139話 迷える子羊と孤高のトラ 2
「はあ、じゃあ、あの乱暴な連中は、もしかして王宮護衛官か?」
サルーディーバは小さくうなずいた。
「そうです。彼らも、L03から乗った、あなたと同じ船客です。彼らは、自分からわたくしの護衛を名乗り出てくださって、わたくしが毎日ここで祈願をしているあいだ、護衛をしてくださるのです」
「そうか」
「L03では、サルーディーバに近づくだけで罰せられる。ほとんど、死刑です」
サルーディーバは困った顔でつづけた。
「ですから、彼らは、自分たちが悪いことをしたとは、微塵も思っていないのです。L03では、危険もあるからしかたありませんが、この宇宙船では、そうそう危険なことは起こりません。……この宇宙船に乗ってから、わたくしもアンジェリカも、再三注意してきたのですが、彼らは分からない。なかなか、分かってもらえない。わたくしとて、L03を離れて、サルーディーバなど知らない人間のところへ行けば、ただのひとと変わりありません。ほんとうに、驚かれたでしょう。申し訳ありませんでした」
「……」
「あとであたしから、グレンさんの“身分”をあいつらに伝えとくよ。――かまわないだろ?」
アンジェリカがウィンクした。グレンは肩をすくめることで、しかたないな、という意思表示をした。
「最初から、『俺はドーソン一族の嫡男だぞ!』っていえばぜんぶすんだのに」
「……今は少し、情勢がややこしいだろ」
「……たしかにそうかも。でもきっと、あいつら土下座してたと思うよ? 役員のほうはわからないけど。しっかしまあ――ずいぶんひどく汚してくれちゃって」
グレンが走ってきたルートは、間違いなく泥と水で汚れていた。
「グレンさん、あんた、功徳を積むと思って、掃除していきなよ!」
「……や、クドクってやつは分からねえが、掃除はするさ。俺が悪い。そのまえにちょっと」
グレンは、来ていたポロシャツを、いきなり脱ぎ始めた。
「きゃあ!」
サルーディーバが悲鳴を上げて、グレンに背を向ける。
「ビショビショで気持ちわりーんだよ……、でっ!!」
奥殿の外へ大股で歩いていってポロシャツを絞っていると、うしろから木の棒のようなものでパコーン! と叩かれた。木の棒は、モップの柄だった。グレンの後頭部を叩いたのは、さっきお茶を持ってきてくれた宮司だ。両手にモップとバケツを持った宮司が、仁王立ちしている。
「とんでもないやつじゃ! 汚れた格好で拝殿に上がり込むわ、れでぃのまえで裸になるわ」
「上だけだろ! 下は脱いでねえぞ!?」
「すっぽんぽんになっとったら、ワシがおまえさんを宇宙船から降ろしとるわい! 罰として、この床、ぜんぶ掃除していきなされ!」
「全部だと!?」
ここの拝殿だけでも、けっこうな広さだ。宮司は、グレンの手にバケツと雑巾とモップを押し付け、
「真砂名の神も呆れてござるわ。ぜんぶ神さんが見とるでの、ズルはなしじゃぞ」
グレンはモップを手に、大きなため息を吐く。
「自業自得だね、グレンさん」
アンジェリカの大笑いが、拝殿に響いた。
グレンをギャラリーへ置いていったアズラエルたちは、金網を抜け、階段上の拝殿までもどった。
そのあたりまで来ると、雨は小雨になった。この程度の雨ならば、拝殿で雨宿りするより、一気に椿の宿にもどろうという話になり、彼らは階段を駆け下り、まっすぐ椿の宿へ走った。
「まあまあ! こんなに濡れて!」
おかみの驚きようも、無理もない。全員、プールにでも飛び込んだようなありさまだ。
「真砂名神社でいきなり豪雨が。……そうですか、それは大変でしたわね」
山の天気は変わりやすいですから、とおかみは言い、バスタオルを出してくれた。椿の宿のあたりは、雲が覆っているくらいで、雨は降っていない。地面も乾いている。だが、真砂名神社の奥殿がある山のほうは、まだ厚い雲が覆い、雷の音も聞こえる。
男たちは外でシャツを絞り、ルナもスカートのはしっこを絞って、バスタオルで水分を拭きとって中に入った。
クラウドたちは、まだチェックインまえだった。予約はしていたので、着替えてからチェックインする旨を告げ、クラウドはミシェルを抱いたまま、ルナたちが宿泊する櫟の部屋へ入った。
クラウドが畳の上へミシェルを寝かせると、ルナがただちに叫んだ。
「はい! 男の人たちはお外へ出てください!」
「……え?」
「だって、ミシェル着替えさせなきゃ。風邪ひいちゃうよ」
「あ、ああ分かった。……おい、出るぞクラウド」
「え? 俺も?」
「そうです! クラウドも出ます!」
ルナウサギにぐいぐい押され、アズラエルとクラウドは櫟の部屋の外に出された。
「いいってゆうまで入ってきちゃダメだよ!」
ウサギはぴしゃりと襖を閉めた。
「――ちょっと待って。なんで俺も? 俺はいいじゃないか」
「クラウド、あきらめろ」
食い下がるクラウドの肩を、ぽん、と叩いて慰めるアズラエルがいた。
「さて、うっわー、びっしょびしょだ」
ルナは、ミシェルを、この部屋にある浴衣に着替えさせるつもりだった。
「はい、ルナちゃん。このユカタかな?」
「うん! これです……」
ニックがルナに畳んである浴衣を渡してくれる。
「これでしゅ……。……?」
「……」
「やあ! 僕も追い出されちゃったよ♪」
満面の笑顔で襖を開けて出てきたニックに、アズラエルとクラウドは声をそろえて突っ込んだ。
「おまえが一番に出ろよ!!」
ルナはどさくさまぎれに残ったニックを追い出し、ミシェルの身体を拭き、浴衣に着替えさせた。自分も濡れた髪をタオルでまとめ、新しい服に着替えてから、襖をあけた。
「いいよ。入って」
クラウドはいなかった。チェックインと、着替えを済ませに行ったらしい。
いちいの部屋から見える山の雨雲は、ようやくこちらの方へ流れてきていた。いまにも降り出しそうな予感だ。部屋は暗く、もう日が沈んだような感覚になる。
ニックは、アズラエルの分の浴衣を借りた。アズラエルも自分の服に着替える。
ルナは、ミシェルの髪をタオルで拭き、それからニックに布団を出してもらって、ミシェルを寝かせた。
「ルゥ。雨で冷えたろ。ひとっ風呂浴びてきたらどうだ」
「え? ――うん、」
ルナはミシェルの枕元から離れようとしない。ミシェルの寝顔を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「――やっぱり、あたしのせいかなあ」
「あ?」
アズラエルも、タオルで頭をがしがし拭いている。
「……ミシェル、さっき、ギャラリーで……」
「ああ……」
ついに、ここでも雨が降り出した。先ほどのような豪雨ではないが、ざあざあと強く降っている。
「なんでもかんでも、おまえのせいってことはねえだろ」
「……」
ニックは机の上に肩肘をつき、ふたりをおだやかな目で眺めている。
「……関係ないヤツが口を挟んで悪いんだけど」
ニックが言った。
「ミシェルちゃんがこうなったのは、ルナちゃんのせいではないと思うよ? ――たぶん、先ほどの男性は、ミシェルちゃんの前世のひとつだと思うんだけれども、よほど大物の前世が出てきたんだね。だからミシェルちゃんの肉体は驚いて、気絶してしまった。でも、だからといってこのまま目覚めないとかいうわけじゃない」
ニックは、ミシェルがあそこでしゃべっていた内容に関しては、言及しなかった。
「心配しないで。すぐとは言わないけれども、彼女はちゃんと起きるから」
「……」
半分涙ぐんでいたルナは、ニックの言葉に、こくんとうなずいた。
「ニック、おまえもその、なんだ。――真砂名神社で起きる不思議な現象の意味、分かってんのか」
「うん。そりゃあね、僕だって、宇宙船役員やって長いもの。あそこはいろいろあるさ」
「ミシェルの具合、どう?」
浴衣に着替えたクラウドが、自分たちの部屋のカギを持って入ってきた。
「どうってことはねえ。グースカ寝てるよ」
クラウドも枕元へ寄って、ミシェルの額に手を当てた。
「熱はなさそう」
ほっとした声で言う。
「ルナちゃん。さっき雨で冷えたでしょ? 温泉入ってきたら?」
クラウドも、アズラエルと同じことを言う。ルナはぷるぷる首を振った。
「あたしもミシェルのそばにいるよ」
男三人は、顔を見合わせた。
「サルーディーバさん、そうソワソワせんでも、あと三十分もすりゃ、あの銀色頭はここへくるわい」
だから落ち着いて、座って茶を飲め、と宮司は呆れ顔で言った。
「も、申し訳ありません……」
サルーディーバは、さっきから立ったり座ったりと、忙しないのだった。
真砂名神社の一角の小部屋――ここは普段宮司が休んでいる小部屋だ――ここで栗ようかんと緑茶をおやつに、宮司とアンジェリカとサルーディーバの小休憩――のはずだったのだが、サルーディーバはおやつに手をつけず、ソワソワと動いてばかり。
「心配せんでも、銀色頭の分もちゃんとありますでの」
「でもあの、わたくしも、お手伝いしたほうが――、」
グレンは、宮司の言いつけどおり、せっせと奥殿を掃除していた。モップひとつ持ったことのない、ドーソン家のお坊ちゃまが。
「姉さんが手伝ったら、グレンさんはサルーディーバに掃除をさせた罪で、処刑になると思うけど」
それに、不器用な姉さんが手伝ったら、ますますグレンさんの掃除する場所が増えるかも、と、アンジェリカが、勝手にお茶のお代わりを自分の湯飲みに注ぎながら、言った。
「恋する女って、そんなもんだよね~」
「……!!」
にしし、と笑うアンジェリカに、サルーディーバは言葉を失って顔を赤くした。
妹は、最近おかしい。これでも、もう少しまえまでは、たしかに妹だけれども、サルーディーバに対して多少の遠慮というものがあった。実際、それをさみしく思っていたのだから、なくなったのはいいことだけれども、これはいただけない。アントニオの影響もあるのか、はしたない言葉遣いがさらに多くなった気がする。
「恋する女、のう……」
宮司までもが、緑茶を見つめてつぶやく。
「あの銀色頭では、すこし役不足かの」
「なにをおっしゃるのです! わ、わたしは、わたくしは……、べつに、」
この宮司も絶対おかしい。サルーディーバが恋、などという言葉を聞いたら、たいていの人間は絶句するか、信じられないという顔をして、サルーディーバをたしなめるはずなのに。
「おい。終わったぜ」
グレンがいた。サルーディーバの背後に。
ルナではないが、背筋がのけぞるほどサルーディーバは驚いた。人の気配もわからなくなるほど、グレンのことで頭がいっぱいだったのだろうか。
(情けない……。落ち着かなければ)
グレンは、宮司の作務衣を借りていた。無論、つんつるてんである。足も腕も足りなければ、身幅も足りていない。たくましい胸板が、惜しげもなくさらされ中だ。
彼のビショビショの私服は、宮司が干して乾かしてくれていた。
「よしよし。ちょっと見てくるぞ」
宮司は、廊下をまたいで拝殿のほうへ行った。
「ほう……。ちゃんと掃除したようじゃの」
床はきちんと磨き上げられ、モップで拭いたあとは乾拭きされている。床板は、輝くようにピカピカだ。
「ええ子じゃ。おつかれさん。服はここに置いておくぞ」
吊るしてあった服はまだ半乾きだが、適度な風通しによって、気にならないぐらいには乾いていた。
「グレンさん、ここ座りなよ」
「おう」
アンジェリカが席をずらし、サルーディーバの隣にグレンを座らせる。
サルーディーバの肩は、緊張でガチガチに張りつめていた。グレンがこんなに近くにいることに加え、アンジェリカがまた恋だのなんだのと、グレンの前で言いだすのではないか――という心配で。
心臓が、破れそうだった。
グレンは、出された栗ようかんを見、「……これはなに?」と聞いた。栗ようかんという菓子だと宮司が告げると、グレンはそれを口に持って行った。スクエアな塊がひとくちで口の中に押し込まれる。
ずいぶん粗野――もう少しいい表現では男らしい食べ方に、サルーディーバは半分呆れ、半分見惚れた。自分の周りに、こんな無作法な食べ方をする男はいない。
ひと噛み、ふた噛みしてごくり。なんという早食いか。宮司も呆れて笑った。
「ようかんは逃げんよ。ゆっくり食べんか」
「甘ェな……」
緑茶も、ぐびぐびと喉を鳴らして一気飲み。アンジェリカが笑った。
「グレンさん、あんた、ほんとに物怖じしないね」
「あ?」
「サルーディーバの隣でなんて、普通の人は喉を通らないよ」
「……」
ああ、そうか。そういえば、サルーディーバが隣にいるんだっけ。
グレンはやっと思い出した。
神格化された人間。人が作り出した、目に見えぬものの象徴。
グレンの目に映るのは、美しいひとりの女性だ。
グレンは、隣のサルーディーバを見た。
いつも被っているフードはない。綺麗に編み込んだ、飴色の髪。伏せられた長い睫毛。
実に美しいな、とグレンは思ったが、これを口に出せばさすがに無礼者扱いだろう。




