141話 リハビリ夢の中 Ⅷ ~神話の絵を描いた少女~
なんて、なんて素晴らしい絵なのでしょう。
その絵を見たひとたちは、うっとりと絵画に見惚れ、魂を奪われたように立ち尽くしました。
だれもがその絵を欲しがりました。家に置いておきたがりました。あるいは片時も手放さず、その絵を眺めていたいと思いました。
L系惑星群に人類が移住して百年。
政府は、地球行きのツアーを目的とした、豪華な宇宙船をつくることに決めました。
まるで小さな惑星のようで、人が永住することも可能な宇宙船を。
その素晴らしい宇宙船には、ありとあらゆるものの中で、最高のものが集められます。
最高に住みやすい環境、地球にそっくりな気候、風土、建物、文化、芸術、エンターテイメント、美食――彼らが計画したのは、楽園です。
最高のスタッフがそろい、望めば叶わないことはありません。
L系惑星群の、どの星の住民も入れる、夢のような宇宙船――。
ここには「最高」がそろうのです。もちろん美術館も、最高の作品をそろえなければなりません。
美術館創設の全権を任されたのは、八つ頭の龍という、金色の龍さんです。彼は一流の審美眼の持ち主。
そして彼を雇っているパトロンは、宇宙船の株主となったピンク色のウサギさんです。ピンク色のウサギさんは、美しいマダム。パンダさんという、大富豪の奥さんです。
ウサギさんは、ただの大富豪の妻ではありませんでした。彼女には才能がありました。おそるべき商才が。
彼女の経営の才能は、もっぱら美術品のほうへ発揮されました。
その中でも大きく金が動くのは、宝石の輸入に関わる商売でした。宝石のほかに、彼女の事業は絵画、彫刻、美術品の数々のオークション。それらの才能ある作家たちを育てる学校の経営にまで及びます。彼女の有能な右腕が八つ頭の龍さん、左腕が銀色のトラさんと言ったところでしょうか。
ウサギさんはとても有能な社長でしたが、それでも彼女の企業は夫の傘下にありました。パンダさんとしては、彼女が自分のもとを離れて独立することだけは、絶対に許しませんでした。また、彼女もそれでいいと思っていました。夫は彼女の事業に口出しはしませんでしたし、無理に独立をせずとも、楽しく商売はやれる。
パンダさんの一風変わった独占欲には、ウサギさんもすこし困りましたが、パンダさんにもキリンさんという愛人がいましたし、ピンクのウサギさんにも愛人がいました。
だけれども、その愛人はすこし危険な男です。マフィアのボスなのです。大きくてワイルドな、褐色のライオンさん。ウサギさんの経営には欠かせない男です。
夫や銀色のトラさんは、ライオンさんがウサギさんの愛人だということにいい顔をしませんでしたが、それでも彼は、ウサギさんの商売に必要です。
ウサギさんは、ライオンさんを掌で転がしているつもりでいました。彼の恐ろしさも知らずに。
さて。
いよいよ、夢のような地球行き宇宙船が完成しました。
あとは、中の街を作り上げねばなりません。美術館建設の総監督に任された八つ頭の龍さんは、美術館の建設にくわえ、真砂名神社の建設のアドバイザーにも指名されました。
八つ頭の龍さんは、ウサギ社長に、しばらくは地球行き宇宙船の事業に全力を傾けることを許され、そのための資金もいくらかかってもいいと言われたので、大感激でした。これほど嬉しいことはありません。
八つ頭の龍さんは、自分が理想としていた美術館をつくることを目的としていました。
そしてそれは、三年の歳月をかけてできあがりました。
L系惑星群最高の建築家、彫刻家、デザイナーを集め、外観を設計し、美術館の中も、地球から運び込んだ、貴重な絵画や芸術品で埋め尽くしました。
素晴らしい出来上がりです。
この美術館の出来上がりには、ウサギ社長も感嘆しましたし、だれもが八つ頭の龍をほめたたえました。何日も、新聞やテレビはこの美術館の話題で持ちきり。定期的に行われる宇宙船内の公開日には、その美術館を見るためだけにL系惑星群から何億という人間が集まり、結局公開日を延長したうえ、抽選にしなければなりませんでした。
それもこれも、ウサギ社長が、八つ頭の龍のわがままを聞いて、たくさんのお金を投資してくれたおかげです。
ウサギ社長に絶賛され、公開日も終わり、自分の理想郷をひとり、歩いていた八つ頭の龍。
――なぜだか突然、おそろしい虚しさに襲われました。
大事業を為した後だからだろうか。自分は、疲れているのだろうか。たしかに寝る間も惜しんでこの大事業に着手したけれども。
ちっとも、この輝かしいまでの美術品たちが、美しく思えないのです。
ちっとも、心を打たないのです。
以前は見るだけで胸がドキドキしていた美術品たち。名作と呼ばれる美術品を見ても、心が動かされないのです。あれほどの情熱はどこへいってしまったのだろう。
「あなた、疲れたのね。この三年間、一生懸命だったもの」
ウサギ社長は、そう八つ頭の龍に言いました。
八つ頭の龍は、長い長いおやすみをもらいました。本当は、銀色のトラさんに止められましたけれど。
なぜなら、ウサギ社長が地球行き宇宙船の事業に投資しすぎて、会社は赤字続き。これを立て直すために、八つ頭の龍が必要だったのです。
「心配ないわ。あたしが立て直すから」
八つ頭の龍は、留まるべきだったのです。ウサギ社長は、会社の立て直しのためにますますマフィアの裏取引に呑まれていたのです。底なし沼にずぶずぶと。
もう、後もどりできないところまで――。
八つ頭の龍は、L78の田舎町で、のんびりと身を休めていました。ですが、なかなか失ってしまった感動がもどりません。田舎町にいるあいだも、近くの美術館を見に行ったり、自分が所持していた名作と呼ばれる絵画を眺めていました。
でも、やはり、ちっとも素晴らしいと思えないのです。
ある日、彼は野道を散歩していました。農道のど真ん中で、彼は嗅ぎ慣れたにおいに立ち止まります。テレビン油のにおい。――油絵の匂い。
こんな農家ばかりの町に、油絵が?
信じられないとは思いながら、彼は匂いをたどって、一つの農家にたどり着きました。
開け放たれた大きな小屋。牛を飼っています。その奥に、キャンバスが無造作に置かれていました。外へ出ると、そこにもキャンバスが。
八つ頭の龍は立ち尽くしました。その絵に見惚れて。
見ているだけで、涙が出てくるほどの感動を覚えました。
絵画は、ぜんぶマ・アース・ジャ・ハーナの神話をモチーフに描かれています。
――いったい、この絵はだれが――。
一枚一枚の絵を、涙をこぼしながら見つめていた八つ頭の龍の前に、ひとりの女性が現れました。黒いネコさんです。
「この絵は君が?」
八つ頭の龍は尋ねました。黒いネコさんは、しばらくためらったのち、うなずきました。
「なんてことだ……! この絵は名作だ……!」
感極まって八つ頭の龍は叫びました。
この絵を、真砂名神社に奉納しよう。あの美術館へ? いやいや! そんなことはもったいない! これは神に捧げるべき名作だ!
彼は決めました。八つ頭の龍は黒いネコの両手を握って言いました。
「君はぜひとも、一緒に来たまえ!」
黒いネコは、はにかみながらうなずきます。八つ頭の龍は、業者を呼んできて、絵画を宝石でも扱うように慎重に車に乗せ、黒いネコさんも一緒に連れて行くことにしました。
「君はひとり暮らしかね?」
黒ネコさんはうなずきます。この家には、黒ネコさん以外の気配はありませんでしたし、ひとり暮らしならば、かまうことはありません。黒ネコさんも、とくに荷物はいらないようでした。
彼と黒いネコさんは、その日のうちに、L55へ立ちました。
黒いネコは、実はひとり暮らしではなかったのです。
彼女には妹がいました。青いネコさんという妹が。そして、年老いて、歩くこともしゃべることもままならない父親の、眼鏡をかけたライオンさんが。
あの絵は、実は妹が描いたものでした。
昔から、妹はなにをやっても器用で、とくに絵はいつもみんなに褒められていました。黒ネコさんも絵を描きます。でも、やっぱり褒められるのは妹の方でした。だから妹の青いネコを恨めしく思っていましたし、黒いネコさんはこの家を、この田舎町を出ていきたいと常々思っていました。
毎日ボケてしまった父親の介護をし、近所の農家の手伝いでもらうわずかな給金。一日のほとんどを費やして働いて得た給金は、父親の治療のために消えていきます。動けない父親の介護のせいで、結婚すらできないのです。
そんな生活に、黒ネコさんは嫌気がさしていました。
ほんのちょっと、魔が差したのでした。
新しい生活をはじめたい黒ネコさんには、ちょっとの嘘でよかったのでした。
あの絵を、自分が描いたものだと嘘をつく。ちょっとの嘘。
そのちょっとの嘘で、黒ネコさんの生活は激変しました。
L55という、L系惑星群一の大都市で、彼女は大富豪になったのです。
L78の育ちの田舎娘は、宇宙船内の真砂名神社に納められる、聖なる絵画の作者となり、マスコミや、美術品業界からも一目置かれる存在になりました。もともと顔だちの悪くなかった彼女は、八つ頭の龍の妻の座さえ勝ち取りました。
人生最高の栄誉と、賞賛。
そしてなかなか叶わなかった結婚も、彼女の手に入りました。
夫である八つ頭の龍は、偉大なる作品群を生み出す彼女の、美しい手に口づけて、何度も言いました。
「次回作はいつできるのかね。我が妻よ」
「そうね。きっといつか」
このニュースがL78の田舎町に届いたのは、一ヶ月もたってからでした。青いネコは驚きました。父親を車いすに乗せて散歩をしている間に、自分の描いた絵と、姉が失踪していたのですから。
姉が、わたしの描いた絵を自分の描いた絵だと嘘をつき、八つ頭の龍の妻になり、大富豪になっている。
でも青いネコは、それで姉が幸せならいいと思いました。彼女はずいぶん前から、ここを出ていきたいと何度も言っていましたし。姉がいなくなったのはさみしいけれど、自分には父親がいる。そして、絵を描く楽しみがある。
わたしは、名誉なんていらない。絵を楽しくかければそれでいいの。
そう微笑んで、青いネコは筆をとります。絵の続きを描くために――。
姉の幸せを願っていた青いネコでしたが、黒ネコは決して幸せではありませんでした。
幸せだったのはつかの間です。
彼女は、あの絵の続きを描くことはできません。マ・アース・ジャ・ハーナの神話の絵は、まだまだ描いていない話がたくさんあります。世の人々も、宇宙船のスタッフも、八つ頭の龍も、もちろん次回作を楽しみにしています。
だいじょうぶ。わたしだって、それなりには描ける。素人ではないのだと、何度も言い聞かせて絵筆を取ろうとします。でも、手が震えてしまって描けないのでした。
自分が偽物だとばれたら、この生活は一変します。
黒ネコは、かつての生活にもどりたくありませんでした。
彼女は次第に、不安定になっていきます。八つ頭の龍は、田舎町から出て来たばかりの娘が、周囲から過剰に期待されては、描けるものも描けなくなるだろうと考え、「あわてなくていいのだよ」と妻を慈しみました。
二年後。
黒いネコは、たったひとりで自分の故郷L78にもどり、自分の生家の前に立っていました。
黒いネコは追い詰められていました。自分では、もうあの絵を描くことはできない。妹が、新しい絵を描いているはずだ。盗んででも、持って行かなけりゃ……。
ですが、なんということでしょう。
そこで行われていたのは葬式です。
――妹の。
とっくに、父親は死んでいました。ひとりになってしまった青いネコは、寂しさのあまり、自分も病気になって死んでしまったのです。
彼女の葬式には、彼女の絵が飾られていました。
マ・アース・ジャ・ハーナの神話の絵。喉から手が出るほど欲しかった続きの絵。
黒いネコさんは、その絵も、葬式も見ていられなくて街を飛び出し、川に飛び込んで死んでしまいました。
八つ頭の龍も、妻が失踪したことに心を割いている暇はありませんでした。
大恩あるウサギ社長が死んでしまったのです。
大変なスキャンダルでした。部下の銀色のトラさんと心中か!? と新聞に書かれるところを、あわてて差し止めました。
違います。
実際は、ウサギ社長が、あのマフィアのライオンと手を切ろうと思ったけれど許されず、殺されてしまったのです。彼女を庇った銀色のトラさんともども。心中に見せかけた手口でした。
パンダさんは、彼女の天才的な経営手腕を信じすぎ、守ってやれなかったことを心底悔みました。どうして彼女は、自分に助けを求めなかったのだろう。パンダさんは嘆きます。
八つ頭の龍も悲しみましたが、彼らには会社が残されています。八つ頭の龍は必死で、傾きかけた会社をなんとか再建しました。十年かかりました。
八つ頭の龍が、妻を探しに、あのL78の田舎町を訪れたのは、十年も経ってからでした。
ちいさな農家があった場所はいまや取り壊され、なにもなくなっています。
近所の人に、黒いネコさんのゆくえを聞きました。彼らは皆一様に、死んだと言いました。
やはり亡くなっていたか、と八つ頭の龍は涙にくれ、お墓参りをすることにしました。
それにしても、彼女に妹と父親がいたとは。ひとり暮らしだと言っていたのに。
彼女たちのお墓はすぐわかりました。そこに、神話の絵があったからです。
これは、マ・アース・ジャ・ハーナの続きの絵。黒ネコさんは続きを描いて亡くなったのか、とつぶやく八つ頭の龍さんに、案内してくれた老婆は首を振ります。
「そりゃ、青いネコさんの描いた絵じゃ。黒ネコさんも絵は描くけど、そんなに上手くなかったよ」
八つ頭の龍さんは、そこでやっと、真実を知りました。
「じゃあ――あの、地球行き宇宙船に乗せた絵は――」
「地球行き宇宙船? なんじゃそれは」
田舎町の住民は、あまり地球行き宇宙船のことは、興味がないようでした。
老婆にこの絵を持って行っていいかと尋ねると、持ち主はもう死んでいるのでいいと彼女は言いました。八つ頭の龍が持たせた謝礼金に老婆は腰を抜かし、ずっと墓の前でへたりこんでいました。
八つ頭の龍は、この最後の絵を、宇宙船内の真砂名神社に持っていきました。
そうして、すべての絵から黒いネコさんのサインを消し、でも、青いネコさんの名を入れることもしませんでした。そして、世間には、あの絵は黒いネコの描いた絵ではなかったことを公表し、作者は分からない、と八つ頭の龍は言いました。
なんて、なんて素晴らしい絵なのでしょう。
その絵を見たひとたちは、うっとりと絵画に見惚れ、魂を奪われたように立ち尽くしました。
だれもがその絵を欲しがりました。家に置いておきたがりました。あるいは片時も手放さず、その絵を眺めていたいと思いました。
地球行き宇宙船が、地球に向かって出航しました。
ひとびとは、真砂名神社の奥殿の絵を必ず一度は見ました。マ・アース・ジャ・ハーナの神話の絵だけれど、そこには温かな安らぎがあります。どんなにこわい話でも、この絵になると、ユーモラスに見えるか、同情を引く絵になります。
毎日、見に来る人もいました。元気づけられる人もいれば、慰められる人もいます。みんな、とにかくこの絵を見ると、些細なことが幸せに思えるのです。生きていることを、幸せに感じることができるのです。
でも、この素敵な絵を描いた作者はだれなのか、永遠に謎のままです。




