137話 記憶の扉 Ⅲ 2
(――っ、)
(……なん――、なんだこりゃ……、)
アズラエルとグレンは、階段を三分の一ほど上ったところで、思わず膝に手をついて立ち止まった。
なんでこんなに息が上がる。全力疾走したときと変わらない。座りこまなかったのは、相手が座り込んでいないからだ。グレンは、アズラエルが座っていないのに、座るのは嫌だったし、アズラエルも、グレンより先に膝をつくのは嫌だった。
だが、今にも足が折れて、膝をついてしまいそうだ。
――まだ、半分も上っていないのに。
(……冗談だろ)
(こんなになまってたのか? いや、まさか)
アズラエルもグレンも、自分の身体の重さが信じられなかった。でかい岩でもかついで上がっている心地だ。
上を見上げると、ルナがかなり上のほうで、じっとこちらを見ている。怒っているせいか、ふたりと目が合うと、べーっとばかりに舌を出して、また駆け上がっていった。十段ほど駆け上がり、ふうふうと肩を揺らし、それからまたじーっとこちらを見る。ルナも息が上がっているが、自分たちほどではない。
「……クソ、可愛いヤツめ……」
「どうしてアイツは普通に上れるんだ……」
女しか上がれない階段なのか。だが、変わった衣装の人間ではあるが、男も普通に上がっていく。ヨボヨボの爺ちゃんも。
「――なんだ、この階段」
グレンが思わずつぶやいた。「磁石でも埋め込んでんのか」
磁石にでも引っ張られているように、足が上がらないのだ。一段一段を上る足が、恐ろしく重い。
「こうなったら意地でも上がってやる……」
アズラエルは百キロの重しでもつけたような足を、一歩上の段に乗せ、「うおおおおおっ!!」と叫んで走り出した。
「あっ! てめえ!!」
グレンも負けてなどいられない。
「ぐああああああ!!」
猛獣二頭は絶叫し、周囲の視線を独り占めにしながら、階段を駆け上がった。
――五十分後。
アズラエルとグレンは、真砂名神社の境内手前――階段のすぐそばで、うつ伏せに倒れ込んでいた。
やっと着いた。――一時間近くもかかって。
「はあ……、はあ……。なんだこの……、教練一日目終了みたいな空気は……」
「……」
アズラエルはもうしゃべる気力もない。一歩も動けない。
ふたりは勢いよく走り出したはいいが、半分ほど来たところでぶっ倒れ、しばらく動けなくなった。五分ほど倒れ込んだあと、ぜえはあ言いながらゆっくりと立ち上がり、ルナの声援を浴びながら、やっと上までたどり着いたのだった。
「お疲れさま」
ルナが水に浸したハンカチを、ぺたりとアズラエルとグレンの額に当ててくれた。
「……ルゥ」
「……俺の女神」
ルナに抱き着く気力もなかった。
「ふたりとも、すっごくあせくさい」
ふたりは、やっと身を起こし、土の上にあぐらをかいて座り込んだ。階段でも倒れ伏したし、土の上に寝転がったから服が土だらけだ。
アズラエルは、まだ肩で息をしている。グレンは座ったはいいが、そのままひっくり返って仰向けになった。
「ああ……このまま寝てえ」
「さすがにきつかったぜ……浄化だかなんだか知らねえが、ねえよ、この重さ」
「おまえ、どんだけ前世で悪事重ねてきたんだよ」
「てめえも変わりゃしねえだろが……」
アズラエルとグレンは、すでに宮司から階段の説明を聞いた。この階段をはじめて上がるものは、みなこうなることを。
ふたりがたどり着いた頂上には、ルナでなく、初老の宮司が待ち構えていたのだ。宮司は訛りの強い口調で言った。
「ここで倒れられると邪魔だから、そっちで倒れろ」と。
「ほれ、飲まねえか」
ルナが初めて真砂名神社へ来たときに現れた、訛りの強いおじいちゃん宮司である。彼が、つめたいお茶を五人分持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
ルナはお礼を言って、お茶を受け取る。グレンとアズラエルは、のどが渇いて仕方なかったのだろう、お茶をもらうと、喉を鳴らして一気に飲みほした。
「うめえ」
「生き返るぜ」
「おまえさんら、兄弟じゃろ」
宮司さんは、グレンとアズラエルに向かって言った。
「よかったな。兄弟で来んと、この階段は上がれんかったぞ」
「は?」
「……いや、俺たちは赤の他人だ」
「兄弟じゃよ。魂がな」
二人もルナも呆気にとられたが、宮司はかまわず続けた。
「今回のツアーは転機かの。神さんの魂は来るわ、古い魂がぎょうさん来よるわ」
宮司の言い方は、独り言のようでもあった。一杯では足りなかったのか、グレンが残った二杯に目をつけた。
「なあ、それもらっていいか?」
「もうふたり来るじゃろが」
さすがに三人は、顔を見合った。
この宮司の言葉は、訛りが強くて聞き取りづらいのだが、もうふたり来ると言ったか?
「あの、宮司さん。あたしたちは三人ですけど……」
「三人? おかしいのう。五人じゃろ?」
アズラエルはあたりを見渡したが、己を入れて三人以外に、見知った顔はいない。
「ホラーはやめてくれ」
グレンはぞっとしない顔で言ったが。
「ほれ、来たぞ」
宮司は言い、腰を上げた。だれも来てなどいない。階段のほうを見てもだれもいないし、今日は、この境内には、二、三人の変わった衣装の女性がいるだけだ。
「飲んだら、さい銭箱の横に置いといてくれりゃ、取りにくるから」
そういって、神社のほうへもどっていく。
「アイツには、なにかが見えてるのか……!?」
その手の話が大の苦手なグレンが、しかめっ面でつぶやいた。
そのとき。
「――ミシェル! あと少し。がんばって、」
「ひーひー、ふー!!」
聞き覚えのある声がしたかと思うと、階段の上に姿を現したのは。
「ミシェル! クラウド!?」
「あ、ルナ!?」
「ルナちゃん――アズ!?」
驚いた顔でルナを見たミシェルは、「もうだめえ~!」とその場で倒れ込み、クラウドも、べっちゃりと顔から土の上に倒れ込んだ。
――宮司が持ってきたお茶は、五人分で正解だった。
「……こんなにくたびれたの、学校の軍事教練以来だよ……」
クラウドが、その綺麗な顔を土で汚し、拭うこともせずに仰向けになって倒れた。
「おまえたちも来たのか」
アズラエルがうんざりした顔で言った。
「悪かったよ。鉢合わせするつもりはなかったんだ。でも、ミシェルが……」
クラウドの半泣き顔がすべてを物語っていた。ミシェルが来たいと言ったから、来ざるを得なかったのだろう。
「ここがルナのいってた前世を浄化してくれる階段か~」
「やっとこれたね、ミシェルも!」
「うん、来てみたかったの!」
ミシェルがルナの隣で、楽しげにしゃべっているのを眺めながら、クラウドは心の涙を流した。
別のところに旅行に行こうと思ったのに、ミシェルが選んだのは、ルナとアズラエルが来ている真砂名神社だった。
「まあ、俺もいつかは自分の目でこの階段を見たいと思っていたし、体験はしてみる気でいたけど……」
クラウドはあきらめ顔でつぶやいた。
五人分の空になったコップをさい銭箱の横に置くと、ルナたちは神社のわき道を通って、奥へ向かうことにした。
ミシェルとクラウドは、奥のギャラリーに向かうのが目的だったからだ。ルナも行きたいと言ったために、アズラエルとグレンも、嫌々ながら同行することになった。
おそろしくくたびれた。
できれば、椿の宿に帰ってひと眠りしたい。
男連中は皆同様だった。元気なのは女の子ふたりだけ。
アズラエルが一番先頭を、のっそり歩いている。さっきの階段があまりにもきつかったせいで、だれとも口を利きたくないらしい。
ルナとミシェルは、きゃっきゃと騒ぎながらふたりで歩いている。
居心地の悪さを覚えているのは、グレンだった。なぜか、クラウドがじーっとグレンを見ているのだ。
いつもならクラウドは、グレンを即座に無視する。アズラエルの隣を歩いているはずだ。グレンと隣同士に歩くことなど絶対にない。不気味さしか感じ取れなくて、さすがにグレンは「なんだ!? ジロジロ見やがって。なにか言いたいことがあるなら言え」とすごんだ。
クラウドは、グレンを見ていた自覚はなかったようだ。スラックスのポケットに手を突っ込んで、歩きながら言った。
「一度、ちゃんと聞いてみたかったんだけど」
「なんだ」
「――君さ」
クラウドは、離れて歩くアズラエルを気にしながら。
「どうして、アズを殴った?」
グレンはさっきのことかと思った。店で殴り合いをしたこと。
「そりゃ、アイツがサンダルを、俺の頭にヒットさせたからで――」
「そうじゃない」
クラウドは首を振った。
「もっとずっと、昔のことだ。……どうして、通りすがりにアズを殴った? たしかにアズは問題児だったけど、君に殴りかかったわけじゃない。どうしてだ?」
やっとグレンは、クラウドが言っている意味が分かった。学生時代のことを言っているのだ。
たしかにグレンは、通りすがりにアズラエルを、問答無用で殴った。
「……おいおい、そんな昔のことを今さら」
「俺は、別に君を嫌いじゃなかった」
クラウドは、驚くべきことを言った。
「俺は、ドーソンだのなんだの、名だけで判断するやつは嫌いだ。だけど、君はアズを殴った。無差別にね。君ひとりのときじゃない、君が仲間を引き連れていたときだ。君がアズを将校のリンチにかけようとした、そうじゃないって、どうして言える? アズが殴り返していたら、確実にアズは将校のリンチに遭って――、」
クラウドはきびしい目でグレンを睨んだ。
「下手をすりゃ、身体を壊されて、二度と傭兵家業はできなくなってたかもしれない。――そうだろ?」
グレンはポケットを探ったが、タバコは見当たらない。店でアズラエルともみ合った時に落としたか。仕方ない。クラウドのようにポケットに手を突っ込み、口寂しいのを我慢して、代わりに森の空気を吸った。
この参道が禁煙だということを、彼はまだ知らなかった。
「――俺が言ったことを聞いて、それでおまえは信じるのか?」
「君はウソをつく気なの」
「ウソかどうかは、もうたしかめるすべはないぜ?」
「いいから言えよ。どうしてアズを殴ったの」
「結論から言えば、俺がアズラエルを退学させたくなかったから」
「……え?」
クラウドが立ち止まった。グレンも、振り返りはしなかったが、一歩先で止まった。
「アズラエルが卒業したとき、認定の資格をもらえなかったのは、バブロスカ革命の縁者だからってだけじゃない。知ってるだろ」
「……」
「アイツがあんまり無茶苦茶だったからだ。いくら傭兵でも、認定の資格を得るにはある程度“まとも”じゃなきゃいけねえよ。協調性はねえわ、教官は殺しかけるわ、……力の加減の仕方も分からねえ。殺しかけるまで相手を叩きのめす。女の教官を、いくらあっちが誘ったからって、教室で犯しかけたって、あり得ねえよ。アイツは、アカラ第一教練創立以来の問題児だ。いくら実力あったってな、そんな動物みてえなヤツに認定の資格はやれねえよ」
「だから殴った? ヘンだろそれ」
「人の話は最後まで聞けよ。一年の時に教官殺しかけたろアイツ。その時点で、退学決まったって、おまえ知らねえだろ」
「それは――知らなかった」
「まあ知るわけはねえよな。俺が生徒会長だから知ってたってだけで」
そのころのアズラエルは、クラウドともあまり口を利かなかった。荒くれ者の不良とばかりとつるみ、家にはほとんど帰らず、幼馴染みであるクラウドやオトゥールとは、距離を置いていた。
アズラエルは荒れていた。どうしようもないほど。
「アイツの退学は、職員会議ですぐ決定したよ。理由は学校に、アイツを押さえられる人間がいなかったってことだ。教官も、生徒も、だれもアイツを止められるやつがいなかった。べつに退学になったって、プルートスの方や、傭兵専門のガッコはいくらでもある。そっちなら、アズラエルを押さえられる教師もいるだろうさ。アズラエルなんて目じゃねえ、メチャクチャな教師がそろってる。だが、アカラ第一で認定をもらえることができれば、それだけで傭兵としての名は上がる。アカラ第一はL18で一番――ようするに軍事惑星一の名門校だからな。それだけ選別も厳しい。アイツが退学になるって情報は、当然ながら生徒会の方にも入ってきた。……俺は、アズラエルを退学にはしたくなかった」
クラウドは、目を見開いた。
「――今なら言えるが、俺にはな、卒業後に思い描いていた、大きな夢があったんだよ。バカにしてもらってけっこうだが、――傭兵を軍部に入れることだ。もちろん、認定の傭兵をな。俺は、アズラエルほどの実力の傭兵を、むざむざ退学にはしたくなかった。アイツには絶対認定の資格を取らせて、俺の計画に入れるつもりだった」
「君は、アズラエルをかばったのか?」
頭のいいクラウドには、その先が分かったらしい。だがグレンは鼻で嗤った。
「そんな親切なものじゃない。俺はヤツを試しただけだ」
「試した?」
「アイツが俺を殴り返してきたなら――ドーソン一族の嫡男にも殴りかかってくるような、そんな分別もない、考えなしの動物だったら、その時点でアズラエルは切ることに決めた。そんな動物はいらん。仲間と俺で、叩きのめして退学だ。そのあとのことなんか知らねえ」
「でも――アズは殴り返さなかった」
「そうだ」
グレンは言った。
「アイツ、おまけになんて言ったと思う? 『バクスター中佐の息子さんは殴れません』。……知ってたんだ、アイツは。俺の親父がアイツの家族を助けたことを」
「アズは、動物じゃなかった」
「腹が煮えくり返ったのは俺のほうだ。二発目は、完全な俺の八つ当たりさ。……俺は、親父の七光りで、教官を殺しかけたアイツのパンチを食らわずに済んだわけだ。イヤな野郎だ。俺がドーソン一族だから殴らなかったんじゃなく、俺がバクスターの子だってことを強調したんだ。俺が嫌がると知っていて、だ。アイツが動物じゃねえことは分かったが、半端なく嫌味な野郎だってことも、よくわかったよ。結局、教官どもは俺がアズラエルを押さえられると分かって、――約束通り、アズラエルの退学を取り消した」
クラウドはなにも言わなかった。ただ、グレンに対して今まで向けていた鉄面皮が、和らいだ気がした。
「……なんだおまえ、気味の悪い笑い方しやがって」
「いや、納得しただけさ。腑に落ちてすっきりしたな、と思って」
クラウドはふたたび歩き出した。かなり先のほうで、ミシェルが「クラウドー! グレン~! 置いてっちゃうよ!」と叫んでいる。
「おい、行くぞ」
グレンもクラウドも、早足で歩きだした。クラウドがちらりと、グレンを見て言った。
「今度、君のマンションにお邪魔してもいいかな」
グレンはつまずくところだった。
「――は!?」
「嫌なのか? 君は俺のことを嫌いだとは言わなかった。俺が勝手に君を嫌ってただけだ」
「――? まあ、それはそうだけど」
いままで徹底的に嫌われていた相手から、手のひらを返したようにそんなことを言われるのは、不気味としか言いようがない。なにか企んでいるのではないかと、思いたくもなる。まして、クラウドは心理作戦部の人間だ。
「エレナの出産も近いって言うし、俺はセルゲイとは、けっこう気が合うんだ。君のことが解決したから、これで気兼ねなく行けるな」
「……」
グレンは、疑わしげな目でクラウドを見るが、クラウドはどこ吹く風だ。
「嫌なのか?」
「――いや――ああ――まあ――いつでも来いよ……」
「ありがとう」
クラウドが、輝くような笑顔を見せたので、グレンは呆気にとられて立ち尽くした。クラウドはグレンを置いて、さっさとミシェルのところへ向かう。
――なんとなく、あの笑顔が懐かしいと感じたのは、気のせいだろうか。




