155話 エキセントリックな子ネコと介護士のチワワ 3
キラの父親は、エルウィンがキラを産んで三年後に病気で死んだ。エルウィンは嫁ぎ先の悪口も、死んだ父親の悪口もいっさい言わなかったが、しあわせな結婚生活でなかったことだけは、キラにも分かる。
キラは父親が病床に臥せっている姿しか覚えていない。エルウィンは、自分の夫のことを、あとになって思い出を語れるほど、知らなかったのだ。
好きとか嫌い、以前に。
彼は病気がちで、エルウィンが妊娠したのもほぼ奇跡。ふたりででかけたのも、新婚旅行でL76の高原に二泊三日の旅行をしただけ。
たった四年の結婚生活は、虚しいほどあっさりと、終わった。
エルウィンは、夫が死んで一年経たないうちに、嫁ぎ先の家を出た。L19にも帰らなかった。L19にもどれば、また実家と関わることになる。
エルウィンは、いつもキラに言っていた。キラは、自由に生きていいんだよと。
協調性は大事だけど、自分を殺してまでだれかに合わせる必要はない。自分の大切な願いを無視してまで、だれかの願いどおりにならなくてもいい。いつも言っていた。
だからキラが学校で浮こうが、ともだちがいなかろうが、いつも励ますだけで、責めたりはしなかった。大変だどうにかしなきゃとおおげさに考えることもなかった。キラも、ルナというともだちがいたから、平気だった。学校で、ひとりもともだちができないときがあっても――。
ルナは、キラがどんな趣味を打ち明けても引かなかったし、いつだって、キラそのものを見てくれた。ロイドもそうだった。いつだって、キラの趣味の話を楽しそうに聞いてくれた。
「ぼくは、趣味らしい趣味ってないから。キラみたいにいっぱい趣味があるって、いいね」
男の人に、そんなことを言われたのは、キラははじめてだった。キラはとってもキレイだと言ってくれたのも、ロイドがはじめてだった。
嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。
趣味がないというロイドと、共通の趣味が欲しくて、キラは探した。一緒に楽しめることを。ふたりでいろんなことをしたかった。カレーが大好きなロイドのために、色んなカレーを食べに行ったり、いっしょに作ったりした。
楽しかった。
ひとりで行動するのは、ずっと平気だったのに。
それが、恐ろしく寂しく思えてしまうほど、楽しかった。
(ロイドに)
キラはテーブルに突っ伏したまま、ぽろぽろと涙を流した。
(ロイドに、会いたいよ……)
ロイドと、一緒に暮らした日々にもどりたい。ひとりじゃ、ぜんぶのことがつまらなくなってしまった。ロイドと一緒にいるなら、すべてのことが楽しかったのに。
(ロイド……)
ロイドのことを考えながら、うつらうつらしかけたときだった。急に玄関のチャイムが鳴って、ビクリ! と身体が揺れて起きた。
「……なに?」
もう、深夜一時に針が届くころだ。こんな時間に宅配便もないだろうし、もしかしたらK37区の友人かもしれない。昼夜かまわず遊びまくっている人間ばかりなので、クラブで飲んだ後、キラのアパートに行こう! という話になって、来たのかもしれない。
でもキラは、今夜はだれにも会いたくなかった。
無視を決め込むキラだったが、チャイムは二、三度、立て続けに鳴った。続いて、ゴン! とドアを蹴る音がして、キラはさすがに怖くなった。
この宇宙船は、危険がないとは言われているが、変質者が乗っていないとはだれもいっていない。それに、飲めば性格の変わる人間は、キラのクラブ仲間にもいる。
キラは恐る恐る、ドアのほうへ行った。パイプいすを携えて。
なんだか、ドアのむこうで言い争っている声が聞こえる。キラはごくりと息をのんだ。部屋にもどって、担当役員であるユミコさんに電話をしようと思ったが、そのまえに、ガチャリとドアノブが回された。鍵はかけてあるはずなのに。
この部屋に備え付けのpi=poは、クローゼットに放置されたまま。
酔っぱらって、ドアガードを掛けることも忘れていた。キラは蒼白になって、パイプいすを握った。
ドアノブが回されて、ドアが開く。キラは決死の覚悟でパイプいすを振りかぶり――振り下ろした。
「きゃあ!」
女の子の悲鳴と、メキッという音。
「あっぶねえ……」
キラが怖々、目を開けると、めのまえにいたのは見覚えのある、ガタイのいい大男だった。
「――え? ア、アズラエル……?」
パイプいすは、頭をかばったアズラエルの腕にぶちあたって、ぐにゃりと曲がっていた。ぜんぜん痛そうに見えないアズラエルは不敵な笑みを浮かべ、変形したパイプいすをガシャンと投げ捨てた。
「防犯としちゃイマイチだが、強気な姿勢は合格だな」
不法侵入者はアズラエルだった。――いや。アズラエルだけではない。その陰からぴょこんと顔を出したのはルナだった。
そして、その後ろには。
「ロイド」
キラは、呆然と、ロイドを見つめた。ロイドは泣きそうな顔はしていたが、キラから目を反らさなかった。
「キ、キラ、こんな遅くにごめんね? 寝てると思ったし――あたしたちも止めたんだよ? ここに来てから合鍵ないの思いだして、そしたらアズラエルがピックとかゆうので鍵開けるって言いだすし、その、」
ルナがアワアワと言い訳をするが、キラは、変質者ではなかったことにほっとして、肩を落とした。
「びっ……びっくりしたよお! もう!」
たしかに、チャイムが鳴ってすぐ出なかった自分も悪いが、こんな深夜の訪問者など、ふだんはないのだ。不審に思うのが当然だ。
「悪かったな。不法侵入しようとしたことは認める」
アズラエルが、全然反省していない顔でそう言った。態度が気にくわなかったキラが、アズラエルに抗議しようとしたが、それを遮るようにロイドが、ぎゅっと服の裾を握り、それでも、はっきりとキラに言った。
「キ、キラ――、入っても、いい?」
「……え?」
「話したいことが、あ、あるんだ」
キラは、いまごろ自分がひどい顔だったことを思いだした。はっとして顔に手をやったが、手に化粧のよごれはついてこない。涙ですっかり流れ落ちてしまったのかもしれなかった。
それにしても、返事がないからって、無理やり入ろうとするなんて――。
とんでもないヤツだ。L18の傭兵ってのは。
キラは、化粧落としも真っ青な自分の涙の量と、なんとなくそのことがおかしくなって、小さく笑った。
きっと、ロイドとルナだけだったら、チャイムを押してキラが出てこなかったら、明日の朝まで待っただろう。アズラエルだけだ、こんな強引に押し入ろうとするのは。
でも、よかった。
今は、今だけは、そのほうがよかった。
だってあたしは、たった今、ロイドにすごく会いたかったんだ。
ロイドは、キラが笑ったことが不思議だったようで、困惑した表情に変わった。
ロイドだ。会いたかった、ロイド。
アズラエルが、連れてきてくれたのだ。
キラは、「いいよ」と言った。そして、アズラエルに尋ねた。
「アズラエルが、連れてきてくれたの?」
アズラエルは、
「今夜、おまえのとこに行くって言ったのはコイツだ」とロイドを小突いた。
キラはロイドを見、それからアズラエルと、ルナを見、「……ありがとう」と小さく言った。
「――あじゅ」
「なんだ」
「あたしにはね――あれは、土下座にしか見えないんだけども」
ロイドが、キラに向かって膝をついて頭を下げていた――もとい、土下座していた。
「まァ、土下座だからな」
腕組みして言うアズラエルのドヤ顔は男前だったが、言っていることはぜんぜん誉められなかった。
「なにがL18の男の必殺技なの!?」
「バカ。甘く見るな。あれ以上にキク方法はねえんだよ。浮気した時とかな――もうしませんって、こう、だな。必死で謝るしかねえときもある」
顔が真剣な分、ルナのツッコミは必須だった。
「……アズは、この必殺技を使ったことがあるような言い方ですけれども」
こちらはさておいて、ロイドはとにかく、キラに頭を下げて謝った。L18の男の必殺技が土下座だとは思わなかったが、もとよりロイドは、キラに謝る気だったのだ。
「ご――ごめんね、キラ」
「……なんで、ロイドが謝るの?」
「ぼくの――ぼくの一番大切なひとが、キラだって、忘れかけていたから」
その言葉に、目を見開いたのはキラだった。
「ぼくはおばあちゃんも、メアリーさんも、パドリーさんも、みんな大切なんだ。もちろん、アズラエルやルナちゃんのことも――。でも、ぼくが一緒に家族を作りたいのは、キラなんだ。それは、ほんとうなんだ。もう、許してもらえないかもしれないけど――」
「ロイド」
「もういちど、プロポーズさせてください。ぼくは、キラと一緒にいたい。キラが大好きです。一番一緒にいたい相手は、キラなんだ。キラと一緒じゃなくちゃ、なにをやっても楽しくない。だから――」
ロイドは、最後まで言わせてもらえなかった。キラが、抱きついてきたからだ。
どうしてロイドは、いつも、あたしが一番欲しい言葉をくれるんだろう――。
「おい、ルゥ、出るぞ」
「え? う、……うん」
キラとロイドの、どっちともつかない涙声と、キラの、「ロイド大好き」の言葉がルナの耳を掠めた。ルナは振り返ったが、アズラエルはルナの腕を引っ張って、外に出した。ルナは、またなんとなくじんわりと涙が出てきて、アズラエルが、外側からまたピックで鍵をかけるのをぼんやり眺めていた。
「アズ、うでだいじょうぶ?」
「あ?」
アズラエルの腕は鉄かなにかでできているのだろうか。痣になってもいなかったし、骨が傷んでもいなかった。パイプいすのほうが致命傷だ。
「あれしきのことで折れるような骨はしてねえ」
アズラエルはアパートの階段をさっさと下りていく。ルナはまた、足の速すぎるボディガードを必死で追い、それからその背中に飛びついた。
「アズ、ありがとう」




