、彼らからの返事は好きにしろの一言だけ。祝福の言葉もなかった。それでも結婚式の招待状は送った。来てくれるとは、まったく思っていなかったけれど。
リックはロイドを無視したまま、だれにも握手をもとめず、周囲を睥睨した。
「僕は、リック・T・ルビンスキー。ロイドの兄です」
それを聞いて、キラの顔はしかめられた。メアリーたちも、彼を歓迎しているという顔ではなくなった。彼らは、このロイドの兄が、ロイドを無視し、家から追い出したことを知っているからだ。
リックの冷ややかな無表情と、人を人とも思わぬような乱暴な所作が、ロイドの話に真実味を持たせた。
「ほんとうはこんなところになど来たくなかった、忌々しい。ロイドは僕の弟じゃないし、できればもう二度と、関わりあいたくなどないのに」
「じゃ、じゃあなんで来たのよ」
冷たい態度から出た冷たい――あまりな言葉に、思わずキラは叫んだが、リックはちらりと周囲を気にしただけで、顔色さえ変えなかった。ジロリとキラを睨み――そして、キラの母親を見た。
「あなたが、弟の結婚相手の母親?」
「そ、そうですけど……」
エルウィンの口調も、固くならざるを得なかった。
リックは、胸元から小切手をだし、ペンで金額をサラサラと書付け、エルウィンに押し付けた。エルウィンはその額を見――息をのんだ。覗き込んだだれもが、その大金に目を丸くした。
ゼロの桁が間違っているのではないかと思ったが、次のリックの台詞は、その金額が間違いではないと証明した。
「一億デルです」
「あの……」
エルウィンの困惑を気にも留めず、リックは自身の用件を告げた。
「すまないが、その女もロイドも、ルビンスキーの姓は名乗らないでほしい」
「え?」
さすがに、エルウィンも動揺して聞き返した。今、彼はキラのことをその女、と言ったか。
リックは無表情で続けた。
「ロイドはとっくの昔に勘当してある。だが、腹の立つことにルビンスキーの姓を名乗ったままだ。それはこちらとしても迷惑なのでね。結婚は都合がいい。ロイドにはそちら側の姓を名乗らせてくれ。ただでとは言わない。これは、そのための金だ」
リックは、それだけいうと、用は済んだとでもいうように襟元に手をやり、踵を返した。
だれもが呆気にとられて――ルナでさえ、なにも言えずにたたずんでいたのだが、エルウィンが、声を震わせて怒鳴った。
「なにを言うの! 受け取れません、こんなもの! 持って帰ってちょうだい!」
リックが、恐ろしく不快だという顔で振り返った。
「こんなお金要りません! こんなことされなくてもロイドちゃんはうちの子にするわ。キラにだって、あなたと同じ姓など名乗らせるものですか! さっさとこれを持って帰ってちょうだい!」
だがリックは、突き返された小切手を一瞥もせず、ふんと鼻を鳴らして帰って行く。エルウィンはあわてて小切手を持ってリックを追いかけようとした――が。
「待って」
ロイドが止めた。
「待って。お義母さん。ぼくが行きますから、」
ロイドは、小切手を持たなかった。早足で歩いていくリックを追いかける。
「ロイドちゃん、お金、」
エルウィンがさらに追いかけようとした瞬間、ジェニファーが、「だめよ! それはキラちゃんの結婚式に使うの!」と叫んだために、皆の気が殺がれてしまった。
「母さん、キラちゃんの結婚式は、もう終わるところよ」
メアリーがなだめたが、ジェニファーはニコニコ顔で言うのみだ。
「だめよ。キラちゃんの結婚式に使うの」
「待って、リック!」
会場を出たところで、やっとロイドはリックを呼び止めた。リックは振り向かない。リックが連れてきただろうSP二人が、リックを守るように立っていて、ロイドはそれ以上近づけなかった。だがリックは、止まった。いつもだったら、無視されるのは当然なのに。
「リック、結婚式に来てくれて、あ、ありがとう――来てくれただけで、嬉しいよ」
ロイドは、心からそう言った。
なぜ、リックが――ずっとロイドを、無視し続けてきた兄が、ここに現れたのかは分からない。でも、ルビンスキーの姓を取り上げるだけなら、弁護士でもなんでも通じて、話を済ませるのがロイドの家族のやり方だ。ロイドは、都合がいいと思っても、信じたかった。
リックは、祝福のために来てくれたのだと。
L53からはるばる、このマルカまで――。
「あれは、おまえの正当な取り分だ」
「……え?」
リックは背を向けたままロイドに言った。
「あれは、ばあさんの遺産だ。俺たちの父親が、ばあさんの資産をずっと押さえていた。俺が正式に親父の跡を継いだから、その金も勝手にできるようになったわけだ。そのうちの一億。おまえが相続できる金額だ」
「お、おばあちゃんが――? なぜ、そんなお金を持って……」
ロイドの祖母が亡くなったときは、ロイドも祖母も、ギリギリの生活をしていた。ギリギリの生活と言っても、L5系で生活していけるのだから、貧乏ではないと言われたものだが、とても一億デルの分配ができるような、資産を持っているようには見えなかった。
「おまえはほんとうにおめでたいヤツだ」
リックはロイドに背を向けたまま吐き捨てた。
「ばあさんが、ルビンスキーのホテル業を、一代で、あそこまで築き上げたんだぜ?」
「え……」
リックが、初めて振り返ってロイドを見た。
「ばあさんは、男に捨てられた意地で事業を起こした。ばあさんにとっちゃ、自分の子どもも道具だった。俺たちの母親を、好きな男と別れさせて、事業の拡大のためにむりやり俺たちの父親に嫁がせた。ばあさんは、自分を利用して裏切った男との間にできた娘が嫌いだった。俺たちの母親も、好きでもない男との間にできた俺たちが嫌いだった。憎しみと恨みの連鎖だよ。俺たちの家系は」
ロイドは絶句して、言葉が出なかった。
「ばあさんのほうのホテルが斜陽になったとき、俺たちの母親は手助けせずに乗っ取った。ばあさんは取締役を解かれた。そのあと、資産も全部押さえられて――一時は浮浪者になったこともあるみたいだぜ?」
おかしそうに話すリックとは逆に、ロイドは両手で口を押えた。涙がこぼれた。
「俺たちの母親が、ばあさんをおまえのベビーシッターとして雇った。拾ったが正解か。浮浪者の生活からは脱却できて良かっただろうな」
「ぼくは――ぼくは、」
「自分が、一番かわいそうな人間だったか? ロイド。家族から無視されて、だれにも愛されなくて、捨て鉢になって泣いたか? おめでたい人間だよおまえは。あの家族の中で、だれかがだれかを愛してたと、本気で思っていたのか」
「リック……」
「僕の名前を呼ぶな! おまえにだけは、呼ばれたくない!」
リックは叫んだ。SPに「落ち着いてください」と肩を押さえられながら。
「おまえのほうがまだマシだ。あの家族と離れて、だれかを好きに愛せるのなら」
ロイドは、激しく嗚咽した。だれのために? リックと、――リックだけではない。
「僕には最初から逃げ場も救いもなかった! あの家の跡継ぎとなるためだけに生まれた僕には!」
「ぼく――」
「おまえが、羨ましくて、大嫌いだ。もう、僕の視界に入るな」
最後のリックの言葉は、震えていた。
「社長、もう」と秘書の静かな声が聞こえる。リックは足音荒く踵を返し――回転ドアを抜けようとした。
「――リック!」
その声が、あまりにも決然としていたがために、リックは二度と振り返るまいと思っていたのに、振り向いてしまった。
「ぼくは――ぼくは、メールする。何度も、無視されても、君に……」
リックは怒りのあまり唇を蒼褪めさせた。もう関わるなと言ったのに。
「あの家族の中で、だれも互いを愛してないって? でも、ぼくは、リックが好きだよ。お兄ちゃんだもの……!」
「僕は嫌いだ」
リックの声は、今までで一番きつく、ロイドを拒絶していた。
「でもぼくは、君を愛するよ。ずっと。君がぼくを愛してくれなくても」
ロイドは、なんとか笑顔を作っていった。リックの返事はなかった。リックはなにも言わずに回転扉を抜け、表に止まっていたスクアーロ――こちらは貸し切りの高級車――に乗って、行ってしまった。
「ロイド……」
ミシェルが背後にいた。「だいじょうぶか?」
「ぼくは大丈夫だよ」
ロイドは赤い目を擦って、しっかりした口調で言った。
「ぼくはたしかにおめでたいと思う。ぼくはなにも知らなかった。でも、――たしかにおばあちゃんは、ぼくを愛していたと思う。そして、おばあちゃんは、ぼくの母親である娘のことも愛していた。もちろん、リックのことも」
ロイドは微笑んだ。涙は次から次へとこぼれたが。
「この宇宙船に乗って、ぼくの拗ねた心をたくさんのともだちが癒してくれた。昔のぼくにはできなかったけど、今は――リックに愛を分けられるだけ、ぼくはたくさん愛をもらっている」
「ロイド」
「愛はもらわなきゃ、分けられないよ。ぼくはそう思う。だから、いっぱい愛情をもらったぼくが、今度はリックに分けるんだ」
おまえはお人好しだ、と言いかけたミシェルは、すんでのところでそれを飲みこんだ。
「それよりミシェル、君、今日ほとんどぼくのところへ来なかったね」
「言うなよ、それを」
ミシェルは苦笑した。
「薄情だとか言ってくれるなよ? おまえらのところに顔を出そうモンなら、リサと結婚はいつだとか、早くしろとか、けしかけられるに決まってる。それこそ今日は、おめでたい日だからな」
ロイドは笑って、それからミシェルに言った。
「リサちゃんには本気なんだろ? ぼくは分かってる。リサちゃんは気にしてるようだけど、君は、べつにリサちゃんといると君の運がよくなると言われたから一緒にいるわけじゃない」
「……さあ。どう思われようが、俺はかまわない。カサンドラの話なんか信用しちゃいないし、俺には、女よりなにより、裁判のカタをつける方が先だ」
「ミシェル……」
「けじめだよ、これは。裁判が終わるまで、俺はだれとも結婚する気はないし、それでリサが俺に愛想を尽かすっていうなら、そこまでの話さ」
パーティーにもどろう、とミシェルがロイドの肩を叩いた。
「……ミシェルの傷も、いつか癒えるといいと、ぼくも願ってる」
ロイドの言葉に、ミシェルは今度こそ「お人好しめ」と肩を竦めた。
「俺の場合は、傷とかなんとかの話じゃねえよ。けじめだって、言っただろ。――ほら、おまえだってまず、あの金の行く先を検討しなきゃならない」
ミシェルとともにパーティー会場にもどると、エルウィンたちが強張った顔で小切手を囲み、沈黙していた。そこには、アズラエルとクラウドの姿もあった。もどってきたロイドの姿を見ると、エルウィンがようやくほっとしたように、ロイドに駆け寄った。
「ああ、ロイドちゃん、お兄さんは?」
「帰りました」
「帰ってしまったの? 困ったわ、悪いけれど、ちゃんとこのお金は送り返してちょうだいね? 困ったわ、どうしましょう。危なくて――こんな大金。このレストランの人に頼んで、送り返すわけにはいかないのかしら――お金は、銀行よね。銀行は、どこだったかしら。マルカに銀行は、」
「母さん、落ち着いてよ」
身の置き所がないといわんばかりに右往左往するエルウィンを、キラが呆れてなだめた。
「お義母さん」
ロイドは、言った。
「さっきリックから聞きましたが、これは、ぼくの祖母の遺産で、ぼくの正当な取り分だそうです。リックは、ぼくの結婚祝いのためにこれを持って駆け付けてくれたんですよ」
だれもが、そんなバカなという顔を隠さなかった。リックの冷酷さは、今ここにいるだれもが目の当たりにし、ロイドが虐げられてきた事実も聞いている。
「きっと、あんな言い方しかできなかったんです。彼は、ぼくのために、こんな遠くまで金と時間を使って、会いに来てくれるひとではなかった」
「ロイドちゃん」
「お義母さん。――だからこれは、ぼくがもらった結婚祝いで、祖母の遺産です。だからぼくがもらっても、かまいませんか?」
「え? ええ……」
「カザマさん!」
ロイドは、会場内のカザマを探した。カザマは何度も会場を出入りしてせわしなかったが、今は会場内にいた。だれかと歓談中だったが、ロイドの呼び声に、「はい」とひとつ返事をして、来てくれた。
「どうしました?」
ロイドは、念を押すように、エルウィンに告げた。
「これはぼくのお金です。だから、ぼくが、どんなふうに使っても、怒らないでくださいね」
エルウィンは、困った顔で首を傾げた。
「カザマさん、この一億デルの小切手で、地球行き宇宙船の乗船チケットを買いたいんです」
ロイドの言葉に、意味がやっと分かったキラ――そしてルナも、口を開けた。ぽっかりと。真ん丸のお月さまのごとく。
カザマはうなずき、電子手帳を取り出す。
「オークションで売りに出されているチケットではなく、わたくしを通じての正規のご購入でしたら、八千七百万デルでご購入できます」
「ではそれで、お願いしたいんです」
「ご乗船する方のフルネームを。それから、ご連絡先を」
「はい。一人目は、エルウィン・B・マクファーレンさん」
「ロ、ロイドちゃん!」
エルウィンも、やっと気づいた。あわてて、ロイドに取りすがって止めた。
「それはいけないわ! ダメです!」
「なぜ? ぼくのお金を、どう使っても、怒らないで下さいと言いました」
「言ったけれど――ダメよ。それはいけません。――そう、私にだって生活があるのよ。L77で過ごしてきた生活が。家もあるし、仕事も……」
「母さん」
今度はキラが、エルウィンにすがった。
「あたし、母さんにも宇宙船に乗って欲しい」




