156話 テセウスの船 Ⅰ 1
「え? じゃあ、ぜんぶハッピーエンドってこと?」
電話口のアンジェリカは、自身でも分かるくらいマヌケな声で聞いていた。それに返ってきたのは、浮かれたルナの声。
「うん! アズがね、ぜんぶなんとかしてくれたの。アズがね、メアリーさんとお話して、ロイド連れてキラのところに行って、それで仲直りしたの! さっきねキラとロイドとアズと四人でリズンでごはん食べて来たよ! キラすっごい元気出たからって、二日酔いのくせにパンぜんぶ食べちゃったの、かごいっぱいのパン! それでね、」
「ちょ、ちょっと待ってルナ」
興奮気味でしゃべりまくるルナをあわてて制し、アンジェリカは聞いた。
「キラって――えっとその、キラって子と、ロイドさん? が仲直りして――、で、その仲を取り持ったのが、アズラエルってわけ?」
「うん! そう! アズなの!!」
「……」
「アズがね、みんなやってくれたの!」
「え、えと、ルナは?」
「あたし? あたしはね、ボケッとお話、聞いてただけだったよ」
あたしは今回、なんにもできなかったなあ、と少しショボンとした声でつぶやくルナの様子から、いっていることは嘘ではなさそうだった。
半分支離滅裂ながらも、キラとロイドの仲互いの原因から、仲直りした経緯まで一時間弱、ルナの話を聞いたアンジェリカは、今回ルナがなにもできなかったというのは、ひかえめな表現ではなく、事実だったのだと認識した。
ルナのいうとおり、行動を起こしたのはアズラエルで、最終的にロイドを動かしたのもアズラエル。ルナはその隣で、まるで蚊帳の外にでもいるかのように皆の話を聞いていただけだったのだと――。
ルナはこの一時間、「アズはすごいの!」の一点張りだった。
ノロケにしか聞こえないその内容は、ノロケではあっても事実。恋人ステキの誇張されたフィルターがかかってはいても、原因と結果だけは動かしようもない事実。
アンジェリカは、そばのZOOカードを、困惑した目で眺めていた。
なぜなら、キラ――「エキセントリックな子ネコ」のカードは、いまだにルナの「月を眺める子ウサギ」のカードの周りをぐるぐる回っているからだ。
助けを求めるSOSのサインを出したまま。
「でもね、キラとロイドが仲直りしてくれてすごくほっとしたよ。だって、キラの運命の相手はぜったいロイドだもん。そうだよね?」
「え? ――う、うん」
「キラもねえ、アンジェに会いたいってゆってたよ。キラはバーベキューパーティーにも来られなかったし、あたしの友達で、アンジェが会ってないのってあとキラとロイドだけだよそういえば」
「う、うん……そうかも」
「結局、ロイドはキラと一緒にK06区のとなりのK16区に住むことにしたの。K16区って親子連れの区画みたいなんだけど、早く結婚して子どもつくれば違和感ないってアズゆってた! でね、結婚式のプランもあらためてふたりで計画し直すんだって。ロイドはちゃんと、介護士の資格を取ってからおばあちゃんのお世話をすることに決めたの。だから、おばあちゃんのところに遊びには行くけど、まえみたいに一緒に住むことはなくなったの。キラはキラで張り切ってるよ! 結婚式のドレス、自分で作るんだって。それで、メアリーさんと生地見に行くんだって。すごいよね、キラって器用で。あたし、ドレスなんか自分で作れないよ」
「……ね、ルナ」
「ン?」
「キラ……さんはさ、じゃあ今のところ元気で――悩みとかは――なさそうなんだ」
ルナが向こうで小首を傾げているのが、アンジェリカには容易に想像できた。「ん? ん?」という小さな疑問符のあと、ルナは「う~ん……。そうだとおもうよ」と言った。
「キラが一番悩んでたっていうか、辛かったことが解決したからさ。今、悩みとかはないとおもう……よ?」
「……」
そうだろう。アンジェリカもそう思う。「エキセントリックな子ネコ」は、「傭兵のライオン」が助けてしまった。
「月を眺める子ウサギ」ではなく。
以前から「裏切られた保育士」――ロイドのカードは、「傭兵のライオン」――アズラエルの周りをぐるぐる旋回し、SOSのサインを発していた。
そして、ZOOカードが示す通り「裏切られた保育士」は「傭兵のライオン」に救われた。その証拠に、「裏切られた保育士」のカードは「介護士のチワワ」に変化している。
動物の名が表れたということは、本来の天命の軌道に乗ったということだ。
人生の初期に大きな傷を負い、人生を見失った人間は、カードにおのれの魂の真の姿が出ない。それが出てきたということは、トラウマであった傷が癒え、新しい人生が始まるということ。
アンジェリカが気になっているのは、チワワの運命の相手である「エキセントリックな子ネコ」だ。
ルナの話を聞いた限りでは、子ネコも一緒に「傭兵のライオン」に救われたとみていい。だが、「エキセントリックな子ネコ」はいまだ「月を眺める子ウサギ」、つまりルナの周りをぐるぐる旋回している。ルナに、助けを求めたままだということだ。
(いったい、どういうこと?)
今回ルナは、まるで自分の出番はなかったと言っていた。ではまだ、すべては終わっていない? 「エキセントリックな子ネコ」は、まだ心の奥底になにかを抱えたままだということなのか。まだ彼女は救われていない?
しかし、この子ネコは、チワワほどおのれの人生に絶望があったわけではない。
父親を早くに亡くしているが、そのことは、トラウマになるような深い傷にはなっていない。人生の流れを見ても、人生が根底から覆ったり、生死を左右する重い事件に関わる象意はない。それに、ちゃんと動物の種類ははじめから出ていた。
動物の、個別の名ではなく――たとえばチワワやドーベルマンのように種類が限定されない――「ネコ」だの「犬」だの、動物の種だけというのは、古い魂の証である。
ネコはネコだというだけで、どのネコにもなれる――つまり、可能性の幅が広いのだ。前世での経験が多い分だけ、彼らは人生の様々な場面の選択において、非常に広い視野を持ち、選択肢も多い。人格的にも懐が広く、余裕のある人間が多い。
しかし動物の名が決められているカードは、きっちりと人生にレールが敷かれている。逆に言えば、選択の幅は狭いということだ。
「介護士のチワワ」と名がつけば、よほどのことがなければ、それ以外の職をこのチワワは選ぶことがないだろう。そして、彼は、チワワのように小さく弱く、愛らしいという外見的特徴を兼ね備えている。
エキセントリックな子ネコは、性格にエキセントリックな部分があるというだけで、チワワの彼ほど人生の軌道が定められてはいない。この子ネコは多趣味で、カードもそれを表すように彩り豊かだ。彼女の人生はあらゆる可能性にあふれている。
彼女はその可能性の海に、いまや浸かっている。毎日が輝くほど楽しいのだろう。そんな状態なら、ZOOカードもキラキラ輝きを発しているものだが――。
薄暗く澱み、元気がなさそうに「月を眺める子ウサギ」のカードの周りを周っているのは、なぜなのだ。
「アンジェ?」
黙りこくってしまったアンジェリカの様子を訝しんで、ルナが名を呼んでくる。アンジェリカはあわてて、ZOOカードから意識を離した。
「ご、ごめんごめん! ちょっと考えごと。それよりさ、旅行ってもう終わったの?」
「え? うーん、一応、今はおうちに帰ってるんだけど、アズがまだ、行きたいところがあるみたいなんだよね」
「そっか。じゃあアパートに帰った時にリズンに顔出してよ。あたしも最近、リズンにいることが多いからさ」
「うん! あのね、アントニオにおみやげ置いてきたから。K06区で売ってる可愛いランプなの。アンジェが好きだといいんだけど。アントニオにあげたぶんはね、さっそくリズンの入り口に飾ってくれたの」
「マジで! ありがとう! 今度行ったとき見てみる!」
「うん、長電話してゴメンね。また会おうね」
「じゃ、リズンでね~」
電話を終え、アンジェリカはZOOカードに向き直った。
やはり、「エキセントリックな子ネコ」のカードは、変わらず「月を眺める子ウサギ」の周囲を周っている。
(いったいどうして?)
アントニオに、相談してみようか。でもきっと彼は、「ほっとけばそのうち解決するよ」と言うにちがいない。人の運命によけいな口出しをしないのが、彼のポリシーだし。
とりあえず、生死に関わる重大事件、というわけではない。
でも、アンジェリカは、気になって気になって、仕方がなかった。気にしないように心掛けてはいるが、友人にかかわる事となると余計に。
(だめだめ……私情挟むと、ちゃんと見れなくなる)
それはかねてより、サルーディーバにもアントニオにも、カザマにも、経験豊かなほかのサルディオーネにも、口を酸っぱくして注意されていたことだ。
――そなたは若い。若くて経験もまだ積まぬうちにサルディオーネとなることは、とてもあやういことだ。人の人生を左右する重き選択を、若き身で背負わねばならぬ。年老いたこの婆でも幾度となく誤るものを、そなたの若き思考では、誤りは九割となろう。誤りばかりの人生になるやもしれぬ。しかも人の生涯を映し出すだけの水盆の占術とちがい、ZOOカードは大局を見、繊細なる判断を要し、じゅうぶんな咀嚼の力が必要となる。ようよう、熟考せよ。熟考した後はその事象から離れよ。ZOOカードばかりにとらわれず、人生の花を楽しむがよろしかろう。――
アンジェリカが尊敬している、水盆の占術をしているサルディオーネに言われた言葉は、マ・アース・ジャ・ハーナの神の言葉としてアンジェリカは受け取った。アンジェリカがサルディオーネになった記念に、彼女は多忙な中に時間を作って、アンジェリカの人生をひととおり占ってくれたのだった。
――そなたはひな形。L03における近代化のひな形ぞ。それゆえ、さまざまな経験をする生涯となろう。ただひとつ、心に留めておくことは、そなたには役割があるということ。マ・アース・ジャ・ハーナの神がそなたにこのZOOカードという占術を託されたのも、その役割のため。であるから、役割が終わればそなたは「ZOOの支配者」ではなくなるやもしれぬ。だからといって、ZOOカードの学びを怠ってはならぬ。そして、ZOOカードにとらわれ過ぎてもならぬ。呑まれてもならぬ。困難な道よ。――
彼女の言葉は、迷った時の道しるべだった。
――熟考せよ。
アンジェリカは何度となく反芻した彼女の言葉を思い出しながら、じーっと「エキセントリックな子ネコ」のカードを眺めていたのだが。
「……あれ?」
はじめて違和に気付いたアンジェリカが、あらためて「介護士のチワワ」のカードを呼び出すと、わずかの間を置いて、「エキセントリックな子ネコ」のカードが別の箱から飛び出した。キラキラ輝いて、真っピンクのオーラをあたりにふりまきながら、チワワと子ネコのカードがイチャイチャ……。
「あれ?」
じゃあ、「月を眺める子ウサギ」の周りを周っているこのカードは?
場所は変わって、L18の心理作戦部B班隊長室。
ここにも、熟考――というより、頭を抱えている男がいた。こちらの悩みは、熟考しても詮無い――というより、考えたってこれ以上なにもわからないという、気の毒な状況だった。
ベン・J・モーリス。
B班隊長が、大昔の錆びたクッキー缶をまえに、暗い表情でうずくまっていた。
この缶がなにかなんて、分かるべくもない。年代と、付着していた土や植物の根は分かったが、この広大なL18のどこに埋められていたかを調べるなんて、それこそ気が遠くなるような作業だった。
『この缶のこと、調べといてね』
エーリヒは軽い口調でベンに一任したが、なにをどう、どのあたりまで調べればいいのか。少なくとも、埋められていた場所まで特定しなければ、エーリヒは納得すまい。その軽くて適当なエーリヒは、L4系のどこかの星に敵情視察に行ったまま帰って来ない。クラウドに相談するのもひとつの手ではあるが、クラウドだってここにはいないのだし、辞職した身なのだから、いちいち旧職場から相談されるのも迷惑だろう。
そう考えるほどには、ベンは常識人で、他人をおもんばかる人間だった。クラウドやエーリヒがベンの立場だったら、そんな甘い遠慮などなくさっさとベンを利用していたにちがいないが。
すなわち、彼らのわがままに振り回されるのは、いつだってベンなのだ。
(はあ~あ……)
ベンは深いため息を吐いて情けなく眉尻を下げ、椅子の上にうずくまったまま、大きな机に突っ伏した。
とたんに鉄製のドアが力強くノックされ、あわててベンは姿勢を正した。仮にもB班隊長となった身である。だらしない態度は部下の鋭気にひびく。そのあたりは、ベンは貴族出身の典型的な軍人だった。心の中で、(少しは休ませてくれよ~)と情けない悲鳴をあげてはいても。
しゃきん、と姿勢を正したベンは、厳かな声で「入れ」と命じた。許可とともに一人の軍人が、ファイルケースをまとめた大きな箱を抱えて入ってきた。腕章のカラー、緑。
情報分析科――E班だ。
アイゼン・C・ヴァスカビル上等兵。
ベンは、入ってきた軍人の容姿と名を頭の中で一致させ、ファイルケースを受け取った。
以前から頼んでいた、L4系の新しいテロリストのリストだろう。ベンは、新しい仕事ができて、ようやくほっとした顔を見せた。すくなくとも、しばらくはあの缶から離れる理由ができた。
「新しいテロリストの詳細です」
「ご苦労」
アイゼン上等兵は、ベンの予想通りの言葉を発して、箱をベンに手渡す。膨大なファイル量に、ベンは、今度はべつのためいきが出そうになったが、菓子の缶があった場所を調べる仕事よりましだ。
それにしても、なんて数だ。ベンが心理作戦部に所属したころは、こんなにテロリストの数が多くはなかった。せいぜいファイル一冊に納まる程度。それがどうだ、いまやそのファイルが十冊。テロリストは、傭兵グループ並みに増えていく一方だ。
(いっそ、ひとつのテロリストにひとつの傭兵グループ当たらせればいいんだ)
軍がまともに機能しない今、けっこうそれいいアイデアじゃないかとベンは思ったが、軽々しく口にしてはいけないことであることは、明白だった。
「テロリストをひとつずつ、傭兵グループに担当させりゃ早いんじゃないですかね」
男も見惚れるような美しい顔を、下品に歪めてニタニタと笑い、アイゼンが言った。ベンは呆気にとられ、それからやっと言った。
「……おまえ、その発言は軍法会議ものだぞ」
傭兵グループの力を認めるような発言は、軍部では厳禁だ。最近、軍部がまともに機能していないせいで、古い考えの軍人たちは、傭兵の実力をみとめる発言にますます神経質になっている。いかようにも、揚げ足を取られかねない。
「へへ……内緒にしてくださいよ」
アイゼンはまたニヤリと笑った。笑い方、キモい。ベンは、ここで初めて、直接この男と口を利いたのははじめてだったと思いついた。この男は、ふだんほとんど口を利かない。
ベンはアイゼンに退出を促すように、もう一度「ご苦労」と言った。
用は済んだのに、出て行かないのはなぜだ。
アイゼンは黙っていれば、それはそれは美しい。その美しい切れ長の流し目で、じっと机の上の缶を凝視している。
「なにを見てるんだ。用が済んだなら早く行け」
ベンは上官の威厳を持って対処したはずなのだが、アイゼンは予想外の口を利いた。




