155話 エキセントリックな子ネコと介護士のチワワ 2
“ごめんねロイド。おばあちゃんが悪いんだよ。あの子を、あんなふうに育てたのはあたし。あたしの責任。寂しい思いさせてごめんねロイド。”
ベビーシッターだった“おばあちゃん”は、ぼくの本当のおばあちゃんだった。
ボケたおばあちゃんは、死ぬ間際、ずっとそう言っていた。ボケていたから、ぼくを本当の孫だと錯覚していることもあり得るとお医者さんは言った。ほんとうのことは、調べてみなければわからないと。
ごめんね、ロイド。娘をあんなふうに育てたあたしが悪かった。
ぼくは戸籍を調べた。おばあちゃんの言ったことは本当だった。彼女はぼくの母の母だった。実の母を、ぼくのベビーシッターにし、雇い人扱いしていたあの女を、きっとぼくは憎んだと思う。
でもおばあちゃんは言った。
パパを、お兄ちゃんを、そしてママを憎まないように。
ママを許してほしいとおばあちゃんは何度も言った。ママを許せないということは、そんなママを育てたおばあちゃんを許せないということ。ぼくはそう思わなかったけれど、おばあちゃんが悲しそうな顔をするからぼくはママを許した。
あのひとたちは、ロイドよりずっと寂しい人たち。
おばあちゃんはそう言った。
自分の娘を寂しい人間にしてしまったと自分を責めたおばあちゃん。きっとぼくは、いつかあきらめていた。家族と仲良くなることを。ぼくは何度も彼らに歩み寄ったけれど、結局彼らは、ぼくを視界に入れることは一度もなかったから。
だけどおばあちゃんの願いだったから、ぼくは彼らを憎まないよう、恨まないようにした。それはひどく難しいことだった。きっとあきらめてさえいれば楽だったのだ。彼らから離れ、最初から家族なんていなかったのだと――ぼくの家族はおばあちゃんだけだと思うことができればきっと楽だった。
でも、それはなかなかできなかった。おばあちゃんの願いと、ぼく自身のあきらめの悪いさみしさのために。
ぼくが家を追い出されて初めておばあちゃんは、ぼくに家族となかよくするようにとは、言わなくなった。でも、ぼくが家を追い出されたことが、おばあちゃんの心を痛めておばあちゃんの寿命を縮めたことを、ぼくは知っている。
おばあちゃんは、せめてロイドだけでも幸せになって欲しいと言った。
ロイドの一番欲しいものが手に入って、ロイドがどうか、宇宙一幸せになりますように。
ロイドが幸せになってくれたら、おばあちゃんも許されるような気がする。
地球行き宇宙船のチケットが届いたのは、おばあちゃんが死んだあとだった。
ぼくは、しあわせになれるような気がしていた。おばあちゃんがキラと出会わせてくれた。そう、信じた。キラと出会って、それからもうひとりのおばあちゃんと出会って――。
ジェニファーおばあちゃんを、しあわせにしてあげたかった。ぼくのほんとうのおばあちゃんの分も。だけど、ジェニファーおばあちゃんは、ぼくのことを忘れていく。日に日に、忘れていってしまう。とても怖かった。ずっとそばにいないと、そばにいても、ぼくを忘れてしまうから――。
「……おばあちゃんが、ぼくを忘れちゃうんだ」
ロイドは、震える声でつぶやいた。
「一緒にいないと、ぼくを――」
「母は、あなたがずっと一緒にいることなど望んでいないわ」
キリリとした声のあとに、小さな嗚咽があった。
ルナもアズラエルも、ロイドも、はっとして、そちらを見た。
いつのまにか、メアリーが部屋にいた。メアリーだけではなく、彼女の震える肩を抱いて支える紳士もいた。彼は微笑んでロイドたちのほうを見ていたが、メアリーが、ハンカチをそっと頬に当てると、ゆっくりと彼女から手を離した。
「……ごめんなさい。ノックしたのだけれど、返事がなかったからそのまま入ってしまって」
だれも気づかなかったのだ。彼女はいつからここにいたのか――そして、いつから話を聞いていたのか、だれも分からなかった。
「ロイドちゃん、母は病気です。あなたが介護士なら、そのあたりをちゃんと弁えてもらわなくては」
メアリーは涙を拭って、毅然と言った。
「私の母は、立派な方です。自分が車いす生活で身動きが取れなくても、不安などひとことも口にせず、私がよそへ嫁ぐことをずっと望んでいた。そういうひとです」
メアリーは潤んだ瞳のまま、おそろしく姿勢のいい歩みで、ツカツカとロイドのほうへやってきた。穏やかだったはずの顔は怒っているように見えた。
「名ばかり残っている、貴族の末裔というのは面倒なものなのよ。ましてや男手がなければ。私たち親子も、婚姻と言う名のサギから身を守るのにどれだけ必死だったか。ひとつ間違えば、貴族とは名ばかりの奴隷に成り下がります。名家の名と、祖先が残した土地が欲しくて、金を積んでは私と結婚したがるひとが大勢いたわ。でも、そんな人間と結婚したところで不幸になるだけ。巧言を弄して近づいてくる愚かなひとびとから、私たち親子はなんとか身を守らねばならなかった。父が死んで何十年も、そんな修羅場に身を置いてきた母です。人を見抜く目は、だれにも負けません。キラちゃんはいい子です、あなたもね。母は、あなたたち二人の結婚を、心から祝福しているの。母が“ほんとうに”あなたの家族ならきっとこういうわ」
メアリーはすうっと息を吸い、叫んだ。
「なにをしているの! 若い者がグズグズと! さっさとキラちゃんのもとへ行きなさい! こんな年寄りにかまっていないで!」
その迫力にルナは押され、ロイドも怯えて引いたが、次の瞬間には、ロイドはメアリーに抱きすくめられていた。
「アズラエルさんが私の言いたいことをぜんぶ言ってくださったから、もう、なにも言うことはないのだけれど」
メアリーはロイドを抱きしめたまま、泣いた。
「べつに私たち、家族だってよかったのよ」
びくりと、ロイドがメアリーの胸の中で震えた。
「でも、あなた自身の意志を失ってしまうような家族になら、ならなくてもよかった。あなたが傷ついて、不幸になるような家族になら、なりたくはないわ」
「ロイド君」
紳士――パドリーも、ロイドの頭をポン、と撫でた。
「我々は――家族でないと親しくはなれないのだろうか」
そんなわけはなかった。それは、ロイド自身がよく分かっていることだった。やんでいた涙は、またロイドの目から溢れて、メアリーの胸元を濡らした。
「ごめんなさい」
ロイドはメアリーにしがみついて泣き、メアリーもまた潤んだ目をかくそうともせずにしっかりとロイドを抱きしめた。
「ごめんなさい――ごめんなさい」
泣きむせぶロイドを見て、ルナもいつのまにかもらい泣きしていた。
「なんでおまえまで泣いてんだ?」という、ほんとうに不思議そうな顔をしたアズラエルは、デリカシー皆無であることがルナには分かっているので、足を踏むだけで許してやることにした。
ロイドは泣いた。噎せかえるほど泣いた。
ひとしきり泣いたロイドの頬をメアリーは包み込み、その額にキスをして、まるで自分の息子に言い聞かせるように告げた。
「さあ、ロイド。キラちゃんを迎えに行くのよ」
ロイドは、涙まみれの顔だったが、しっかりとうなずいた。
「そして、キラちゃんを連れて、また私たちに会いに来てちょうだい。それからは、あなたたちふたりの世界よ。あなたたちふたりが計画した、とてもすてきな結婚式に、私たちを招待してちょうだい。バーベキューパーティーだっていいのよ。私たち、どこへだって行くわ。キラちゃんの作った、ウェディングドレスも見てみたいのよ、本当よ」
ロイドはふたたび泣いた。けれど、今度はメアリーの胸に縋ることはしなかった。ロイドはメアリーから離れて鼻をかみ、それから、ルナも驚くほどの落ち着いた声で、言った。
「ぼくは今から、キラに会いに行きます」
今から?
きっとキラのアパートに着くころには明日になっている、と思ったのはルナだけのようだった。だれもロイドを止めなかった。タクシーを呼んできます、と部屋を出ようとしたロイドに、アズラエルが制止の声をかけた。
「俺が連れてく」
ロイドは首を振った。
「ありがとうアズラエル。――でも、ぼく」
「いいから乗って行け」
アズラエルは、車のキーをポケットから出してくるりと回した。
「まだ、おまえに教えることがあるんだ」
「教えること……?」
ロイドはルナと目を見合わせたが、ぜんぜん覚えのないルナはぷるぷると首を振った。アズラエルはニヤリと笑い、
「おまえにL18の男の必殺技を教えてやるよ。女と別れたくねえときにつかう、とっておきをな」
ロイドは、今度はメアリーたちときょとんとした顔を見合わせ、それから満面の笑顔で笑った。
ロイドが、ルナとアズラエルと、キラのアパートに向かっているころ。
キラは、暗闇の中で光るショッキングピンクの小さなテーブルに、突っ伏していた。雑貨店で一目ぼれして買った、折り畳み式のチープなテーブル。カーテンを閉めた真っ暗な室内で、そのテーブルと、キラの腕に貼ってある星形のタトゥだけがぼんやり光っていた。
テーブルの上にも周りにも、缶チューハイの缶が所狭しと散らかっていた。何本飲んだか分からない。冷蔵庫にある分は、飲みきってしまった。ベロンベロンに酔っぱらうには、まだ少し足りないが、コンビニに買いに行く気も、スーパーに買いに行く気も、キラにはなかった。
涙でぐちゃぐちゃの顔は、化粧も溶け崩れて、直す気もなかったし、さすがにこの顔でコンビニには行けない。ぼんやりと、クマの形の目覚まし時計をみると、深夜を回っていた。
眠れない。でも、もう涙も出ない。
メアリーの屋敷を飛び出し、自分のアパートにもどってきてから連日、今までの鬱憤を晴らすように友達と遊びまくった。K37区にも泊まり込みで行ったし、クラブで一晩中踊り明かして、カラオケでオールして、買い物もいっぱいして、レイチェルやシナモンとも遊んだ。
ジルベールは、キラたちが結婚式に来なかったことに腹を立てていて、最初はすこし冷たかったけれど、平謝りに謝ったら許してくれた。エドワードは、笑って、気にしていないと言ってくれた。
レイチェルとシナモンにももちろん謝って、気のいいふたりはすぐ許してくれた。がっかりはしたし、ドタキャンも腹が立ったけど、いろいろ事情があったなら仕方がないと。
ロイドと別れたことを告げたら、励ましてもくれた。ふたりは、本当に素敵な友人だとキラは思った。ルナやミシェルが旅行中でいないこともあって、毎日のようにレイチェルやシナモンとマタドール・カフェやリズンに行ったが、胸にぽっかりと空いた穴が埋まらない。
元気を絞り出すようにはしゃいで、遊んではみるものの、夜になると抜け殻みたいになる。
ついにキラは今日、遊ぶ元気もなくなって、家に引きこもった。
よく考えたら、このアパートで、たったひとりで夜を過ごすのは、これがはじめてだ。
宇宙船に乗り始めのころは、夜遊びしないルナがかならずアパートにいたし、キラ自身がK37区に行きっぱなしで、帰らないこともあった。ロイドという恋人ができてからは、ずっと彼と一緒にいた。
ロイドと別れたというショックは、遊んで元気になれば消えると思っていた。いままでだってそうだった。長続きしなかった恋愛ばかりだったが、別れたあとは、いつでもこうやって遊びまくって、そのうち忘れていた。
でも、今回ばかりはちがったようだ。
ロイドと別れてから、意外なことに、一度も泣いていないことにキラは気づいた。
いっそ、大泣きすればすっきりするかも。
そう考えたキラは、今夜はひとりで思いっきり泣くことにした。カクテルや缶チューハイを買い込んで部屋に籠り、片っ端から飲んで飲みまくって、いつしか泣いていた。
でも、酔えない。泣いても泣いても、寂しさが募っていくばかりだ。
やがて、飲む酒もなくなって、キラはぺたっとテーブルに突っ伏した。
(ママに……会いたいなあ……)
宇宙船に乗って、はじめてのホームシックだった。
(ママなら、なんていうんだろう)
ロイドと、別れたと言ったら。
きっと、ママなら慰めてくれて、「もっとイイ男がいるよ! だからキラは自分に自信を持って、自分が好きなように生きな!」と励ましてくれるにちがいないのだ。
ママなら、きっとそう言う。
男と別れたくらいでクヨクヨすんな! そのとおりだ。きっと――ロイドでなかったら、キラはこんなに落ち込まなかった。男なんて、星の数ほどいるんだ。
キラのママも、恋愛よりもっと楽しいことがある、と考えるタイプだった。
キラだってそうだった。
――ロイドと、出会うまでは。
キラのママ、エルウィンは、べつにキラのパパのことが好きではなかった――と聞けば、キラは複雑な思いになるが、納得した覚えがある。
キラとエルウィンは似ている。多趣味なところと、自由を愛するところ。だからキラは、ママがパパのことを好きではなかった、というのは、それだけ聞けば複雑な思いになるが、その背景を聞けば、妙に納得いったのだった。
ママは――エルウィンはL19、軍事惑星群の生まれだった。
キラはL77生まれで、ずっとその土地で育ってきた。エルウィンはあまり実家に帰りたがらなかったし、懐古趣味もなかった。軍事惑星のこともあまり話さなかったから、キラはよく知らない。
だからといって、エルウィンは軍事惑星が嫌だった、というわけではない。
彼女はむしろ、L19にいたかったのだ。軍人生活が嫌ではなかった――むしろ、彼女にとってはL77の生活より楽だった。軍人としての給料は安定していたし、顔や体に模様があったとしても、それを咎められることは一切なかった。軍事惑星では、タトゥなどめずらしくもない。けれどL77では『不良』の証みたいなもので、エルウィンはL77に来てからいくつかのタトゥを消したし、タトゥひとつのせいで仕事が見つからなかった時期もある。
エルウィンの親は、L19で不動産業をしていて、軍人の家系ではなかった。だから、娘には、軍人の家に嫁いで欲しくはなかった。L18ほどではないが、L19だって、将校の家には、傭兵や一般市民との差別は厳然としてあったし、軍人の仕事は生命の危機に晒されることもある。だからエルウィンの親は、娘に軍人をやめてほしかった。
親としても、恐ろしいほどの努力をして、遠い、あまりにも遠い伝手を頼ってL77の住民との見合いにこぎ着けた。
L7系なら、軍や戦争とは、まったく縁のない世界で生きていける。
親の思いはエルウィンも分かったし、エルウィンは、親の必死な努力を無下にはできなかった。
多趣味で、ナリが多少派手でも、気立ても容姿も悪くなかったエルウィンは、すぐ先方に気に入られて結婚した。エルウィンの夫――キラの父親は、エルウィンより十三歳も年上の、病弱なサラリーマンだった。




