18話 タキおじちゃんからの電話 1
ルナは、小鳥の声を聞いてベッドから起き上がった。
小鳥の声なんて、この宇宙船に乗ってから聞いたことがなかった。いや――そもそも意識したことがなかったのだろう。
思ったより自分は、毎日の生活がいっぱいいっぱいだったんだな、とルナは思った。
ふいに、ツキヨおばあちゃんとよく遊びに行っていた真月神社の風景が思い起こされて、にわかにホームシックになりかけたが、ぶんぶん頭を振って思考を振り払った。
そうしたら、一気に目が覚めた。
ルナはもう一度、ぷるぷると首を振り、それからお風呂に湯を張って、ゆっくりつかった。
旅行の準備はすでにできている。
pi=poのちこたんを「長期留守モード」の設定にして、ルナは玄関のドアを開けた。
「そいじゃ、行ってきます。ちこたん」
『行ってらっしゃいませ』
ちこたんに見送られて、ルナは家を出た。
「どこにいこうか」
リズンで早めの昼食を取り、パンフレットをひろげた。
アズラエルが帰ってくるまで、持ち金が許すかぎり、できれば長めの旅行を。
試験がどんなものかを知るための旅だ。行く当てもないし、だれに聞いたらいいのかもわからないが、だまって家で待っているよりはいいだろう。
だって、家にひとりでいたら、なんでもかんでも、悪い方に考えそうだったから。
クラウドとミシェルにも一度は会いに行く。ふたりを安心させるために、顔を出してこよう。
(ルーシー&ビアード美術館に、水族館……)
行きたいところも山ほどある。
(アズがいたら、きっと楽しかった)
彼が連れて行ってくれると言ったK07区の高原は、アズラエルが帰ってきてからでもいい。
(でももう、帰ってこないかもしれない)
それは、分からない。アズラエルは、いつ帰るとは言わなかった。
もしかしたら、降りてしまう可能性だってある。
ちょっと気分が沈みかけたルナだったが、とりあえず、中央区役所に行ってみようと思ったルナだった。区役所には、あちこちの観光パンフレットが置いてあるはずだ。
「……ルナちゃん!」
会計を済ませて、バス停まで歩きかけたルナは、聞き覚えのある声に振り返った途端、背の高い影に抱きしめられた。
「!?」
一度きつく抱きしめられ、それから、すぐに離された。高すぎる背を持つ彼がしゃがみこみ、ルナの表情をたしかめるように、その大きな手のひらをルナの頬にすべらせたところで、ようやくルナは正体に気づいた。
「セルゲイさん!?」
「セルゲイ」
彼は言い直し――それから、ルナのほっぺたを両手で包んで――彼は、けっして押しつぶしはしなかった――泣きそうな顔で言った。
「よかった、無事で」
切羽詰まった口調で言った。
あれから、どうしてもルナが心配でしかたがなかったとセルゲイは言った。今朝アパートにいったら留守だったし、ルナに電話をしても出てくれない――と彼は訴えた。
「え?」
ルナはあわてて、バッグから携帯電話を出した。バッグの中でもまれるうち、ボタンを押してしまったのか、マナーモードになっていた。どうりで気づかなかったはずだ。
短時間の間に、ミシェルとクラウド、レイチェルからメールが入っている。
ミシェルは、「心配だから、毎日メールを寄こして」という一文と、レイチェルは「最近会ってないけど元気? どこにいるの」というメールだった。
アズラエルからは何もなかったが、たしかにセルゲイの着信履歴はあった。
「ご、ごめんなさい。気づかなくって」
「いいんだ。無事でよかった。とりあえずは」
セルゲイはそのまま、バス停のベンチに腰掛けた。
「……じゃあ、アズラエルは、アンジェラとちゃんと別れることを決めたんだね?」
「う、うん」
もう、別れてはいるのだ。ルナはそう言い直した。
ルナはなんとか、偽の手紙でおびき出されたことは言わないようにしようと思ったが、セルゲイは話の引き出し方がうまく、結局しゃべってしまった。
「クラウドも、ちゃんと君を守ると約束したのに、そばにいないなんて」
セルゲイから低い声がおどろおどろしく出たので、ルナはあわてて言った。
「クラウドは、あたしもいっしょに連れていくつもりでいたの。その、リゾートホテル? に。でも、あたしがいいっていったの」
それは事実だ。クラウドとミシェルが「いっしょに行こうよ」というのを断って、ここに残ったのはルナ自身の選択だ。
セルゲイは、それを聞いてすこし考えるそぶりを見せたが、結局言った。
「ルナちゃん、うちにおいで」
「えっ」
「私は一人暮らしじゃない。カレンとルームシェアをしている。部屋は広いし、ゲストルームは余っているよ」
「えっえっ」
「ひとりじゃ危険だ」
「でも」
ルナはおそるおそる言った。
「カ、カレンさんが、嫌がるかも?」
「もしルナちゃんが危険な目に遭っていたら、連れて来てもいいかと言ってある。カレンは快諾してくれたよ」
「ええっ」
「心配なんだ。分かってくれ。この宇宙船は安全と言われているけど、L5系ではないんだ。いろんな人が乗っているからね。完璧に安全とは言えないだろう?」
セルゲイのいうこともわかるが、ルナは困った。
「あの、あのね」
ルナはいっしょうけんめいに言った。
「あたし、旅行に行くの」
「ひとりでは行かせられない」
セルゲイは、まるで年の離れた妹を過保護に気遣う、兄のようだった。
「どうしても行きたいというなら、私も行く」
「ほげ!!」
「――ごめん。迷惑、だな」
さすがに我に返ったのか、セルゲイはようやくそう言った。だが、ルナのことを心配する顔つきは、まるで変わっていない。
「め、めめめ、めいわくというか、それは」
「じゃあ、行こう」
セルゲイは片手にウサギ、片手にルナのキャリーケースを持ち、自分の車に直行した。
(このひと、けっこう強引だー!!)
ルナは助手席に連行されながら、心の中だけでそう叫んだ。
セルゲイの高級車が高速道路に入り、K35区に入ったあたりで大きな河川が見えてきた。
「わあ……! おっきな川だ!」
船内で一番大きな河川であるウズメ川。K05区の山のほうが源流だ。K35区は海に近いので、川幅もひろく、河川沿いには公園や遊歩道があった。
遊歩道をランニングしているひとびとや、公園で遊んでいる子どもたちの光景が、ルナの視界を流れていく。
「K27区もいいところだけど、K35区も自然が多いし、いい街だよ」
「ほんとだね」
ルナは、整備された自然豊かな河川敷を眺めながらうなずいた。
セルゲイの車は街中に降り、やがて大きなマンションの地下駐車場に入った。広い駐車場に車を停め、ルナはうながされるまま自動車から出た。キャリーケースは、セルゲイが持ってくれている。
「あの……」
「ついてきて」
セルゲイは、優しくそう言って、エレベーターのほうへルナを誘った。
「おかえりなさいませ」
高層マンションの38階フロア。エレベーターが到着した先は、優雅な音楽が流れるフロント。ホテルみたいだ。
セルゲイが、「ただいま」と返す。ルナはあわてて、セルゲイから離れないように、ぴったり後ろにくっついた。
(たいへんだ。これは、セレブなマンションだ)
果てしなく見える廊下。ドアとドアのあいだが、すさまじく長い。
セルゲイに誘われるままドアの内側に入り、部屋みたいな廊下を抜けると、そこはあまりにも広いリビングだった。中央に、大きなテレビとソファがあり、右手に最新式のキッチン、奥に浴室――三ヶ所に階段があり、二階にはベランダ状の廊下がコの字を描いていた。一階から見えるだけでもドアは四つある。
「カレン! カレン、いる?」
セルゲイが叫んだ。
「おー、いるよお」
二階のドアのひとつが開いて、金髪頭が顔をのぞかせた。部屋を出て、ベランダの手すりから一階をのぞき込み、顔を輝かせた。
「ン? あ! おー!! ルナちゃん、ルナちゃんだ!」
「!?」
ルナは初対面のはずだったが。カレンは、先日、マタドール・カフェでの態度がウソのように、両手をひろげて階段を駆け下りてきた。
「ルナちゃん! だよな?」
「あ、は、はい! ルナです!!」
「そうかしこまらなくていいって。あたしカレン。カレン・A・マッケラン! よろしくね」
そう言って、カレンは満面の笑みでルナの手をにぎり、それから、ぎゅーと抱きしめた。
「もぎゅ!」
「ほえー、ちっちぇー。カワイー♪」
まるでぬいぐるみでも抱きしめるかのように、カレンはルナを持ち上げたまま、ぶんぶん振り回した。
カレンはもちろん背が高かったし、肩幅も広く、ほとんど男と言って差し支えない体格だ。
キリリと美しい容貌は、中性的でもあるが――。
(どっち!?)
一人称は「あたし」だったが?
カレンはルナに向き直った。
「あらためましてはじめまして。てか、マタドール・カフェで会ったよな。あたしはL20の出身で、一応軍人。てか、軍人の家系の出なの」
カレンは、ルナが聞きたかったことを、自分から話した。
「L20は別名“アマゾネスの星”。マッケランは女系軍人の家系でね。L20じゃ、もと女の男とか、女なって男なって女にもどるとか、そういうのはいくらでもいるんだ。ジェンダーの境がかなり崩壊してるほうかも。あんまりでたらめだから、L20じゃどっちに勘違いされても怒るようなヤツはいないから、あまり気にしないで」
ルナは目をぱちくりさせた。簡単に性転換できる時代になった今、めずらしくはないが、L20ではその頻度がずいぶん高いらしい。
「アズラエルがつきあいはじめた女の子っていうから、興味はあったんだ。でも、ごめんな。このあいだ、あいさつしなくて」
マタドール・カフェに来たときだ。
「腹が立ってさ――ジュリがさっさとアズラエルのほうに行っちゃったから」
セルゲイが補足した。
「カレンは、ジュリとつきあっているんだ」
「そうだったの!?」
アズラエルの部屋の前に放置してきてしまったが、無事だろうか。
「そ。ジュリのヤツ、もと娼婦だからって、いいオトコ見ると、すぐそっち行っちゃうんだ――え? 部屋の前に放置? 心配ないよ。いまごろ、家に帰ってんじゃねえか――まあいいや、ジュリのことは。ところで、やっぱいっしょに暮らすの」
カレンが思い出したように、セルゲイに聞いた。
「かまわない?」
「もちろん!」
カレンは笑顔で言った。
「部屋はどこにしよう。河川敷が見える部屋にしようか」
ルナは流されるまま――セルゲイにキャリーケースと一緒に持ち上げられ、部屋に連行された。
まるで、迷子のウサギを一羽、飼うようなあつかいである。
「自由につかって。クリーニングサービスもついてるし。ドアはここ、中から鍵がかけられるから」
カレンが開けたドアの向こうは、ホテルの一室のような、広く豪勢な部屋だ。
ウサギ一羽にはずいぶん巨大なベッドと、ソファに円形のテーブル。だいぶ収納できそうなクローゼットに、現代画家のものらしい抽象画まで飾ってあった。奥に大きな窓があって、河川敷と街並みが見渡せるのだった。
窓から外を見て口を開けているルナに、カレンは言った。
「あたしたちリビングにいるから、声をかけて」
ひとり部屋に取り残されたルナは、落ち着かなげにキョロキョロあたりを見回し、ぽすん、とベッドに腰かけ、「どうしよう……」とつぶやいた。
まさか、こんなことになるとは。
カレンにルームシェアを反対されたら、そのまま旅行に行こうと思っていたルナの目論見は、大きく外れた。
しかたなく、ジニーのバッグをソファに置いたルナは、突然バッグから着信音が響いたので、ウサ耳ごとシャキーン! と立った。




