159話 エキセントリックなネコとシェイカーを振るゴリラ 3
(気に、――しすぎなのかな)
ルナは、だれも座っていないカウンター席にぽてりと座り、人ごみを眺めた。
(気にし過ぎ、だよね)
ルナはぼうっと宙を見つめ、うつむいた。
(気にしたところで、あたしになにができるっていうの?)
何もできない――あたしは、なにか、だれかの助けになるようなことができる、人間じゃない。
ルナは、なんとなく、涙が出そうになった。どうも、このあいだから、自分の無力を痛感する出来事が続き――それなのに、感謝される状況に、ルナは困惑していた。
(あたしは、いろんな出来事に振り回されているだけだ。この宇宙船に乗ってから、ずっとそうだ)
平凡な人生は突如として終わりをつげ、一口では説明できないいろんなことがあって、その時々でだれかに褒められて、感謝されて、持ち上げられて。
でもそれは、いつも、見当違いの感謝だった。
ルナに、このあいだのアズラエルのようなことは、できない。
(あたしがなにかできたことなんて、一回だってない。いつも、あたしのほうが、みんなに助けられているのに)
バーベキューパーティーのときだって、ロイドとキラのことだって。
アズラエルと出会ったことだって、なにかの間違いで、今、この宇宙船にいる間だけの、夢か幻のような気持ちさえしてきた。
ルナは、ルナのまま。
変わったように見えて、宇宙船に乗ったときの、臆病で、引っ込み思案の、なにもできない平凡な子のまま。
サルーディーバが、ルナに助けを求めて宇宙船に乗ったとか、だれかれが、ルナの助けを求めているとか。
信じられない。みんなは、だれかとルナを、間違っているんじゃないだろうか。
(あたしには――なにも、できないよ)
ルナは胸元を、きゅっと握りしめた。
アズラエルみたいに強くて、自信に溢れていて、経験値も高い大人だったら、すこしは何かできたのだろうか。自分でも、だれかを助けられたと、納得できるようなことが、できたのだろうか。みんなの感謝を、素直に受け止められるくらいに。
「ルゥ」
ルナが、零れ落ちそうな涙を必死で我慢していると、急に大きな影に覆われた。と思ったら、アズラエルが隣に座っていたのだった。アズラエルは白い皿にチキンだのサラダだのを山盛りにして、ルナの前に置いていた。アズラエルは、ルナの好きなエビのサラダもちゃんと取ってくれていた。
「食えよ。おまえ、腹が減ると落ち込むからな」
落ち込んでいたのを、見抜かれていたのだろうか。ルナは「あ、ありがと……」といって、皿の上のじゃがいもにフォークを突き刺した。
「なにをそんなに、落ち込んでるんだ? このあいだから」
ルナは、少し目を上げたが、アズラエルの見事な上腕二頭筋しか見えなかった。
「――おまえが、見かけほどアホじゃなくて、うだうだ考えるタチだってのは、最初から分かってる」
ルナは顔を上げ、アズラエルの横顔を見た。するとアズラエルがルナに視線を向けたので、ルナは思わずまた、うつむいてしまった。すぐに、ためいきが降ってくる。
「やっぱり、ダンマリか? おまえはいつも、肝心なことをいわねえから」
いつもだったら「だって、アズとは付き合ってませんし?」と叫んでぺけぺけできたくらいの台詞が、今はどうにも笑えず、じゃがいもが喉に詰まった。
「おまえは、おまえらしくしてりゃいいんだよ」
ルナは顔を上げた。アズラエルが、まじめな顔でこちらを見ていた。
「おまえが、おまえでいてくれて、そばにいてくれることが俺は嬉しい。――おまえが話す気になったら、俺は聞くよ。焦らなくていい」
――なんだか、とてもいいことを言われたような気がするのだが、ルナはぼうっとじゃがいもをフォークに刺したまま宙を見つめていた。
アズラエルは、そのままそばにいてくれていたのだが、これまたルナの知らない男性が、アズラエルに声をかけて来たことで、アズラエルはそっちに連行されてしまった。「ルゥ、すぐもどるからな」と言ってアズラエルは消えたが、まだもどってこない。
(今日は、キラとロイドのお祝いの席なの)
だから、自分ひとりで沈んでいるのもよろしくない。
……でも、元気が出ない。なぜなのだろう。いやいや、元気を出すのだルナ。ウサギパワーだ!
……あんまり強そうじゃない。どうせならライオンパワーが欲しいところだ。ひとりでいるから、元気のないことばかり考えてしまうんだ。ミシェルたちの席へ行こうか、リサたちのところへ行こうか。キラとロイドは、いろんな人と挨拶してて忙しそうだし……、
「ルナちゃんがひとりって、めずらしいね」
なんとなく、ひとりでいるのも寂しくなってきた頃合いに、コトリ、とルナの前にグラスが置かれた。ふわりと香る――ルナの好きな、薔薇のリキュールをつかったカクテルだった。
デレクが、カウンターから出てきて、ルナの隣に座っていたのだ。
「え、あたしひとりって、めずらしい?」
「うん、めずらしい」
デレクはうなずいた。その顔はけっこう、嬉しそうだった。
「俺のイメージでは、ルナちゃんはいつも人に囲まれてるイメージがあって。なかなか、ふたりでは話せないから」
「え? そ、そうだった……?」
それより、デレクがカウンターを出て、のんびりしていることのほうがめずらしいのではないだろうか。ルナのイメージでは、デレクはいつもカクテル作りに、常連客の相手にと、忙しそうに見えていたから。
でも今日は、料理もドリンクもバイキング形式にしていることもあってか、マスターもデレクも、ヒマそうだった。
「ま、一人では来ない方がいい気がするけど。ルナちゃんは」
たしかに、この店ではさまざまなことがあった。
「ルナちゃんはモテるしね」
「もっ……モテないよ!?」
「それはルナちゃんが知らないだけ。ルナちゃんが、リサちゃんたちと四人でこの店に来てたとき、ルナちゃんの名前、聞いていく男の子がけっこういたんだよ。あの子だれ? って。でも不思議だね。俺からしたら、ミシェルちゃんよりリサちゃんより、ルナちゃんのほうが話しかけやすい気がするのに、みんな、ルナちゃんには声かける勇気がないって」
「……」
「けっこう、遊んでる感じの男の子も多かったんだよ。女の子に声かけるくらいのこと、怯むはずもない男の子も多かった。なのに、ルナちゃんには声を掛けられない。不思議だよね。声くらいかけて見なよ、ルナちゃんは、おとなしそうに見えるけど、気さくな子だよって、俺も励ましてやるんだけど、ダメなんだって。眩しいって、いうんだ」
「眩しい……?」
ルナが想像したのは、ハゲの後頭部が光り輝く姿くらいだった。九庵の姿が浮かんだ。ルナは生憎と髪の毛には恵まれている。
「うん。ルナちゃんは、眩しいんだって。――女神さまみたい、なんだって」
ルナは口をあんぐりと、開けた。
「いやあ、とても口から“女神さま”とは出てこないような男の子の口からそれが出てきたモンだから、俺もマスターも大笑いしたけどね、でも俺は、納得したよ」
「……え?」
「ルナちゃんはね、俺には、女神さまに見える」
ルナは、口をぽっかりしたまま、次には狼狽した。
「デレク、酔ってるんじゃないよね?」と言えたらどんなによかったか。でも今日のルナは、最初から果てしなくぼうっとしていて、冗談として濁せる言葉もなかなか出てこなかった。デレクは、自分が言った気障すぎる言葉に自覚がないのか、優しい目でじっとルナを見つめているものだから、ルナはますますいたたまれなくなった。
「あの……、ほげっ……いや、あの、ハゲ、」
いたたまれなさすぎて、口から出てきたのは、意味不明な言語だった。
ルナの台詞と同時に、やっと気づいたデレクが真っ赤になって、両手を胸の前で振る。
「あ、ああ、ごめん……、口説いてるんじゃなくって、」
「へ? う、うん」
「は、はは……。でもこれじゃ、口説いてるみたいだよね……」
決まり悪げに頭を掻き、「お、俺も、酒持ってくる!」と言って席を立ってくれたので、緊張した空気は一度霧散した。デレクが立ってすぐに、ルナは照れをごまかすために、無意味にバッグを漁り――それに、気づいた。
「――あ」
(ルナちゃんと、二人でゆっくり話せるなんて)
デレクは嬉しかった。氷の塊をグラスに入れ、年代物の、とっておきのウィスキーを注ぐ。
ルナが、好きだ。
二十も年下で、アズラエルという恋人がいて。付き合って欲しいとかそういう気持ちは一切ないのだけれど――そう、付き合いたいというより、どこか憧れに近い。憧れもあるけれど、ただ純粋に、可愛い女の子だなと思う気持ちもある。さっきの言葉は、デレクの気持ちでもあった。
ルナと付き合うとか、彼女が自分の恋人になるとか、ルナがアズラエルと付き合う以前から、考えたこともなかったのだが、でも、とても愛おしいと思う。デレクにも説明のつかない、不思議な感情だった。
(恋のような、そうでもないような)
この気持ちを口にしたところで、だれにも理解およばぬことであることはたしかだ。デレクにだって、明確には分からないのだから。
でも、いつもだれかと一緒のルナが、ひとりでいることは大変に貴重だ。デレクが、客にてんやわんやしていることもない。その貴重な時間を無駄にしたくなくて、デレクは急いで厨房を出た。
デレクが小走りでもどってきた刹那、ルナが勢いよく、何かを差し出してきたので、デレクは後ろにつんのめりそうになった。
「あ、あのね、デレク、これ……!」
ルナが差し出したのは写真だった。古びて、端が黄色く褪せている。
それを見たデレクは、あっという顔をした。
「ルナちゃん――これ――どこで」
「あ」
ルナは、手渡してから、いいわけを考えていないことに気付いて狼狽えた。写真をデレクに渡せとは言われていなかったが、ルナが持っていても、意味がないし、分からない。ずっと忘れていたそれが、バッグに入ったままだったのだ。反射的にルナは、デレクに渡してしまっていた。
これは、ニックのコンビニでもらって来たものだ。デレクと、知らない女の人とニックが、ニックのコンビニを背景に映っている写真。
ルナの夢に天使の姿をしたニックが現れ、コンビニに行ったらもらえと言った写真だ。ルナは言うとおりに、その写真を貰ってきた。でも、その経緯をストレートに告げるには、迷うところだ。不審者扱い間違いなしである。
「ええと――こ、これは……」
「……もしかして、ニックのコンビニで見つけた?」
「あ、う、うん!!」
デレクが、どうとったのかは分からなかったが、ルナは大きく返事をしていた。デレクは、食い入るように写真を見つめ――それから。
「はは……ははは……」
小さな笑いから、少しずつ大きくなっていく笑い声。
「ははっ、ははははは!」
肩を揺らし、デレクは笑った。ふいに、こみあげるものを押さえるように口元に手を当て、顔を拭ったりして。
ルナがその様子に硬直していると、デレクが急にがばっと顔を上げたので、ルナはびくっとした。
「やっぱり、ルナちゃんは、女神さまだね」
「え?」
デレクは「ちょっとごめん」と言って立つと、その写真を持って外へ出ていった。ルナは迷ったが、なんとなく、追いかけてもいいような――そうしたほうがいいような気がして、あとを追った。
店を出ると、ひんやりとした空気が、肌を撫でた。寒くはないが、日中より気温は下がっている。気持ち良いくらいだった。
デレクは、裏口にある、小さな庭でしゃがみ込んでいた。暗闇の中に、ぽっと光が灯る。ライターの火だ。
「デレク……」
ルナが、遠慮がちに声をかけると、デレクが言った。
「ごめんルナちゃん。せっかくもらったけど、――燃やさせてね」
デレクは、さっきの写真に火をつけていたのだった。古く、乾燥した紙は、みるみる、燃えていく。ルナもそばにしゃがんで、その写真が燃え尽きるのを一緒に見守った。
「一緒に映ってる子はね」
デレクが、燃える写真を見つめながらつぶやいた。
「俺が、この宇宙船に乗ったときに一緒に乗った子なんだ。婚約者だった」
「婚約者さん……」
デレクの告白を、ルナは静かに聞いた。
「彼女は、十年以上もつきあっていた恋人で、結婚を約束していたけど、俺は自分のわがままで結婚を遅らせて、愛想を尽かされてしまった。彼女は宇宙船を降りて――そのあと、どうしているかは知らない。幸せな結婚をしていればいいと思う。できれば、彼女のことを一番に考え、愛してくれる人と」
「……」
「俺は、ずいぶん彼女を傷つけた。そのことに気付けたのはよかったけど、そのことに気付くまで――いや、気づいてからも、ずいぶん長い間、足止めを食っていたんだな。彼女のことを、忘れたようでいて、ずっと囚われて」
「……」
「……昨夜、彼女の夢を十年ぶりに見た」
「十年ぶり?」
「うん。……そうしたら、ルナちゃんが、この写真を持ってきてくれるなんてね。……びっくりした」
デレクは、ひどく穏やかな目で火を見つめている。
「なんだか不思議だ――でももう、前に進めってことなのかな。そう思えてきた。さっき、この写真を見たときにさ」
写真は綺麗に消し炭になって、鎮火した。
デレクの中で、彼女との思い出が、静かに燃え尽きていっている気がルナにはした。しかし、それは悪いことではない。デレクの晴れ晴れとした、穏やかな顔がそれを証明していた。
きっと、忘れても、忘れなくても、それが悔やみだけでなく、幸せな思い出になるのなら。
この写真のデレクと女性は、本当に幸せそうに笑っていた。その幸せな記憶の方が、より強く、残るのなら。
ルナには、デレクの言葉だけでは、深い事情は分からなかったけれども、この女性も傷ついたのなら、デレクも傷ついていたはずだ。ルナはそう思った。忘れていたようでいて、十年も囚われていたのなら。
繰り返す転生の中で、ルナだけが傷ついていたのではない。同じくらいアズラエルも傷ついていた。それが分かるから。
どうか、いい思い出だけが残りますように。ルナはそう願った。
「……きっとデレクも、傷ついていたんだね」
ぽつりとそう言うと、デレクが鼻を啜る様子があった。ルナは、男の人が泣いているのを見られるのは嫌だろうなと思って、火を見つめたまま、デレクの手をそっと握った。デレクの手は一瞬強張ったが、ルナに握られたままで、そっと指を握り返してきた。
そのままふたりで、しばらく、その場に座って星空を眺めていた。アズラエルがルナを探しに来て、「何してんだふたりで!」と多大な誤解をしてデレクにすごむまで。




