140話 君へ 1
あなたは~♪ 鉄の心臓♪ つめたい鋼の心臓♪ 溶かすことができるのは、わたしだけ♪
「その歌、聞いたことあるぞ」
微妙な音程で口ずさんでいたのは、グレンのまえを歩くアンジェリカだ。
「うん。何年か前に流行ったよね」
「L03でも流行ったのか」
「あ~、無理だろうね、それは。あたしはL52の学校で過ごしたから、知ってるの」
グレンの声に、少し驚きが混じる。
「そうなのか」
「うん。一年くらい、この歌ばっかりだったかな」
L52で暮らした学生時代があったとしても、L03で生まれた自分は、三つ子の魂百まで。
意外と自分がガチガチ頭だったということは、アントニオに出会うまで気づかなかった。
「なあ」
グレンがふいに気づいた。
「あんた、……もうちょっと、背が低くなかったか?」
アンジェリカはそれを聞くと嬉しそうに振り返り、いたずらっぽく笑った。グレンは、彼女のそういう顔は悪くないと思う。綺麗、とはちがうが、可愛い。
「ふっふっふ。気づいた?」
「ああ。まさか、伸びたのか? 身長」
「うん。二十歳にもなって伸びるなんてね。遅ればせながら成長期かも」
アンジェリカは百四十八センチしかなかった。それがこのところ、急激に身長が伸びている。
……まるで、今さら大人になったようだと、アンジェリカは思っていた。
「姉さんも身長あるだろ? だからあのくらいは伸びるかも」
「今何センチなんだ」
「百六十一センチ! ルナを越したよ」
きっとだれも信じない。アントニオと関係を持ったあとに身長が伸び始めたなんて。
とにかく、なんだかあれから、自分のなかの変化が著しい。
「そりゃ、よかったな」
「っていうかさ、あたしのことはアンジェって呼んで」
「アンジェね。じゃあ、サルーディーバさんは、名前、なんていうんだ?」
「姉さんは、本名はない」
ぴたりと、アンジェリカは止まった。
「本名がないっていうのはおかしいね。姉さんは、生まれた時からサルーディーバだから、サルーディーバっていう名前しか持ってない」
アンジェリカは、ふたたび歩き出す。グレンも特に答えずに、あとを追った。彼女はてってって、とリズムをつけて階段を下りた。
――話は多少、さかのぼる。
あの、運命の日。
夜の神が覚醒した日。
シェハザールが真砂名神社の奥殿に現れ、夜の神の鉄槌を受けた日。
ルナが、サルーディーバに、「アズラエルとは別れろ」と言われた日。
アントニオが――アンジェリカを抱いた日。
いろいろとすんだあと、アントニオは毛布を引っ張り出してきて、彼女の小さい身体を包んだ。
アンジェリカは眠っていない。起きている。泣きはらした目を、うすぼんやりと開けて。
アントニオはずっと泣きそうな、困った顔をして、アンジェリカを抱きしめずに距離を置き、窓際に座って空を眺めた。
ほんとうは抱きしめたかった。アントニオは、アンジェリカがショックで放心していると思っていた。
もうすこし、時間を置いてもよかったはずだ。
サルーディーバでもアンジェリカでも、どちらでもいいというような言い方をして、まるで、サルーディーバが拒絶したからアンジェリカを抱いたような形で、アントニオも気分が悪かった。
「アントニオ」だったらどうする?
聖人君子のように、サルーディーバやアンジェリカを見守るか。
彼女らのメルーヴァへの片恋や、グレンへの片恋を温かく見守り、応援するか。妻にするにしても、きちんと段階を踏んでからが良かっただろう。抱くのは、形式上、妻にしてからでも。
「太陽の神」ならどうする?
こたえは簡単だ。すべて愛する。サルーディーバも、アンジェリカも、だれにも渡さない。
――ルナも。
実際、それが一番簡単なのだろう。メルーヴァもグレンも、アズラエルも敵にすらならない。太陽の神に敵いはしない。そのかわり、「我が妻」たちは自由がなくなる。
ひとを愛する自由が。
アントニオは頭痛がするな、とぼんやり思った。
もう、自分が太陽の神なのかアントニオなのか、ここまで入り混じってしまえば、どれが本当の自分かなど分からない。
「――アンジェ」
まだ、アンジェリカを心配し、嫌われてしまうかもしれないと怯えている自分に、アントニオはほっとする。まだ自分がいる。太陽の神に食われてはいない。
「アンジェ、ごめんね」
そっと、アンジェリカの髪を撫でた。返事はない。しばらくそうして、アントニオはやっとジーンズを履いた。
「――っくわあ!!!」
「うわびっくりした!!」
アンジェリカがものすごい勢いで飛び起きる。アントニオは全身でビクついた。飛び起きたアンジェリカは、飛び起きたとたんに背を丸めた。
「お……おマタが痛い……」
「アンジェ、それはいくらなんでもないんじゃない?」と、アントニオはすんでのところで言うのを留まった。
「――なんて顔してんの」
アンジェリカのたたでさえ目つきの悪い目が、ますます細められてアントニオを睨む。
「まさか、後悔してるとかいわないよね」
「……、それはない」
「やっぱ、美人な姉さんの方がよかった? だから二回しかしなかった?」
アントニオは大きなため息を吐いて、首を振った。
「ごめんとか、ふざけてない?」
「ふざけてなんて」
「後悔してるから、謝ったんじゃないの?」
詰め寄られて、アントニオは泣きそうになった。こうなると、立場は弱い。だが、アンジェリカは、怒っているのではなかった。
「……あたしのこと、可愛いって言ったよね」
「言ったよ」
「好きって言ったよね」
「うん」
「もっかい、言える?」
アントニオが口を開きかけたのを、アンジェリカは遮った。
「やっぱ、いいや」
アンジェリカは、アントニオから離れると、散らばっていた服をかき集めて着た。
「いいことがあり過ぎると、不安になるしね」
「アンジェ……?」
「あんた、あたしを抱くまえに、妻になる? とか聞いたけど、妻になんてしなくていいからね」
アントニオは呆気にとられ、それから「……なにいってるの」とちょっと怒った声で言った。
「今回のこと、責任取らなくていいってこと」
なぜなのだろう。アンジェリカの表情は明るい。
「責任とかじゃなくて俺は、」
「えっちは気持ちよかったよ。またしよう。あたし、そのうちリズンに行くから」
「ちょっと待ってよ、アンジェ」
「――ありがとう。あたしのこと好きって言ってくれて。今度は、あたしからも言うよ」
アントニオの次の言葉を待たずに、アンジェリカはよたよたと部屋を出、階段を下りていく。
あれが、初めて抱かれることに怯え、自分の腕のなかで震えていた女の子だろうか。
アントニオは、意外と打ちひしがれている自分にため息をついた。
外は暗くなり、もうほとんどの店舗が灯りを落としていた。暗闇の道を、アンジェリカはよたよたと変な歩き方をして帰った。
もうちょっと、アントニオといてもよかった。今日はもう、三度目は無理だろうけど。おマタが痛いから。でも、一度思いついたなら、いてもたってもいられなくて飛び出してきてしまった。
――あたしは、メルーヴァの「真実」を知らねばならない。
家に帰ると、カザマの靴があった。姉にはカザマがついてくれている。アンジェリカは安心した。今は、姉のことも心配だけれど、なによりもまず、もう一回見なくてはならないものがある。
アンジェリカは自室にもどり、しまいこんであったメルーヴァに関する新聞の記事や、ZOOカードの記録帳を取り出した。
(――あたしは、どれほど見えなくなっていたんだろう)
ひとつひとつの記録や記事に目を通しながら、アンジェリカの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
今ならわかる。
もはやメルーヴァは別人だ。顔だちも、その心も、その意思も。
アンジェリカが愛したメルーヴァは、もういない。
新聞記事にあるメルーヴァの写真は、むかしのものばかり。変わっていないころのメルーヴァ。
それに、だまされていたのか。
自分をとらえたら、メルーヴァはどうしていただろう。
「愛している」と心にもない嘘をつき、自分を利用していただろうか。
心ない嘘というのは酷か。メルーヴァはたしかに自分を好きだった。だがそれは、マリアンヌを愛するほどのものではない。恐ろしくささやかな愛だ。
そう。恐ろしくささやかな愛。
――鉄の心臓をすこしもゆるがせはしない、小さな親愛。
そんなちいさなものは、もっと大きな、深くて熱い愛のまえでは、塵同然になる。
数時間まえまでは、それでもいいと思っていた自分がいた。
――アントニオが、あんなに優しく、抱いてくれるまでは。
ほんとうに、自分を愛する男がいたのだと、知るまでは。
アンジェリカは目を拭い、ZOOカードを並べた。アンジェリカの合図ひとつで、カードは、所定の位置に配置される。
ほら、もう、こんなにはっきりと出ていたのに。
見えなかったのは、自分だ。
メルーヴァへの先入観と、「あり得ない」と思っていた頑なな観念、――自分のトラウマ。
それがアンジェリカの目を、歪ませていた。
こんなにもはっきりと出ている。
メルーヴァと、マリアンヌを結ぶ、真紅の糸。
――ルナとアズラエル、グレンを結ぶ糸と同じくらい赤く、太い糸――。
姉弟で、そんなことはあり得ないと思っていた。メルーヴァは自分の婚約者、そしてマリアンヌはシェハザールと愛し合っている。だが気づけたはずだ。そのサインは出ていた。
ずっとずっと、むかしから。
(ルナ、ごめんね)
あたしは、ルナを見殺しにするところだった。
マリアンヌは、ルナのためのウサギ。その身を犠牲にして、ルナを救うために生まれた黒ウサギ。
なんて皮肉なことだろう。マリアンヌがその身をルナのために犠牲にしたことが、メルーヴァを苦しませ、結果としてメルーヴァに、ルナの殺害を決意させるなんて。
(メルーヴァ、マリーはもう、いないんだよ……)
どんなに語りかけても、メルーヴァのカード、「革命家のライオン」はこたえない。白いライオンの、そのカードは、静かな怒りと恨みを込めて、「月を眺める子ウサギ」を見つめている。
(ルナを殺しても、マリーは帰ってこないんだよ……)
マリアンヌがルナのために、贖罪のために生まれたのはルナのせいではない。むしろルナのほうが、マリアンヌのせいで苦しんできた。その贖罪のために生まれたのは、マリアンヌの意志。メルーヴァがルナを恨むのは間違っている。
アンジェリカはZOOカードを動かし、マリアンヌとルナの重なる前世を見る。そこには答えが出ていた。マリアンヌは、「贖罪」のために、ルナを救うカードとして、今世生まれた。
――マリアンヌは過去、三度過ちを犯した。
そう。
ルナとアズラエルたちが、こうして何万年も生まれ変わりを繰り返し、贖罪をする羽目になったすべての原因が、マリアンヌだったのだ。
けれど、そのためにあんなむごい死に方をせねばならなかった、マリアンヌ。
メルーヴァの怒りも分かるが、ルナを恨んだところで、だれも救われないのに。
(――ねえ、お願いマリー。メルーヴァを助けて)
神を殺せば、……アズラエルやグレンのように、何万年も贖罪をくりかえすことになる。それをメルーヴァは覚悟して、ルナを殺そうとしているのだ。
(あんた、姉さんでしょ。……メルーヴァをなんとかしてあげて)
「ジャータカの黒ウサギ」のカードは、なにもこたえない。
しずかな沈黙が、部屋を支配する。
(あたしが、なんとかしなきゃいけない)
アンジェリカの「英知ある灰ネズミ」のカードは、ルナの助けをもはや必要とはしていなかった。「太陽の神」の寵愛を受け、柔らかなオーラで包まれている。
「……現金なモンだな」
アンジェリカは思った。
あたしにかぎっては、愛されることで、こんなに変わるなんて思いもしなかった。
――自分はずっと、だれにも愛されることなんて、ないと思っていたから。
「ここをまっすぐ行くと、椿の宿の裏に出るよ」
山道は抜けたようだ。
グレンは、車が通れるほどの道幅の道路に出た。まだ山の中腹だ。景色を見下ろせば、椿の宿の屋根が見える。
「おう。ありがとう。じゃあなアンジェ」
そういって、グレンは右手を上げて、今度こそ山を大股で降りていく。
アンジェリカはそれを見送りながら、思った。
――グレンと、サルーディーバ――姉さんの赤い糸は、紫がかった赤。
情熱的な愛じゃない。互いを敬い、尊重し合う、関係の色。
ルナとグレン、アズラエルは燃えるような真っ赤な赤。これにかなう糸なんてどこにもない。
真っ赤な赤は、情熱の色。
どんな立場、境遇、どんな性別で生まれ変わっても、必ず惹かれあってしまう運命の色だ。
メルーヴァとマリアンヌと同じように。
一目ぼれしかない真っ赤な糸と違い、赤紫は、互いを知りあわなきゃいけない。
だから、一番結ばれにくい関係でもある。
互いを敬う、おだやかな関係は築けても、どちらかが積極的に動かなければ、恋には結びつきづらい。
(――姉さん)
ルナがいる限り、グレンの心は、なかなかサルーディーバには向かないだろう。まず、グレンは、サルーディーバの心に気付いてさえいない。
だが、たとえサルーディーバの気持ちを彼が知ったところで、受け入れてもらえるかも謎だ。
グレンは、サルーディーバをないがしろにはしないだろう。それゆえに、好意はあっても、手を出すことはないかもしれない。
なんにせよ、時間が必要なことはたしかだ。
ふたりが、互いを知りあい、わかりあうための時間が。
(恋って、なんてめんどうくさいの)
あたしには、恋のキューピッドなんて、向いていないけれど。
アンジェリカと、メルーヴァの赤い糸は桃色の糸。初恋の域を出ていなかった。アンジェリカのほうから伸びる糸はほんのりとピンクで、子どものような淡い恋心に、アンジェリカは思わずカードののったテーブルを、ひっくり返しかけたことがある。
今は、メルーヴァのほうからの糸は、薄汚れていた。
アンジェリカを利用しようとしている醜い心のせいで、糸まで褪せていた。
(……メルーヴァ)
いまは、メルーヴァをあれほど強く思う気持ちはない。ピンクの色褪せを見たくなくて、アンジェリカはメルーヴァのカードをしまった。
ツァオとの糸は、相変わらず赤い。ツァオが、離れていてもアンジェリカを心配しているのが見て取れた。
――ツァオは、あなたが好きなのですよ。
昔、姉にも、マリアンヌにもよく言われた。でもツァオは、ずっとアンジェリカを苛めていた。ブスだのチビだの、トラウマをしっかり植えつけてくれたのはツァオだ。
だが、今なら素直に思える。――姉とマリアンヌの言い分は当たっていたのだと。
朱の混じった、赤い糸。夫婦になるには、最適の赤。
メルーヴァの婚約者になったことは、だれかしかを通じてツァオの耳に入った。そのころからだ。ツァオがアンジェリカを苛めなくなったのは。
ツァオなりに、初恋を超えて、自分を愛してくれていたのだろうか。




