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キヴォトス  作者: ととこなつ
第四部 ~記憶の扉篇~
324/963

140話 君へ 1


 あなたは~♪ 鉄の心臓♪ つめたい鋼の心臓♪ 溶かすことができるのは、わたしだけ♪


「その歌、聞いたことあるぞ」


 微妙な音程で口ずさんでいたのは、グレンのまえを歩くアンジェリカだ。


「うん。何年か前に流行ったよね」

「L03でも流行ったのか」

「あ~、無理だろうね、それは。あたしはL52の学校で過ごしたから、知ってるの」


 グレンの声に、少し驚きが混じる。


「そうなのか」

「うん。一年くらい、この歌ばっかりだったかな」


 L52で暮らした学生時代があったとしても、L03で生まれた自分は、三つ子の魂百まで。

 意外と自分がガチガチ頭だったということは、アントニオに出会うまで気づかなかった。


「なあ」

 グレンがふいに気づいた。

「あんた、……もうちょっと、背が低くなかったか?」


 アンジェリカはそれを聞くと嬉しそうに振り返り、いたずらっぽく笑った。グレンは、彼女のそういう顔は悪くないと思う。綺麗、とはちがうが、可愛い。


「ふっふっふ。気づいた?」

「ああ。まさか、伸びたのか? 身長」

「うん。二十歳にもなって伸びるなんてね。遅ればせながら成長期かも」


 アンジェリカは百四十八センチしかなかった。それがこのところ、急激に身長が伸びている。

 ……まるで、今さら大人になったようだと、アンジェリカは思っていた。


「姉さんも身長あるだろ? だからあのくらいは伸びるかも」

「今何センチなんだ」

「百六十一センチ! ルナを越したよ」


 きっとだれも信じない。アントニオと関係を持ったあとに身長が伸び始めたなんて。

 とにかく、なんだかあれから、自分のなかの変化が著しい。


「そりゃ、よかったな」

「っていうかさ、あたしのことはアンジェって呼んで」

「アンジェね。じゃあ、サルーディーバさんは、名前、なんていうんだ?」


「姉さんは、本名はない」

 ぴたりと、アンジェリカは止まった。

「本名がないっていうのはおかしいね。姉さんは、生まれた時からサルーディーバだから、サルーディーバっていう名前しか持ってない」


 アンジェリカは、ふたたび歩き出す。グレンも特に答えずに、あとを追った。彼女はてってって、とリズムをつけて階段を下りた。


 ――話は多少、さかのぼる。

 

 あの、運命の日。

 夜の神が覚醒した日。

 シェハザールが真砂名神社の奥殿に現れ、夜の神の鉄槌(てっつい)を受けた日。

 ルナが、サルーディーバに、「アズラエルとは別れろ」と言われた日。


 アントニオが――アンジェリカを抱いた日。


 いろいろとすんだあと、アントニオは毛布を引っ張り出してきて、彼女の小さい身体を包んだ。

 アンジェリカは眠っていない。起きている。泣きはらした目を、うすぼんやりと開けて。


 アントニオはずっと泣きそうな、困った顔をして、アンジェリカを抱きしめずに距離を置き、窓際に座って空を眺めた。

 ほんとうは抱きしめたかった。アントニオは、アンジェリカがショックで放心していると思っていた。


 もうすこし、時間を置いてもよかったはずだ。

 サルーディーバでもアンジェリカでも、どちらでもいいというような言い方をして、まるで、サルーディーバが拒絶したからアンジェリカを抱いたような形で、アントニオも気分が悪かった。


「アントニオ」だったらどうする?


 聖人君子のように、サルーディーバやアンジェリカを見守るか。

 彼女らのメルーヴァへの片恋や、グレンへの片恋を温かく見守り、応援するか。妻にするにしても、きちんと段階を踏んでからが良かっただろう。抱くのは、形式上、妻にしてからでも。


「太陽の神」ならどうする?


 こたえは簡単だ。すべて愛する。サルーディーバも、アンジェリカも、だれにも渡さない。


 ――ルナも。


 実際、それが一番簡単なのだろう。メルーヴァもグレンも、アズラエルも敵にすらならない。太陽の神に敵いはしない。そのかわり、「我が妻」たちは自由がなくなる。

 ひとを愛する自由が。


 アントニオは頭痛がするな、とぼんやり思った。

 もう、自分が太陽の神なのかアントニオなのか、ここまで入り混じってしまえば、どれが本当の自分かなど分からない。


「――アンジェ」


 まだ、アンジェリカを心配し、嫌われてしまうかもしれないと怯えている自分に、アントニオはほっとする。まだ自分がいる。太陽の神に食われてはいない。


「アンジェ、ごめんね」


 そっと、アンジェリカの髪を撫でた。返事はない。しばらくそうして、アントニオはやっとジーンズを履いた。


「――っくわあ!!!」

「うわびっくりした!!」


 アンジェリカがものすごい勢いで飛び起きる。アントニオは全身でビクついた。飛び起きたアンジェリカは、飛び起きたとたんに背を丸めた。


「お……おマタが痛い……」


「アンジェ、それはいくらなんでもないんじゃない?」と、アントニオはすんでのところで言うのを留まった。


「――なんて顔してんの」


 アンジェリカのたたでさえ目つきの悪い目が、ますます細められてアントニオを睨む。


「まさか、後悔してるとかいわないよね」

「……、それはない」

「やっぱ、美人な姉さんの方がよかった? だから二回しかしなかった?」


 アントニオは大きなため息を吐いて、首を振った。


「ごめんとか、ふざけてない?」

「ふざけてなんて」

「後悔してるから、謝ったんじゃないの?」


 詰め寄られて、アントニオは泣きそうになった。こうなると、立場は弱い。だが、アンジェリカは、怒っているのではなかった。


「……あたしのこと、可愛いって言ったよね」

「言ったよ」

「好きって言ったよね」

「うん」

「もっかい、言える?」


 アントニオが口を開きかけたのを、アンジェリカは(さえぎ)った。


「やっぱ、いいや」


 アンジェリカは、アントニオから離れると、散らばっていた服をかき集めて着た。


「いいことがあり過ぎると、不安になるしね」

「アンジェ……?」

「あんた、あたしを抱くまえに、妻になる? とか聞いたけど、妻になんてしなくていいからね」


 アントニオは呆気にとられ、それから「……なにいってるの」とちょっと怒った声で言った。


「今回のこと、責任取らなくていいってこと」


 なぜなのだろう。アンジェリカの表情は明るい。


「責任とかじゃなくて俺は、」

「えっちは気持ちよかったよ。またしよう。あたし、そのうちリズンに行くから」

「ちょっと待ってよ、アンジェ」

「――ありがとう。あたしのこと好きって言ってくれて。今度は、あたしからも言うよ」


 アントニオの次の言葉を待たずに、アンジェリカはよたよたと部屋を出、階段を下りていく。

 あれが、初めて抱かれることに怯え、自分の腕のなかで震えていた女の子だろうか。

 アントニオは、意外と打ちひしがれている自分にため息をついた。

 

 外は暗くなり、もうほとんどの店舗が灯りを落としていた。暗闇の道を、アンジェリカはよたよたと変な歩き方をして帰った。


 もうちょっと、アントニオといてもよかった。今日はもう、三度目は無理だろうけど。おマタが痛いから。でも、一度思いついたなら、いてもたってもいられなくて飛び出してきてしまった。


 ――あたしは、メルーヴァの「真実」を知らねばならない。


 家に帰ると、カザマの靴があった。姉にはカザマがついてくれている。アンジェリカは安心した。今は、姉のことも心配だけれど、なによりもまず、もう一回見なくてはならないものがある。


 アンジェリカは自室にもどり、しまいこんであったメルーヴァに関する新聞の記事や、ZOOカードの記録帳を取り出した。


(――あたしは、どれほど見えなくなっていたんだろう)


 ひとつひとつの記録や記事に目を通しながら、アンジェリカの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 今ならわかる。

 もはやメルーヴァは別人だ。顔だちも、その心も、その意思も。

 アンジェリカが愛したメルーヴァは、もういない。


 新聞記事にあるメルーヴァの写真は、むかしのものばかり。変わっていないころのメルーヴァ。

 それに、だまされていたのか。


 自分をとらえたら、メルーヴァはどうしていただろう。

「愛している」と心にもない嘘をつき、自分を利用していただろうか。


 心ない嘘というのは酷か。メルーヴァはたしかに自分を好きだった。だがそれは、マリアンヌを愛するほどのものではない。恐ろしくささやかな愛だ。

 そう。恐ろしくささやかな愛。


 ――鉄の心臓をすこしもゆるがせはしない、小さな親愛。


 そんなちいさなものは、もっと大きな、深くて熱い愛のまえでは、(ちり)同然になる。


 数時間まえまでは、それでもいいと思っていた自分がいた。

 ――アントニオが、あんなに優しく、抱いてくれるまでは。

 ほんとうに、自分を愛する男がいたのだと、知るまでは。


 アンジェリカは目を拭い、ZOOカードを並べた。アンジェリカの合図ひとつで、カードは、所定の位置に配置される。


 ほら、もう、こんなにはっきりと出ていたのに。

 見えなかったのは、自分だ。


 メルーヴァへの先入観と、「あり得ない」と思っていた頑なな観念、――自分のトラウマ。

 それがアンジェリカの目を、歪ませていた。


 こんなにもはっきりと出ている。

 メルーヴァと、マリアンヌを結ぶ、真紅の糸。


 ――ルナとアズラエル、グレンを結ぶ糸と同じくらい赤く、太い糸――。


 姉弟で、そんなことはあり得ないと思っていた。メルーヴァは自分の婚約者、そしてマリアンヌはシェハザールと愛し合っている。だが気づけたはずだ。そのサインは出ていた。

 ずっとずっと、むかしから。


(ルナ、ごめんね)


 あたしは、ルナを見殺しにするところだった。

 マリアンヌは、ルナのためのウサギ。その身を犠牲にして、ルナを救うために生まれた黒ウサギ。

 なんて皮肉なことだろう。マリアンヌがその身をルナのために犠牲にしたことが、メルーヴァを苦しませ、結果としてメルーヴァに、ルナの殺害を決意させるなんて。


(メルーヴァ、マリーはもう、いないんだよ……)


 どんなに語りかけても、メルーヴァのカード、「革命家のライオン」はこたえない。白いライオンの、そのカードは、静かな怒りと恨みを込めて、「月を眺める子ウサギ」を見つめている。


(ルナを殺しても、マリーは帰ってこないんだよ……)


 マリアンヌがルナのために、贖罪(しょくざい)のために生まれたのはルナのせいではない。むしろルナのほうが、マリアンヌのせいで苦しんできた。その贖罪のために生まれたのは、マリアンヌの意志。メルーヴァがルナを恨むのは間違っている。


 アンジェリカはZOOカードを動かし、マリアンヌとルナの重なる前世を見る。そこには答えが出ていた。マリアンヌは、「贖罪」のために、ルナを救うカードとして、今世生まれた。


 ――マリアンヌは過去、三度過ちを犯した。


 そう。

 ルナとアズラエルたちが、こうして何万年も生まれ変わりを繰り返し、贖罪をする羽目になったすべての原因が、マリアンヌだったのだ。


 けれど、そのためにあんなむごい死に方をせねばならなかった、マリアンヌ。

 メルーヴァの怒りも分かるが、ルナを恨んだところで、だれも救われないのに。


(――ねえ、お願いマリー。メルーヴァを助けて)


 神を殺せば、……アズラエルやグレンのように、何万年も贖罪をくりかえすことになる。それをメルーヴァは覚悟して、ルナを殺そうとしているのだ。


(あんた、姉さんでしょ。……メルーヴァをなんとかしてあげて)


「ジャータカの黒ウサギ」のカードは、なにもこたえない。

 しずかな沈黙が、部屋を支配する。


(あたしが、なんとかしなきゃいけない)


 アンジェリカの「英知ある灰ネズミ」のカードは、ルナの助けをもはや必要とはしていなかった。「太陽の神」の寵愛(ちょうあい)を受け、柔らかなオーラで包まれている。


「……現金なモンだな」


 アンジェリカは思った。

 あたしにかぎっては、愛されることで、こんなに変わるなんて思いもしなかった。

 ――自分はずっと、だれにも愛されることなんて、ないと思っていたから。





「ここをまっすぐ行くと、椿の宿の裏に出るよ」


 山道は抜けたようだ。

 グレンは、車が通れるほどの道幅の道路に出た。まだ山の中腹だ。景色を見下ろせば、椿の宿の屋根が見える。


「おう。ありがとう。じゃあなアンジェ」


 そういって、グレンは右手を上げて、今度こそ山を大股で降りていく。

 アンジェリカはそれを見送りながら、思った。


 ――グレンと、サルーディーバ――姉さんの赤い糸は、紫がかった赤。

 情熱的な愛じゃない。互いを敬い、尊重し合う、関係の色。


 ルナとグレン、アズラエルは燃えるような真っ赤な赤。これにかなう糸なんてどこにもない。

 真っ赤な赤は、情熱の色。

 どんな立場、境遇(きょうぐう)、どんな性別で生まれ変わっても、必ず惹かれあってしまう運命の色だ。


 メルーヴァとマリアンヌと同じように。


 一目ぼれしかない真っ赤な糸と違い、赤紫は、互いを知りあわなきゃいけない。

 だから、一番結ばれにくい関係でもある。

 互いを敬う、おだやかな関係は築けても、どちらかが積極的に動かなければ、恋には結びつきづらい。


(――姉さん)


 ルナがいる限り、グレンの心は、なかなかサルーディーバには向かないだろう。まず、グレンは、サルーディーバの心に気付いてさえいない。

 だが、たとえサルーディーバの気持ちを彼が知ったところで、受け入れてもらえるかも謎だ。

 グレンは、サルーディーバをないがしろにはしないだろう。それゆえに、好意はあっても、手を出すことはないかもしれない。

 なんにせよ、時間が必要なことはたしかだ。

 ふたりが、互いを知りあい、わかりあうための時間が。


(恋って、なんてめんどうくさいの)


 あたしには、恋のキューピッドなんて、向いていないけれど。


 アンジェリカと、メルーヴァの赤い糸は桃色の糸。初恋の域を出ていなかった。アンジェリカのほうから伸びる糸はほんのりとピンクで、子どものような淡い恋心に、アンジェリカは思わずカードののったテーブルを、ひっくり返しかけたことがある。


 今は、メルーヴァのほうからの糸は、薄汚れていた。

 アンジェリカを利用しようとしている醜い心のせいで、糸まで()せていた。


(……メルーヴァ)


 いまは、メルーヴァをあれほど強く思う気持ちはない。ピンクの色褪せを見たくなくて、アンジェリカはメルーヴァのカードをしまった。

 ツァオとの糸は、相変わらず赤い。ツァオが、離れていてもアンジェリカを心配しているのが見て取れた。

 

 ――ツァオは、あなたが好きなのですよ。


 昔、姉にも、マリアンヌにもよく言われた。でもツァオは、ずっとアンジェリカを苛めていた。ブスだのチビだの、トラウマをしっかり植えつけてくれたのはツァオだ。


 だが、今なら素直に思える。――姉とマリアンヌの言い分は当たっていたのだと。


 朱の混じった、赤い糸。夫婦になるには、最適の赤。


 メルーヴァの婚約者になったことは、だれかしかを通じてツァオの耳に入った。そのころからだ。ツァオがアンジェリカを苛めなくなったのは。

 ツァオなりに、初恋を超えて、自分を愛してくれていたのだろうか。

 


 

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