137話 記憶の扉 Ⅲ 1
ルナたちが椿の宿から出かけようと、ようやく腰を上げたのは、昼近くになってからだ。
「はあ、料亭まさな、ね。俺は生ものが苦手なんだ。ほかのところを……、」
アズラエルがフロントで、近くに旨い店はないか聞いている。グレンは革靴に足を突っ込み、ルナを抱き上げた。
「肉食えるとこ聞いてきたぞって、……おい! ルゥは俺が抱く。てめーはすっこんでろ」
「ヤレヤレ。嫉妬深い彼氏を持つと大変だな、ルナ」
「うん! たいへんだ」
「なに他人事みてえに言ってんだルゥ。こっちこい」
アズラエルは強引に、グレンからルナを奪い取った。
「そもそもね、アズはあたしのカレシなんかじゃ……」
「第一な、なんでてめえが俺たちと一緒に行動するんだ。てめえはここに、一億倍綺麗なルナに会いに来たんだろ!」
「俺はてめえと一緒にいるんじゃねえ。ルナと一緒にいるんだよ」
「マジで邪魔だ」
またきりがないケンカが始まろうとしたので、ルナは大声で宣言した。
「喧嘩したらなっとうを食べるよ!!」
ライオンとトラは黙った。なぜルナのカバンの中に、ナットウのパックが入っている。
「はやく靴買わなきゃ。あたし、アズにだっこされてばっかで、歩き方忘れちゃうよ」
ルナの言うことは、もっともだ。昨日から、ルナはほとんど自分で歩いていない。
「靴ですか……、」
女将が、考え込むようにして言った。
「K05区には、大きなデパートはないものですから。困りましたね、K12区あたりまで出ませんと、靴屋さんはありませんのよ。でも、おみやげ物売り場に、和風の――ええと、サンダルみたいなものでしたら、あると思うのですけど」
「あ、それでいいです!」
ルナはアズラエルに抱っこされながら、玄関を出た。
「いってらっしゃいませ」と従業員の見送る声が聞こえる。
「なんか、仕方ないとはいえ、やっぱり恥ずかしいよアズ」
靴がないから仕方ないとは言っても、人前で抱っこされたままなのは、やはり恥ずかしい。ルナは言ったが、
「心配するな。たぶん、親子か兄妹にしか思われてねえから」
「……まァな。ムカつくが、たぶん恋人同士には思われてねえよ。おまえ、ガキっぽいから」
アズラエルは禁句を口にした。ルナは口をぽかっと開け、それからぺけぺけとアズラエルの頭を叩き、そしてふて腐れた。いつものパターンである。
ルナたちは、歩いて真砂名神社へ向かうことにした。そのまえに、時間も時間なので、昼食を取って。ルナのサンダルも購入しなければならないし。
フロントの従業員に聞いた店は、真砂名神社へ向かう大路の、手前から三番目のわき道を左に曲がり、小路を行くとあるらしい。
「おにく!」
「ああ。お肉だルゥ。ステーキ店だとよ。値段は張るが、旨いのは間違いねえって」
「おにくたべたい! でもアズ、そんな高いところ、破産しない?」
「肉ごときで破産するかよ。でも肉ばっか食うなよ? 野菜も食えよ」
「……おまえらは親子か」
グレンが呆れ顔で突っ込んだが、ルナはぜんぜん関係ない返事をした。
「グレンはおにくすき!?」
「大好きに決まってる。……てか、ルナ、おまえウサギのくせに肉好きか?」
「おにくだいすき!」
「肉食ウサギかよ」
「食う量はたいしたことねえけどな」
ライオンやトラと比べられては困る。
三人は巨大な鳥居をくぐって大路に入り、目に付いた一番大きな土産物屋へ入った。観光客であろう、大勢の人でにぎわっている。
ルナは、アズラエルに抱っこされているため視界が高い。
「あ、あった!」
キョロキョロしていたルナが、目的のものを一早く見つけたようだ。
アズラエルとグレンは、サンダルや下駄が並べられた戸棚に向かう。ルナを鏡の前に置かれた椅子の上に下ろし、アズラエルは「なにがいい」と聞いた。
ルナは棚を眺め回し、「赤いやつ!」と言った。
ルナが選んだのは、布製で、底が厚めで、花の刺繍が施された、鮮やかに赤いサンダルだった。刺繍が手の込んだものらしく、なかなかいいお値段だ。小さめサイズのそれをアズラエルは取り、ひざまずくようにしてルナに履かせてやる。ぴったりだった。
「これでいいのか、ルゥ?」
「うん! コレ可愛い!」
ルナは見たときから、もうこれに決めていたらしく、すでに自分の小さなバッグを漁っている。財布を出そうとしていたが、
「いい。ルゥ、俺が買う」
「え? いいよ。あたしもおこづかいあるし」
「いいんだ。これは買わせろ」
「でも、わるいよ。椿の宿だって、みんなアズが払ってくれたんでしょ? おにくだって、アズが」
基本的に、外食分はすべてアズラエルが払っている。
「いいんだよ」
「だめだよ! ただでさえ、アズと暮らし始めてからあたし、なんか金銭感覚おかしいもん! こ、これはあたしが買うよ!」
「俺が買う」
アズラエルは、どうしても譲らない。ここまでいえば、いつもなら大抵譲ってくれるのに、今日は意固地なまでに譲らない。
グレンはだまって、そんな二人を眺めている。
アズラエルは、なんだかよくわからないが、意地でもこのサンダルは買ってやりたかった。
理由など特にない。聞かれても答えられない。
だが、どうしても今、ルナにこれを買ってやりたい。
なんとなく、可愛い靴を買ってやりたかったのだ。
「……?」
グレンは、目の錯覚かと思って目をこすった。アズラエルもだ。
ルナに履かせた赤いサンダルが、急に真っ黒でぼさぼさの、ボア生地のスリッパに見えたのだ。
「どしたの? アズ」
ルナが、アズラエルが固まったのを見て、不思議そうに言った。
「――え? いや、なんでもねえ」
まばたきをして、もう一度しっかりと見つめたサンダルは、たしかに赤い布製だ。
「アズ?」
「と、とにかくコレは、俺が買う。いいな?」
アズラエルはルナの足からサンダルを取り上げ、勝手にレジへ持って行った。
「アズ~!!」
「いいじゃねえか、ルナ。サンダルのひとつやふたつ」
グレンは言った。この男は、アズラエルよりさらに金銭感覚がセレブだ。ルナの庶民的価値観など、はなから言っても無駄なのである。
「うう……。あのサンダルけっこうするよ?」
「男は自分の金で、女を飾り立ててえんだよ」
「……」
「というわけで、俺はこっちをおまえに買うよ」
そういって、グレンは、ショーケースに飾られているかんざしを指さした。
「これ包んでくれ」
「グレンー!!!!!!!」
ルナは絶叫した。ルナが絶叫している間に、恐ろしく満面の笑顔の店員は、グレンが指定したかんざしを、手袋をはめてショーケースから出し、「こちらでよろしいですか?」と聞いてきた。
「よろしくありません!」
ルナはぶんぶんと首を振ったが、グレンは「ほかに好きな色でもあるのか」と聞いてきた。ルナはやっぱり首をぶんぶん振った。
さっさと財布をだし、「あ、やっぱり今使うから、そのままでいい」などと言い放った。
店員が満面の笑顔になったのも、無理もない。普通の観光客は、このショーケースにあるものにはなかなか手を出さないだろう。ほかの売り場のものより、一桁二桁も値段がちがうものが並んでいるのだ。
グレンが選んだかんざしは、金ぴかのうえ、宝石が使われている高価なもの。ルナはダイヤモンドとルビーが惜しげもなく使われたそれに、目を瞑った。
(……目が! 目がつぶれます……!)
店員がせっかく手袋をはめて扱ったそれを、グレンは平気で素手で受け取り、「ルナ。こっち来な」と椅子に座らせる。
ルナは、アズラエルが早くもどってきてくれないかソワソワし、泣きそうだった。グレンの無駄遣いも度が過ぎている。アズラエルがもどってきてくれたら、グレンの無駄遣いを諌めてくれるはずだ。このひとりっこのお坊ちゃまは、金の使い方が荒すぎる。貧乏育ちの、長男気質たるアズラエルは、きっとひとこと言わずにはおれないだろう。
椅子に座ったルナの流しっぱなしの髪を、大きな厳つい掌が包んだ。びっくりしてルナは身をすくませたが、グレンはその長い指で器用にも、ルナの髪をさっとまとめあげたのだった。手ぐしだけでまとめた髪に、そのかんざしを挿す。
「あら、お可愛らしい」
店員さんの褒め言葉も、ルナは耳に入らなかった。ン十万の簪が、いま、ルナの頭に刺さっているのだ。
「うん」グレンも満足げに微笑んだ。「いいな」
……よくないです!
グレンは、ルナが固まっている間に、カードで支払いを済ませた。
「……グレン。返品する気は?」
ルナは恐る恐る聞いたが、グレンは不機嫌そうに「あァ?」と声を荒げた。
「俺に恥をかかせるのか? ルナ」
「ごめんなさい」
こういう怒り方のグレンは、アズラエルより怖い気がする。ルナは縮こまった。
「いい子だ。怒られたくなかったら、これからは素直に、俺の贈り物は受け取れ。――いいな?」
「は、――あい」
「すり潰すぞ、銀色ハゲ」
グレンの頭に、いい音をさせてルナのサンダルが命中していた。アズラエルが、青筋を五本くらい立てた、凶悪面で立っている。
「てめえっ! 店ン中でモノ投げるやつがいるかっ!」
さすがに腹が立ったらしい。グレンが叫ぶと、周囲の客が一斉にこっちを見る。
「サンダルですんでよかったと思え! 人の女に手を出すなって、何度言や分かるんだ!!」
「そんなに大切な女なら、金庫に鍵かけてしまっとけ!!」
もはやルナは、止めることができなかった。店の警備員が出てきてふたりを引きはがさなかったら、確実に殺し合いになっていた。
「なあ、ルゥ」
ルナはぷんすかと頭から湯気を出して、どかすかと歩いていた。
「ルナ、悪かったって」
ぷんすかウサギの後ろを、顔を半分ずつ腫れあがらせたライオンとトラが、のっそり歩いてくる。
ルナウサギの尋常でない怒りと、警備員に連行されて調書を取られたおかげで、ステーキ・ハウスへの訪問はなしになった。時間も取られたうえに、暴れたのと怒ったのとで腹が減った三人は、ちかくの蕎麦屋で昼食をとった。
ルナは怒りっぱなしだった。蕎麦は、美味しいとは言えなかった。ルナは食べたことはあるが、グレンとアズラエルはない。食べつけていないものを、MAX不機嫌な恋人と食べるのでは、味も極限に落ちる。
「……マジで悪かった」
「そんなに怒るなよ。無事だったんだからいいじゃねえか」
「なにが無事!? なにが無事なの!? イエローカードなんだよ!?」
子ウサギがこんなに怒ったのは、いままでにない。ウサギの怒鳴り声に、トラとライオンは、そのでかい身体を反省するように縮こめた。
「警備員さん言ってたよ!? バグムントさんとチャンさんに連絡するって! もう一回もめごと起こしたら、宇宙船降ろすって、そういってたよね!? なにが無事? お茶碗、棚ごと壊したのはだれですか、言ってみなさい!!」
「……俺です」
グレンが、蚊の鳴くような声で言った。セルゲイの説教でも、ずぶとく逃げていたグレンが。
「椅子壊しちゃったのはだれですか!?」
「……俺だ。でも、あれはグレンが殴ってきたから――」
俺がぶつかったんだ、と言い訳しようとしたアズラエルに、ルナはますます噴火して叫んだ。
「言い訳はいらないです!!」
「はい、ごめんなさい」
アズラエルは素直に謝った。
「ここは軍事惑星じゃありませんっ!! ケンカはダメなの! 反省して!」
「ルナ、俺たちちゃんと弁償したじゃねえか」
「弁償はあたりまえでしょっ! グレンたちが悪いんだから! あたしが怒ってるのは、もうケンカしないでってこと!! 二人がケンカするのはね、あたしとミシェルがケンカするのとわけがちがうの、まわりのものも壊れるの! おっきい図体してケンカしないで!」
またなにか言いかけたグレンは、ウサギにぎっと睨まれて口を噤んだ。怒った顔も可愛いという本音は、今は届かないだろう。
「おまえは、怒った顔も可愛いな」
アズラエルは、グレンを信じられないという顔で見た。今ここで、これを言うか。
ウサギは案の定、激怒した。
「アズなんてもう知らないっ!! ふざけてばっかり!! 宇宙船降ろされちゃえ!!」
「いや今のは俺じゃねえだろ!」
ルナは、めのまえの階段をだん! だん! だん! と怒り任せに上っていく。いつのまにか、真砂名神社の階段のところまで来ていたのだ。
「ふざけたわけじゃなかったんだが」
アズラエルには、グレンの気持ちがよくわかった。アズラエルも空気を読まなければ、口に出しているところだった。ほぼ反射。
「……おまえ、ヘンなところで空気読まねえよな」
アズラエルのセリフに、グレンが突っかかることはない。もう懲りた。
ウサちゃんを怒らせていいことなど、なにもない。
ためいきをつきながら、猛獣二頭は長い階段を見上げた。この上が真砂名神社か。
とてつもなく長い階段だが、ふたりは特に大変だとは思わなかった。軍人がこの程度の階段で音を上げていたら、軍人の意味がない。この程度の階段、ウサギ飛びで上がっても平気なくらいだ。
ふたりが心配していたのは、ルナのことだった。運動音痴で体力不足のルナには、この階段は大変だろう。
いつもだったら、抱っこして上がってやってもいいのだが、ただ今激怒中のうさこちゃんである。触らせてもくれないだろう。仕方がない。ゆっくりついていって、ルナが限界を訴えたら抱っこしてやろう。
二人はそう思っていた。
彼らは余裕ぶっていた。他人の心配ができるほど。
――階段を、上りはじめるまでは。




