153話 パンクしていたエキセントリックな子ネコ Ⅰ 2
今朝のことだった。
アズラエルは室内風呂ではなく、大浴場のほうで汗を流した。
椿の宿で温泉に入ってからというもの、アズラエルは大きな風呂が大好きになっていた。
もともと体が大きい彼は、狭い風呂では手足を縮めて入るしかなく、風呂は嫌いだった。そんな狭苦しい思いをして湯船に浸かるより、シャワーのほうが楽だ。それがどうだ。ここの大浴場は広くて、水深も深い。まるでプールだ。手足をゆっくり伸ばせる広い風呂は最高だった。
椿の宿は好きではないが、ここの「温泉」は、アズラエルは好きになった。
その大好きな大風呂に、心行くまで浸かった帰りに、アズラエルはフロントで呼び止められた。ルナに電話が来ているのだという。
またクラウドだったらぶち殺す、と一瞬だけ凶悪な顔になりかけたが、相手は年配の女だと言うので、アズラエルの殺意はしぼんだ。
年配の女? 心当たりはない。
まさかルナの母親か。
ルナの周りに、年配の女といわれる女は、この宇宙船内では役員くらいしかいない。役員からの電話なら、役員だと宿の者は告げるだろう。
アズラエルは、殺意がしぼんだ上に、せっかく流してきたのにまた冷や汗をかきながら、咳払いをして、「俺が代わりに」と言った。
ルナの母親、だったらどうする? 挨拶――なんて挨拶をしたらいい。
心臓をドキドキさせながら受話器を受け取ったアズラエルの懸念は、完全に無駄だった。
『あの――ルナ、さん?』
アズラエルが「代わりました」というまえに、向こうから声が聞こえた――ルナを、さん付けするということは、母親ではない。アズラエルは固まり、それからバカな勘違いをした自分に呆れながら、ひとつ息を吐いて返事をした。
そもそも、母親だったら、ルナの携帯かpi=poに連絡が来るだろう。
「いいえ。ルナは今、電話に出られないので。俺はアズラエルといいます」
『あら――まあ。――あなたがアズラエルさん? 傭兵の』
相手は、ルナだけではなく、アズラエルのことも知っているらしい。だが、アズラエルは、声の主に覚えはなかった。
『ああ、そうね。私は知っていても、私たちのことは、あなた、知らないわね。ごめんなさい、いつもロイドちゃんから聞いているものだから。はじめての気がしなくて。――私はメアリー・J・ラムコフ。ロイドちゃんには、私の母がお世話になっています』
アズラエルは、そこではじめて、電話の相手がだれか悟った。
「ロイドの」
『ええ。突然こんなお電話をして、申し訳ありません。Pi=poのほうへお電話しても留守電でしたし、ミシェルさんという方のほうへお電話したら、椿の宿――のほうだと伺ったものですから。ダメもとで。よかったわ、いらして』
「ロイドが、どうかしたんですか」
『ロイドちゃんがどうかしたというより――なにからご説明したらいいかしら――今日は、ロイドちゃんには黙ってお電話しています。キラちゃんのお友達のご連絡先は――ほんとうに申し訳ないですけれど、勝手に結婚式の招待状を見て。……もう、この招待状も無駄になってしまうかもしれないけれど』
「……」
『ルナさんとアズラエルさんは、ご旅行に出かけてらっしゃるってお聞きしましたし、多分、ご存じないと思うんですけれども、キラちゃんが、そちらのほうへ――ええ、K27区のほうに帰られてるって、ご存知でしたか』
「……いいえ」
アズラエルは、なんとなく用件を悟って、危うくうんざりしたため息をつきそうになった。
『あの――こんなこと――私が言うのもおかしいのですけど。ロイドちゃんとキラちゃんが、その――』
「別れたんですか」
予兆はあった。ロイドからの相談を聞いていたアズラエルには。
『ええ。そうなの』
電話の主は、深いため息をひとつ。
『知ってらしたのね。たぶん、ご存じないと思っていたの。キラちゃんは、私どもの区画に来てから、ほとんどそちらへ顔を出さなかったでしょう。あの子たちの問題ですからね――私たちが口を出すことでは、ほんとうはないのだけれども――でも、原因が私の母にあるとなれば、このまま黙ってもいられなくて』
ロイドとキラが別れた。
アズラエルは、なんとなく予感はしていた。ロイドの相談を聞いていた時から。
たしかに、ロイドが世話をしているばあさんにも原因はあるかもしれないが、ほんとうの原因は、そこにはない。ロイドのトラウマだ。
ロイド自身の考え方が変わらなければ、こればかりはどうしようもないとアズラエルは思う。アズラエルはロイドに、おまえがほんとうに欲しいものはなんなんだと、聞いた。自分で考えてみろと突き放したのが、この結果か。
(やっぱり、俺の質問を勘違いしていやがったな、アイツ)
曖昧な聞き方をした俺にも責任があるか、とアズラエルは反省した。
『……なにか、あなた、お聞きになっていて?』
「まあ――ずっとロイドの話を聞いてましたから。だいたいの事情は」
『ロイドちゃんは、まだキラちゃんを愛しています。それはまちがいないと思いますよ。でも、キラちゃんは、私たちからの電話には出てくれないのよ。無理もないわ』
「ロイドのほうから、別れを?」
『どちらが先と言うことは、ないと思います。でも、キラちゃんは出ていってしまったの。私たちにお礼の手紙をくれて、だまってそのまま。ロイドちゃんは追わなかったし、私たちは――私と、夫ですけれど――キラちゃんを追うように、ロイドちゃんには勧めたの。でも、追わなかった。――私は何回か電話したのだけれど、留守電のままで』
「ロイドは、キラが出て行ってから電話はしたんですか」
『いいえ。――そのお話、長くなりますけれども、今してよろしいのかしら』
「……」
ダメだ。ダメに決まっている。人の痴話ゲンカに首を突っ込む趣味はねえ。聞いたら終わりだ。
アズラエルは一瞬の逡巡の後に、「よろしかったら」と言った。
「K06区は旅行の予定にも入れてました。どうせなら、直接話せませんか。俺も、別れた経緯は知らねえんで、話を聞きたい。ひさしぶりにロイドの顔も見てェし。あさってか明々後日、そっちに向かいます。着いたら電話します。そちらのご予定は?」
『あら――まあ』
電話口の声が、ほっとした空気に変わったのが分かった。
『来てくださるの? 助かりますわ。私――あなたがたがよろしかったら、椿の宿へ伺おうと思ってましたの』
「いや、俺たちがそちらへ。電話番号を、教えてほしいんですが」
『喜んでお教えしますわ』
メアリーの声は弾んでいた。相談できる相手ができて、ほっとしたのだろう。電話を切った後、アズラエルは肩全体でため息をはき、こう思った。
ちくしょう、俺にもルナのおせっかいが移った。
「おせっかいじゃないもの」ルナはぷんすかと叫んだ。「おせっかいじゃないの!」
「おせっかいだよ。痴話ゲンカに首突っ込むなんざ、おせっかい焼きかヒマ人のすることだ。くだらねえ」
「くだらなくないの! ともだちのことなんだよ!」
「だから、話ぐらい聞いてやろうって言ってンだ。知らんふりをするわけじゃねえ。でも、俺がなにを言おうが、ロイドが別れたきゃ別れればいい。おまえがどう思ってるかは知らねえが、俺は、キラとロイドの仲を取り持つ気はねえぞ。そこは勘違いするな」
「……」
「今まで長ったらしい愚痴を聞いてきた分、最後まで面倒は見てやる。だけど、別れる別れねえは、ロイドとキラが決めることだ。俺には関係ねえ」
「……。うん……」
アズラエルは少し驚いて、ちらりとルナを盗み見た。いつもならここまで言えば、「アズは冷たい」とルナは言うはず。めずらしくこのウサギは肯定した。悲しげな顔はしているのだが。
「――うん。でもね、でもね、でも、キラにはね、きっと、ロイドは運命の相手だったと思うの……」
ルナはまるで、この別れ話が自分のことのように、しゅんとした顔をした。
「キラは、きっと、ロイドのこと嫌いになったわけじゃないと思う」
「……おまえは、キラからなにも聞いてねえのか」
「うん。キラはね――あんまり、相談とかするコじゃないから」
ルナは後悔していた。キラは昔から、辛いことがあってもそれをルナに愚痴ることはほとんどなかったし、辛いことがあっても落ち込んで暗くなるより、趣味に没頭して元気になるほうを選ぶ子だった。だけど。
(もうちょっとちゃんと、話くらいすればよかった……)
キラの元気がなかったときに、「どうかしたの?」とちゃんと聞けばよかった。いろいろあったのは事実だけれど、もっと早く、キラのところへ――K06区へ、遊びに行っていたらよかった。そうしたら、アズラエルみたいに、話くらい聞いてあげられたかもしれないのだ。
今ごろ後悔しても、遅いのだけれど。
ルナはしばらくしゅんとしていたが、車がK05区を抜け、山林に入るころには、元にもどっていた。窓の外を見て、ずっとなにかを考えている節があったが、アズラエルは特に話しかけなかったし、ルナもアズラエルに話しかけることはなかった。
ルナの中でも、気持ちがまとまったのだろう、やがてウサギは、「ふん!」と小さな気合を入れてぷっくりしていた頬を元にもどした。
長い山道をドライブし、ニックのいるコンビニが近くなったころ、ルナは「アズ、トイレ」と言った。その声は、落ち込んでもいなかったし、暗くなってもいなかった。
「ああ、じゃあ、ニックのとこ寄るか」
アズラエルは、ニックのことが苦手ではないが、一度立ち寄れば最低三十分は捕まる。それは避けたかった。できれば今は寄らないで先を急ぎたかったが、トイレに行きたいのでは仕方ない。
「ルゥ、長居は……「長居はできないんだよね」とルナはひとりでうなずき、「からあげとたらこのおにぎり買っていい?」と上目づかいで聞いてきた。ルナの上目づかいに負けるわけではない。決してない。可愛いことは可愛いが、可愛いくないわけはないが――そんな目で俺を見るな。
「ああ……。おにぎりは一個だけだぞ」
アズラエルは敗北した。ルナは、今食えば、確実に夕飯はいらないと言い出すに決まっている。なんて甘いんだ、俺は。
「きょうはおなかがすいてるよ! だからちゃんと夕ご飯も食べる!」
コンビニの駐車場に止めたとたんに、ルナはそう宣言してててててーっと走って行った。
「どうだかな……」
夕飯はピザだ。アズラエルの中でそれは決定した。
「ニックこんにちは!」と叫んで、ルナはトイレへ駈け込んでいく。あれは限界だったな、とアズラエルは小さく笑いながら、コンビニへ入った。
「よう。元気か」
相変わらず客はひとりもいなかったが、ニックは奥から出てきて満面の笑顔を見せた。
「僕はいつでも元気だよ! あれ? ルナちゃんは?」
「ルナなら、トイレ借りてるよ。おまえに声をかけたんだが、聞こえなかったか」
「ごめん。聞こえなかったみたい。奥でテレビ見てたんだ。今日、君たちが最初の客でさ! たぶん、最後の客かも!」
それでいいのか。コンビニの店長が。
アズラエルはルナのために、たらこのおにぎりひとつと、からあげと、それからペットボトルのお茶と、自分のためにコーヒーとガムをかごに入れ、レジに置いた。
「どうしたの? ルート変更したの? また、こっちに寄ってくれるとは思わなかったよ!」
「え?」
アズラエルは、袋に入れてもらったからあげを行儀悪く摘まんでから、聞いた。
「ルート変更?」
「だって君、この旅行はぐるっと北側を回っていくって、言ってたじゃないか」
そういえば、コンビニに遊びに来た時に、そんな話もしたか。
「予定変更したんだよ。ジャマばっか入りやがって、予定が台無しだ」
「それは大変だったね。今は、どこへ向かってるの」
「K11区だ。――ここから、どれくらいかかる?」
「ええ!? K11区へ行くの?」
「ああ」
「ここに来てからいうのもなんだけど――K11区に行くなら――椿の宿にいたんでしょ? K05区からなら、たぶんこっち回ってくより、K02区に入って、K03区行って南下して、中央区からK14区行って、WEST ROADに入らないほうが、早く着くよ。ほら」
ニックは、コンビニの入り口に置いてある地図を持ってきて教えてくれた。
「……マジかよ」
「ね? この山道、けっこう長いからさ。ここからだとK12区に入ってからK01――中央都市通って、だろ。一見近いんだけど、距離はこっちのが長いんだ」
ニックは、デジタルの船内地図も出してきて、アズラエルに見せた。椿の宿からK11区までの距離が、赤と緑、ふたつの線で表示されている。
推奨ルート「距離」。ニックの言うとおり、この山道のルートでないほうが、距離は短かった。
「気づかなかった」
「でもまあ、距離のちがいって言ってもあまり大差ないよ。五キロくらいの差だし。どっちにしろ、中央区やK12区あたりで、渋滞に巻き込まれなきゃね。深夜までに着くかなあ」
「渋滞だと?」
「うん。通勤ラッシュがあると思う。今日週末だからね」
「通勤って……」
「ああ、そうか。一般船客は知らないよね。週末は、宇宙船を操縦している作業員たちの入れ替えがあるから。“地下のモグラ”だったひとたちが地上に顔を出して、地上にいたひとが地下に潜るんだ」
「作業員ね……」
「君、途中のガソリンスタンドか役所で、カーナビのソフトもらえばいいよ。この宇宙船内の地図が入ったソフト。自家用車持ってきてる人には無料で配ってるからさ」
「面倒くさがって、くれるといったモンをもらわなかったんだ。途中で寄った時に、もらってみるよ」
「そうしなよ」
アズラエルがからあげを摘まみながらニックと話しているうちに、ルナが現れた。
「ニック、こんにちは!」
「ルナちゃんこんにちは! 元気してた?」
「とっても元気! 今日はニックのから揚げ買いに来ました!」
「そりゃ嬉しいな――「ニック、からあげもうひと袋くれ」
アズラエルは、買った唐揚げをすっかり食べてしまっていたのであった。
やはり一時間のロス。ニックとルナは、しゃべり出したら止まらなかった。
アズラエルは尋常でないスピードで車を飛ばし――山道を抜け、一気にK12区へ躍り出た。
「うわあ、きれいだね~!」
暗くなり始めたころで、夜景とまではいかなかったが、川を横切る長い橋は、派手なネオンと水面に反射するオブジェの美しさが目玉の、デート・スポットでもある。
K12区はL7系の都市に比較的近い景観で、ルナがよく来る区画だ。宇宙船の中央区画、K01区に隣接していて、L5系の都市をモデルにしたK11区ほど最先端ではないが、ビル群が連なり、交通渋滞があるほど、人、人、人で賑わっている。
今いる街中は、区画では南側。もっと北西のほうへ行くと、ルナたちがよく行くショッピングセンターがある。
「あたし、はじめて夜にK12区に来たよ! ニコル・ロスカーナ・ブリッジ、素敵だったね」
橋の上からの夜景も素晴らしいが、橋を降りた後、遠目にみえる橋の外観も、ネオンが消えたり光ったり、派手なショーのようで、ルナを喜ばせた。ルナの歓声を聞きながら、ようやく、二人きりの旅行らしくなってきたなあと、アズラエルも感慨深かった。
ここまで来るのに、いったい何日かかっただろう。
「K11区に行くつもりだったがな」
アズラエルは車内時計で時間をたしかめ、
「今日はK12区で泊まって、明日K06区に行くぞ。……K11区とK19区は、面倒事がすんでからだな」
「やった! 今日はK12区でお泊りだ!」
「はしゃぎすぎるなよ、ルゥ」
「はしゃいじゃうよ! やっと旅行って気がしてきたね! アズ」
ルナは窓の外の夜景を、幸せそうに眺めた。




