17話 ひとりぼっちのウサギ 1
アズラエルは昨夜、一緒に夕飯も食べずに行ってしまった。
「しばらく帰れなくなるが、ケリをつけたらもどってくる」
と言い残して。
(アズ、行っちゃった)
翌日になり、クラウドとミシェルも帰ってしまった部屋で、ルナはコーヒーを淹れた。
きのうのケーキは、クラウドとミシェルと食べたが、まだふたつ残っている。ルナはもそもそと、一個のケーキを皿に置いた。
にぎやかだった部屋が、とても静かに感じる。
アズラエルと同居していた。不思議だった。まだ、たった十日間なのに、ずっとむかしから、いっしょに暮らしていたような居心地のよさだった。彼がいなくなった部屋は、せまいはずなのに、ずいぶん広く感じた。
これからしばらくは、ほんとうのひとり暮らし。
クリスマスにひとりきりという現実は、現実になりそうだ。リゾートチケットは二週間分らしいが、みんな、いつごろ帰ってくるとは言わなかった。
リサとミシェルも、クリスマスはふたりで過ごすのだろうし、キラとロイドは、例のおばあさん家族と過ごすのが定例になってしまっているし、隣のレイチェルたちも夫婦で――。
(もし、アズがいないあいだに、このあいだのジルドさんみたいな人が来たら?)
不安に支配されそうになって、ルナはあわてて首を振った。ソファの上で、丸まって考えた。
(もし、アズがアンジェラさんのところから帰ってこなくなって、このままひとりだったら)
でもアズは、帰ってくるって、いった。
ルナはもう一度、ぷるぷるとウサ耳ごと頭を振った。
ひとりでホームシックになっている場合ではない。
ルナはなんのために宇宙船に乗ったのだ。
地球に行くためではないのか。
ルナはソファから跳ね起きて、すねをぶつけて悶絶した。
「バカだな。狭い部屋で暴れるからだ」
「ムギャー!!!!!」
なんだかアズラエルの声が聞こえた気がして、ルナは成敗するように、ケーキのフォークを突き刺して、もりもり食べた。
ルナはもふもふと、ウサギのようにケーキを食べ、考えた。
そもそも、男女カップルでないと試験に合格できないというのは、ただの噂だ。
でも、一枚のチケットでふたり乗船できるわけで。ということは、二人一組で試験を受けることになる? しかし、男女でなくてはいけないという条件はない。
そうだ。
パンフレットには地球到達した人のひとこと感想文が、巻末に載っている。
何年か前に地球についたのは、おじいさんと孫の二人組だった。孫は男の子。
ほかにも、人数が多めだったり、ひとりだったりする年もある。
ちゃんとパンフレットに書かれているのに、どうして男女ペアでないとダメだという噂が出たのだろう。
ルナは、パンフレットを持ち出してきた。
パンフレットのどこかに、ヒントが書いてあったりしないだろうか。男女カップルではなくても、試験に合格できる方法が?
ルナは熱心に読んだが、やはり試験に関することはなにひとつ書かれていない。
いつのまにか昼を過ぎていた。
ルナは、パンフレットをジニーのバッグに押し込み、リズンに向かった。今日は屋外のテーブルではなく室内に入った。
奥の席に陣取ってランチを注文すると、最初の目的はどこへやら――ルナは船内の地図をながめ、あっちに行きたい、こっちに行きたいと付箋でしるしをつけはじめた。
「こんにちは。……今日はひとりなの?」
ルナに声をかけてきたのは、見覚えのある男の子だった。ミシェルと二人でいるときに話しかけてきた双子の片割れ。
「あっ」
ルナはあわてて顔を上げた。
彼は、相棒と、それから女の子二人と、別のテーブルに座っている。向こうで、ルナに話しかけてきた方の男の子が手を振っていた。ルナも振り返す。
ルナはがひらめいたのは、突然だ。
「あ、あのね」
「なに?」
「あの――?」
「アルフレッドだよ。アルって呼んで」
「アルはこのツアー一回目? 二回目とか――さんかいめとかいうひと、知らない?」
彼は、ぽかんとした顔をした。そして、
「ああ、あの、ナターシャが――ぼくの彼女なんだけど。たしか二回目だって」
(ウソ)
ルナは、ダメもとで聞いてみたのだが。
「ほ、ほんと? あの、もしよかったら、聞きたいことがあって。邪魔じゃなかったら、ちょっとだけ話聞かせてもらえないかな」
「いいよって――ぼくじゃないけど。ちょっと待ってて」
彼は快く返事をしてくれた。そして仲間のところへもどって、なにか話している。もうひとりの男の子が、「マジ?」と叫ぶ声が聞こえた。
アルが手招きする。ルナは、コーヒーを持って、そっちのテーブルに混ざらせてもらった。
「ル、ルナですはじめまして。ごめんなさい、突然」
「いーよいーよ、つか、自己紹介してなかったよね。おれケヴィン」
ケヴィン。こいつか!
イマリの言い方では、ルナが振ったみたいに言われていたが、声をかけられただけだ。
以前、遊園地のチケットでナンパしてきたのがケヴィンだ。いま、声をかけてくれたのはアルフレッド。おとなしそうなアルフレッドの彼女はナタリアで、ナターシャは愛称。
ケヴィンの彼女はブレアといった。ナタリアとブレアは双子の姉妹らしい。
ブレアはどちらかというと、おとなしそうなナタリアに反して、化粧はキラみたいにくっきりと濃く、きつい顔立ちだった――そう、ルナをきつい目でにらんでいる。なんで来たのと言わんばかりの顔で、歓迎されていないのはルナにもわかる。
「あ、あのごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあるだけだから……」
ルナがそう言って謝ると、ブレア以外の三人が同時にため息を吐いた。
「ブレア、ここにいるのがイヤなら、帰っていいけど」
ずいぶんはっきりしたケヴィンの言葉に、ルナのほうがびっくりした。ブレアの顔がゆがむ。
「ここ、でお茶したら、今日はK12区にいくって、」
今にも泣きそうだ。
「べつにルナちゃんを買い物に誘ったわけじゃないよ」
アルフレッドが、あわてて、なだめるように言った。
「ルナちゃんは、すこし聞きたいことがあるだけだ。そんな少しの時間も待てないの」
ブレアは目に涙をいっぱいためて口をつぐんだ。
ナタリアは顔色を悪くし、アルフレッドとケヴィンは、ルナにもはっきりわかるほどのうんざり顔で、肩を落とした。
なんともいえない空気が、席を満たす。
(まずいことになってしまっただろうか)
ルナがやはり席を立とうかと思ったとき、ケヴィンがさりげなく聞いてきた。
「このあいだ一緒にいた、コワモテなひととつきあってるの」
「えっ」
「あのひと、昨日の夜ラガーのバーにいたって。イマリさんが言ってた。派手な女の人ふたりとすっごい抱き合ったりキスしたりしてたって。二階ラブホじゃん、あそこ。そっちあがってったみたい!」
胸を張るようにして一気にしゃべったブレアに、今度は、ケヴィンが舌打ちでもしそうな顔をし、アルフレッドがブレアをにらんだ。柔らかい雰囲気の彼にしては、はっきりときつい目で――。
やっぱり、アズラエルには、ほかに彼女がいたんだ。アンジェラのところに行ったと思っていたのに。
途端に疑いの気持ちがもたげてきたところへ、ケヴィンの平坦な声が被さった。
「昨夜はおれたちとK12区でメシ食ったこと、もう忘れてんの」
昨夜はこの四人で食事がてら、K12区のレストランとクラブに行った。
つまり、ラガーには行っていない。
ケヴィンが呆れ顔で言い――アルフレッドは思わずぶっと吹き出し、ナタリアは自分が言われたかのように真っ赤になった。
ブレアは瞬間沸騰したように叫んだ。
「イマ、イマ、イ、イマリさんがいっていたのよっ!!」
「ブレアはウソつくのが趣味だから、信じなくていいよ」
ケヴィンの言葉に、ブレアはふたたびものすごい顔をした。
(もう、どうでもよい)
ルナは高い天井を仰いだ。
それにしてもアズラエルはよっぽど悪目立ちしたのか、この子にも顔を知られているらしい。
(あ、そっか、このあいだアズとここでお昼食べたときに、ケヴィンたちと一緒にいたんだから、見てるか)
ブレアは、イマリたちと仲がいいのだろうか。五人組の中にこの顔はいなかった。しかしイマリもすごい。ラガーのバーにまで、アズラエルを追いかけて行ったのか。
ラガーはチンピラばかりが集まる、あまり治安のよくない地区のバーで、アズラエルたちの行きつけだが、アズラエルもクラウドも、ルナたちを連れていくと言ったことはない。
リサも別のともだちと行ったことがあるが、あそこは危なくてダメだと言っていた。
(そもそも、アズとは付き合っていませんし?)
ルナは開き直って言った。
「アズの趣味は女漁りだからそういうこともあるかもね」
「やめときなよ。そういうやつは。ルナちゃんが傷つくだけだよ」
ケヴィンが憤慨したように言ったが、今度はブレアが泣きそうな声で言った。
「だからって、もうこっち付き合ってるんだから、邪魔しないでよね」
ルナは、ものすごい目でにらまれている意味が、ようやく分かったのだった。
「そういうつもりじゃなくって。あたし、ちょっとナタリアさんに聞きたいことがあって。たいしたことじゃないんだけ、」
「ねえさんはアルと付き合ってるんだからね」
「……ええと」
ルナはさすがに帰ろうと思って、席を立った。ケヴィンがもう言葉もないといった様子でブレアから顔をそらし、アルフレッドが「ごめん」と目だけでルナに謝るそぶりをした。
だが、思いもかけずルナを引き留めたのは、ナタリアのほうだった。
「あの」
ルナはびっくりして振り返った。ものすごい小さな声だったので、聞き逃すところだった。
「聞きたいことって、なに?」
ナタリアの言葉に、今度はブレアが驚いて固まっていた。ルナはすばやく聞いた。早く聞いて、早く退散しよう。
「ナタリアさん、このツアー二度目だって聞いたけど、ほんと」
「うん」
ナタリアは、存在まで消え入りそうな声でうなずいた。
「あたしもナターシャも二回目よ。なにか文句あるの!」
ブレアが姉をかばうように怒鳴った。怒鳴らなくても。
「ブレア!」
ケヴィンがさすがに怒った様子で名を呼ぶと、また泣きそうな顔で黙る。
なんなんだこのひとは。
ルナはやっぱり帰ろうと思ったが、ナタリアが泣きそうな目でルナを見つめているので、仕方なく聞いた。
「あの、このツアーって、男女ひと、」
ここまで言いかけたときだった。
「ああ、いたいたー」
現在進行形で、酒でも飲んでいるような声がした。
ルナは思わず目を見張った。マタドール・カフェで会った、アズラエルにしなだれかかったアフロヘアの女性だ。足もとが覚束なく、ふらついている。
とんでもなく酔っ払っていた。
このあいだは、まだまともに目の焦点があっていた気がする。
ふわふわの髪が、なんだかさらに爆発している。ほとんどブラとかわらないトップスに、ショートパンツ。
露出した服装にケヴィンが「わお」と歓声を上げてブレアにつねられた。
そのアフロが、ふらふらとルナのところにやってくる。
ルナが呆然としていると、「るーなーちゃーん、だっけか」と完全に酔っぱらった口調でルナのほっぺたをべしべし叩きながら言った。
「アズラエル昨日なんだかすっごい激しくってさー。もう参った参った。で、起きれなくてさー。遅れちゃったごめえん」
(昨日ラブホにいっしょに行ったのってこの人?)
やっぱり、付き合っていたのか。
(いやまて。さっきのブレアさんの言葉は嘘?)
もう、なにがなんだか分からなくなってきた。
「あっ、まちがった! アズラエルじゃなくロミオ! ん? だれだっけ? ジル……ビル? なんかよくわからなくなってきた……」
ルナは、まともに聞くのをやめた。
「あ、そう! そうだ、これ、アズラエルがあー、これルナちゃんに持ってけってー。いったからあー。持って来たのー。あ、これコーヒー? いただきまあす」
勝手にルナのコーヒーを持ってごくごくと飲みほす。
ハラハラと、ルナのコーヒーカップに紙切れが落ちた。
「カレン今日ーコーヒーいれてくんなかったんだよねー」
ルナは目を座らせたままだ。
「1日のひ、パーティーするからルナちゃんも呼ぶってー。もういっぱいちょーだい」
勝手にサーバーからコーヒーをつぐ。これはケヴィンたちの注文であって、ルナのではない。
ブレアも口を開けて女を見ている。どうしたさっきまで威勢は。今こそ何か怒鳴って追い返してくれればいいのに。
アフロは勝手なことを言った。
「あのさ、どっちが先にアズラエルをオトせるか勝負しない? で、勝った方がアズラエルのパートナー♪」
四人が唖然としているのが分かる。ルナも唖然としたかった――するかわりに、ためいきをついた。
とりあえず、コーヒーに浸かった紙きれを引きずり上げ、読んだ。
そこには。
「中央区役所で待ち合わせ アズラエル」
ルナはどきりとした。
1日のパーティー? とは、なにも関係のない文章だ。アズラエルの字と思えばそう思えるような気もするし、彼の字かどうか、ルナは判別できなかった。アズラエルの字を、ルナはまだ見たことがない。
それを考えると、アズラエルとは知り合って間もないということを実感した。
でも、パーティー?
アズは、アンジェラさんとのことにけじめをつけるためにいなくなったのでは?
「あ、あの、アズは、これをどこで、その?」
「ええ? アズラエル――んん? アズラエルなら、たぶん自分のおうちにいるよ?」
おそらく、K36区のマンションだ。ルナはあわてて立った。
「ありがとう!」
「うん」
女は、分かったような分からないような顔だ。酔っぱらいにも限度がある。ふらふらの足取りでもどって行ったが、ふいに帰ってきた。
「あのさあー、あたし、タクシー待たせてるんだけどお、お金ないのお。ちょっと貸してえ」
ルナに向かって手を出す。ルナは今度こそ唖然とした。
「アズラエルに返しとくからあ。お願いー」
ルナは女の背を押してタクシーの方まで行った。タクシーに押し込み、お金を払うと、その場から立ち去ろうとしたが。
どこまでですか? というタクシー運転手の言葉に、女は「アズラエルの部屋」と酔っぱらった声で繰り返すのみだ。これはpi=poの運転手だ。正確な目的地を告げるまで、動かない。
ルナは肩をすくめ、ちょっと待っててくださいと運転手にいい、席にもどった。
「ごめんね。あの……とりあえずあの人を送っていきます」
話は途中だったのだ。ケヴィンたちは残念そうな顔をし、ブレアはせいせいしたという顔をした。
意外なことに、消え入りそうなナタリアが、最後に声をかけてきた。
「あの……」
「えっ」
「あたし、よくここに来るの。なんでも教えるから、声をかけて……」
ルナは満面の笑顔で言った。
「うん! ありがとう!」




