142話 ZOO・コンペティション Ⅰ 1
『ルーシー』
だれかの声がした。
『愛してるんだ。おまえのためならなんでもするよ』
だれの声?
ルナはその声にも、言葉にも聞き覚えがあった。そう、ちゃんと、アズラエルの口から。
とてもとても、そんなことをいいそうにないアズラエルの口から。
いつだっただろう。あれはいつだったか。
キャメルのスーツを着たアズラエル。……ありえない。でも彼はそれを着ていた。
“この”アズラエルは、ダークカラーのスーツばかりなのに。ああ、そしてそう、彼は葉巻を好んで吸っていた。いつも冷酷な目をして、まるでゴミ箱に紙を丸めて投げるように人を殺す。
そんな彼が、ルナを目にする時だけはとろけるような顔で言う。
『愛してるんだ。おまえのためならなんでもするよ』
そう言って、ルナの足に口づける。ヒールを脱がせて、コートを脱がせてベッドへ運ぶ。
コトがすむと、名残惜しく髪にキスして、つけたばかりの下着をまた剥がそうとする。
『なあ、たまには朝までいろよ』
“わたし”が愛人にしていたのは、マフィアの彼だけではなかった。
ごくたまに、“彼”が切に望んで、もう仕様のない顔をして、わたしにひざまずいてねだればその身体を与えてやった。わたしの片腕に。
もうひとりの片腕は、芸術が恋人だったから、わたしの身体を求めはしなかった。今思えば、彼が一番まともだったのね。
人妻になって長く、もう夫も抱かないような、手入れもしていないくたびれた身体をあそこまで欲しがる彼らは、訳が分からない。あの忠実でときたま奴隷根性になりさがる片腕は、わたしの夫はわたしが大切過ぎてわたしを抱かないのだと言っていた。そうね、あの人の愛人は、わたしの若いころにそっくりな女ばかり。
ちゃんちゃらおかしい。みんな狂ってるわ。
マフィアの男も、わたしの可愛らしい奴隷の片腕も、わたしの夫も。
わたしは終わらせたかった。ぜんぶ終わらせたかった。わたしは自立したかったの。わたしを見ずに、若い女ばかりにうつつを抜かす夫から。経営の天才だかなんだか知らないけれど、わたしが会社を立ち上げてがんばったのは、単にあの夫から自立したかっただけ。だからがんばった。いつひとりになっても平気なように。
美術品、美術品と、夢中になれるものがあって、キラキラと目を輝かせるあの子が可愛かったから、応援してあげた。一生に一度くらい、無償でだれかになにかをしてあげたかったの。夫に抱いてもらえないわたしには、子どももいなかったから。
歴史に残るような、宇宙船の美術館を創設させてあげた。彼はしあわせだったんだから、よかったじゃない。
もういいじゃない。会社は畳んで、わたしは田舎に引っ込んで、それこそ晩年は、絵でもかいてのんびり暮らそうかしら。そう思っていたの。夫はわたしの晩年の慰謝料くらいは面倒見てくれるでしょうよ。
慰謝料の十倍以上は稼いで、あなたの会社にだって貢献したわ。
贅沢なんていらないの。
わたしがほしかったのは嫉妬とか、独占欲とか、そんな過剰な感情のない世界。
もういいじゃない。あたしを解放して。訳の分からないあなたがたの独占欲から、わたしを解放して。
わたしが妻だったのに、いつもしらない女が妻気取りで夫の隣を独占していた。わたしは知らない女に見下げられ、夫に愛されない中年女として彼女らの優越を見過ごさなければならなかった。その苦しみから解放して。
あなたは有能だった。だからわたしの片腕にしてあげたのに、まるで脅すようにわたしの身体を求めるのはやめて。抱かせてくれなければ会社を辞める、と必死な顔で言うのはやめて。でももう会社は畳むから、あなたとの縁もこれまで。わたしを解放して。
正体を隠してわたしに近づいて、夫に抱かれないわたしの身体を慰めて、わたしの会社にまで干渉してくるのはやめて。ただの愛人だったはずなのに、あなたは余計なことをした。わたしのライバル社の幹部を殺した。それがなに? 勝手にそんなことをしておいて、もう後もどりはできないって、なんて勝手なことを言うの。わたしはそんなことあなたに頼んだ覚えはない。あなたの身勝手さからわたしを解放して。
わたしが別れを切り出したら、彼らは豹変した。
夫はおかしい。素直に別れてくれればいいのに、ダメだと言い出して聞かなかった。
どうして? 今までとなんら変わりない。もう、とっくから一緒に暮らしてもいない。あなたとわたしの愛の巣だったはずの家には、別の女が妻気取りであなたの帰りを待っているのを知っている。
じゃあ、別れなくてもいいから田舎町に家を用意して、と言ったらそれもダメだと言われた。会社は畳んでいいから、家にもどれと言い出す始末。あなたが家に住まわせている女はどうすると言ったら追い出すと言った。
ちゃんちゃらおかしい。この男はおかしい。でもわたしはもどる気はない。
わたしが会社をたたんで、夫と別れて田舎に引っ込むと言ったら、奴隷の片腕は結婚してくれと言い出した。コイツも頭がおかしい。
この男の有能さがあれば、どんな企業でも今の地位にはなれる。わたしは経営の天才と言われたが、彼の助力もあってのことだ。なのに、そういった地位も皆捨てて、わたしと田舎町に引っ込むと?
おまえはバカかと言ったら殴られた。奴隷の彼は言った。俺を置いて行かないで下さいと足に縋って泣きつく。ドイツもコイツもわたしの足がそんなに好きか。そんなに足にしがみつかなくても、殴られた衝撃で頭がブレて動けない。
そんなわたしを嬉しそうに犯すコイツは、末期のバカだ。
だけれど、コイツ以上にバカがいた。
田舎に引っ込むからと別れを告げたら、マフィアの彼は、『じゃあ死ねよ』と簡単に言った。『俺のモノをやめるってンならおまえは死ね』と言われた。
わたしはあなたのモノになった覚えはない。わたしはわたしだ。逃げたけれどダメだった。彼はいつものように私を抱いて、それから愛おしそうに私を抱きしめ、それからピストルの引き金を引いた。
わたしのマンションで起こった出来事だったから、わたしが死んだあと片腕の彼が来て、驚いて泣いて、自殺した。わたしは死んでいたから、彼の大きな体が重いなんて思わなかったわ。
嗚呼、わたしの一生ったら、頭のおかしな男たちに振り回されただけの一生だったのね。
なんてわびしくて、滑稽なの。
「――ルゥ?」
アズラエルが、しかめっ面でルナを覗き込んでいた。
「ムキャー!!!!!」
ルナが突如として飛び起きたので、頭と頭が激突した。
「ムギャッ!!」
「うおっ!?」
ガツンとたいそういい音がして、アズラエルとルナは頭を押さえてうずくまる。
おかげで、陰鬱な夢の内容も吹っ飛んでしまった。
「またアズに殺された夢を見たよ!!」
ルナは八つ当たりのように絶叫した。
「そうだな。いまはおまえに殺意がある……!」
よほど痛かったのか、アズラエルは涙目でルナを睨んだ。
「前を見て起きろ!」
「アズがそのへんにいるのが悪いのです!」
「うなされてるから、起こしてやろうとしただけじゃねえか!!」
「そうです! あたしは起きただけなのです!!」
まったく嚙み合わない口ゲンカで、今日も始まってしまった。
この旅行は、失敗だったのではなかろうか。アズラエルはそう思い始めていた。
(……ふうん。なるほどね……)
船内で一番大きな図書館、サンダリオ図書館のとあるテーブルは、セルゲイひとりに独占されていた。
テーブルに乗っているものは、セルゲイの長い腕と、紙コップのホットコーヒー、ノートパソコン。
そして、膨大な量の、「マ・アース・ジャ・ハーナの神話」。
子ども向けの絵本から、視力に悪そうな字面の分厚い本まで、多種多様にわたる。
セルゲイは、朝から本と向き合っていたが、なにもすべての本を隅から隅まで読んでいたわけではない。そんなことは、クラウドでなければ不可能だ。セルゲイが隅から隅まで読んだのは、すべての本の中の、「東の名君」の話だけ。
(やっぱり、どの本も同じ内容ってことは少ない。同じ話でも、微妙に内容がちがう)
正史と呼ばれるもの、口伝、民話、創作、とんち話。
たとえば同じ「東の名君」の話でも、オチが違ったり、登場人物が増えていたりする。教訓的な話に作り替えられているものもあれば、グロテスクな内容もある。
神話の有名な話などは、映画になることもある。そういったときに書店に並ぶ、解説本の類も、セルゲイは読んだ。
その結論としては。
(これが一番、真実に近い話か)
セルゲイは、だいたい高校生ぐらいの年の子が読書感想文の題材にでも選びそうな、ちょうどいい厚さの、字もそう細かくない本を手に取った。
話の並びも選定も、セルゲイが昔読んだマ・アース・ジャ・ハーナの神話の本と似ている。
出版社も、「児童ぶんがく館」という、どこにでもありそうな名前だ。もう一度開いて、さっき読んだ「東の名君」の話を斜め読みする。
自分が昔読んだ「東の名君」の話と違うところは、登場人物がひとり増えていていることろと、終わり方だ。
「東の名君」は、だいたい前半が彼の武勇伝で、彼が国を治めて、名君と呼ばれるまでの話。その長い話の後半に、急に空気を換えるように妾の話が出てくる。
部下の騎士と通じ、殺された女。
(なるほど。こっちの方が、少しは納得がいく)
セルゲイは、ひとりでうなずいた。
セルゲイが昔読んだ本のほうは、考えなしで世間知らずの妾が、ひさしぶりに自分の部屋へやってきた王に、「わたしを騎士さんの妻にしてください」ということから、妾の浮気が発覚し、妾も騎士も殺害される。
だが、こちらの本は、もうひとり、暗躍する登場人物がいるのだ。
殺された妾の美しさを恨めしく思っていた、マリーという女。
彼女は、王が正妻を迎えたあとも、王の寵愛を得たくて後宮に残り、彼女が、妾と騎士の密通を、王に告げ口したという展開になっている。このマリーという女は、妾が死に、騎士が処刑されたあとも、王宮を引っ掻き回す大悪女となる。
(そうだよなあ……)
いくら、この殺された妾が分別なしで愚かだとしても、いつまでも子どもではない。王様が正妻から離れて、この妾のもとへ来るまで三年は経っている。この王の正妻、とくに二番目の正妻は賢妻として書かれている。そんなひとが、妹のように思っていた妾を、いつまでも愚かなままにしておくだろうか。高貴なものとしての振る舞いを教えたはずだ。
密通のことだって、彼女の孤独を知っているから、見ないふりをしてかばっていたに違いない。
妾は、正妻と王が子作りに励んでいるあいだ、キレ者の王をだまして、騎士と密通した。
おろかな妾ひとりでそれが為せるはずがなく。
妾だって、いくら考えなしでも、「わたしを騎士さんへ嫁がせてください」などと、直接王へ告げるわけがない。
(直接言うくらいバカなら、とっくの昔に言っているはずだ)
この、マリーという女が暗躍した。妾と騎士の密通を、王様に告げ口したというほうが、よほど意味が分かる。
まあ、神話というものは、意味不明の箇所が多いことはたしかだから、なんでも理屈を通せるわけじゃないことはわかっているが。
(たぶん――俺が、この二番目の正妻。そして、グレンがこの「東の名君」。アズラエルが騎士――そして)
セルゲイは、深いため息を吐いた。
(この、愚かで可愛い妾が、ルナちゃんだ――)
急に、携帯電話が震えた。
ひとが大勢いるせいで、完全には静かにならない館内でも、その振動は目立った。
(電話? だれだろう。まさか、エレナちゃんになにか?)
セルゲイは、着信の相手の名も見ずに、あわてて立った。コーヒーを持ち、ノートパソコンを畳んで。
大量の本は、このままテーブルに置いておけば、自動的に書棚へ返送される。
大急ぎで図書館のロビーへ出る。ここに来れば、電話も可能だ。
「――クラウド?」
息を切らせるほど急いだわりには――なんと、電話の相手はクラウドだった。
『君、今時間あるかい』
「ないってこともないけど、どうしたの」
ハンシックでの事件以来だ。いったい、どうしたのだろう。
『今から、K05区まで来れる?』
「ええ!? 今から?」
『うん』
セルゲイは時間をたしかめた。午後一時半。
「夜になっちゃうよ」
『いいんだ。なるべく――というか、絶対来てくれ。“みんな”椿の宿にいる』
「え? ちょっ、クラウド!」
セルゲイの抗議の声もむなしく、電話は切られた。
「――ああ。もう」
カレンが作って待っていてくれるはずのピロシキは、味わえそうにない。セルゲイは嘆息しながら、今度はカレンの電話番号を呼びだした。
夕飯は、いらないと言うために。




