16話 羽ばたきたい孔雀 Ⅱ 1
事態は存外早く動き出した。
翌日のことだ。
アズラエルは行きつけのベーカリーの紙袋を持って、帰路についた。大きな冷蔵庫は、ルナの部屋のほうにある。合鍵でドアを開け、ただいまと言いかけて、見知らぬスニーカーがあるのに目を留めた。
男物の大きなスニーカーだ。まさか、またセルゲイか。いや、あの男はいつも革靴だ。クラウドのものとはちがう。隣人のジルベールやエドワードは、ここまで足がでかくない。
ミシェル? ロイドはもちろんちがう――。
(ルナ)
そこまで考えるあいだに、慎重に廊下を抜け――手元のコンバットナイフに手をかけ、部屋に踏み込んだアズラエルは、リビングにいた顔を見て仰天した。
「ジルド?」
「よう、アズラエル」
リビングにいたのは、アンジェラのベッドでいっしょに励んだことがあるお仲間だった。
「なんでおまえが?」
「カノジョに言っとけ。アヤシイやつは部屋に入れるなって」
眉尻を下げて苦笑するジルドに、ルナがキッチンからコーヒーとお菓子を運んできたところだった。
「お待たせ! あれ、アズおかえり!!」
「ルゥ」
昨日の今日である。アズラエルは冷静を装っていたが、怒った。
「どうしてコイツを部屋に入れた?」
ルナは、きょとんとして言った。
「だって、アズのおともだちだっていったよ」
困り顔でそういったルナに、「ともだちじゃねえよ」とアズラエルはすごみ、ジルドは「そんな冷たいことを言うなよ」と肩をすくめた。
「俺は少なくとも、おまえのことは友人だと思ってる。だから、彼女には、“まだ”なにもしていない」
「おい、無事か?」
アズラエルは思わず、ルナの身体のあちこちを触ったが、トレイが頭上を直撃した。
「せくはら!!」
「心配しただけだ!」
頭を押さえてうめき、ようやくジルドに聞いた。
「それで、何の用だ」
「決まってるだろ。アンジェラの“おつかい”だ」
ジルドは笑った。
「――!」
ルナの顔が緊張に強張ったのを、アズラエルも見たし、ジルドもわかっただろう。
「彼女も聞くか? それとも、よけいな過去は聞かせたくねえか? どうする、アズラエル」
ジルドはアズラエルに選択をゆだねた。
「……ルゥ、キッチンで待っててくれ」
「えっ!?」
アズラエルが顎をしゃくったので、ルナは抗議の意味も込めてにらんだが、百倍は怖い目つきでにらまれた。ルナは後ろ髪をひかれつつ、しかたなくキッチンに引っ込んだ。
(アンジェラさんの、おつかい?)
アズラエルはルナをキッチンに追いやり、容赦なくドアを閉めた。ルナはぷんすかして飛び跳ねたが、結局、ジルドは声がでかかったので、キッチンにいたルナにも話は聞こえてしまった。
話はすぐ終わった。
ジルドが玄関のドアから出ていくのをきちんと見届けてから、アズラエルはルナを呼んだ。心配そうな顔のウサギが、キッチンからもどってきた。
「アズ」
「心配するな」
ジルドが大げさにでかい声で話すので、結局ルナにも聞こえてしまっただろう。どちらにしろ、今さらというやつだ。
原因は、自分にあったらしい。
アズラエルは、一度は携帯電話から消した番号を押した。ジルドから、たった今聞いたばかりの番号を。
アンジェラ直通の、プライベート携帯。
相手はすぐに出た。まるで、アズラエルからの電話を待っていたように。
『ジルが帰るまで待ちきれない。アズラエル、返事は?』
「なァ、アンジェラ」
アズラエルはひと呼吸置いた。
「俺がおまえと寝るのも、おまえから離れるのも、俺の自由だ。おまえの自由でもある。そうだよな?」
『……』
「俺たちはそんな関係だったか? 縛りあうような」
『……あたしだって、バカじゃないのよ』
アンジェラの声は、一気に不機嫌になった。
『そうよ。あんたがあたしの屋敷から出ていくのも、来るのも自由――縛っちゃいないわ。でも、あんたは、“じゃあなアンジェラ”って言った。一度も、部屋を出ていくときにあたしに声をかけなかった男が』
あの「じゃあな」はアンジェラにしっかり聞こえていたらしい。
『それがなにを意味するか、知らないあたしじゃないわ。ねえ、あなたのそばにいるその子が、寝るだけの相手なら許してあげる。それで、あんたがいままでどおり、気まぐれにあたしの屋敷に来るんなら――』
「残念だがアンジェラ」
アズラエルははっきりと告げた。
「俺は、もうおまえと会う気はねえ」
その言葉に、アンジェラの気配が閉じた。彼女は会話をあきらめたように、いきなり切った。すっかり沈黙した携帯電話を見つめ、アズラエルはもう一度かけなおそうとしたが、ルナに止められた。
「アズ……アンジェラさん、あきらめてないよ」
「ああ」
「もう一回話しても、きっとダメだよ」
ルナはおそるおそる言い、アズラエルも肩をすくめた。
「そんな気がする」
「ジルドが来たのか」
クラウドは、アズラエルが携帯に録音しておいたジルドとの会話を聞き終え、無表情で止めた。
マタドール・カフェは徐々に混んできた。午後七時をすぎたころだ。奥の席には、アズラエルとルナ、クラウド、ミシェルの四人だけ。
『メッセージはこうだ。アンジーのベッドにもどれ。さもなくば、おまえの可愛い子がどうなるか分からない』
「まぎれもなく脅迫だな」
クラウドは軽い口調で言い、ルナは憂鬱な顔でカクテルを飲み、ミシェルは怒髪天になった。
「あたしの好きな“アンジー”と、同じ名前でも、ずいぶんちがうのね」
ミシェルの好きな“アンジェラ・D・ヒース”は、世界的に有名なガラス工芸の芸術家である。クラウドはそんなミシェルの叫びを複雑な顔で流し、アズラエルの携帯電話をヒラヒラと振った。
「……これでアンジェラを降ろせって?」
「無理か」
アズラエルは期待していない顔で言った。
ジルドは、アズラエルを待った。それはたしかに、感謝すべき事態だった。
彼はアンジェラに、「ルナを脅して宇宙船を追い出せ」とシンプルに告げられていたのだ。だが、ジルドはどちらかというと常識人だった。彼女の言葉通りにはせず、ルナ自身を脅すことなく、アズラエルに選択を突きつけた。
アズラエルがもどるか、ルナが降りるか。
選択を突きつけたのはジルドのやり方であって、アンジェラはそれを望んではいない。
女王様は、猟師が白雪姫を森で始末してこなければ、今度は別の男を派遣するだろう。それははっきりと分かった。
「ねえ、アズラエル。いったんルナと別れて」
ミシェルがきっぱりと言った。
「リサだってキラだって、きっとこのことを知ればそういう。それで、ちゃんとアンジェラさんとのことに、けじめをつけてからルナとつきあってよ」
「そもそも、あたしとアズはですね、つきあっては……」
ルナの口を、アズラエルとクラウドの右手と左手が覆った。
「アズは別れたんだ」
クラウドは、とりあえず言い直した。
「でも、まだこうやって追いかけられてるのよね?」
ミシェルは断固として言った。
「おかしいでしょ。どうしてアズラエルのせいで、ルナが降りなきゃいけないの。そもそも、アズラエルは、ルナといっしょに試験を受けてくれるパートナーでしょ」
アズラエルは、ずっと考え込んだまま、ひとことも口を聞こうとしない。
「アンジェラにつけられた世話役から、賠償金と来期分のチケットをもらうことくらいはできる――どう? ルナちゃん」
クラウドの言葉に、ルナのほっぺたはぷっくりふくらんだし、ミシェルが怒鳴った。
「そういう問題じゃないでしょ!!」
店内が一瞬にして静かになり、ミシェルは決まり悪げに、「ご、ごめんなさい」と謝った。
そして、厳しい目でクラウドをにらんだ。
「そんなこと言うんなら、あたしもクラウドとは別れる」
「――は!?」
クラウドが、信じられないという顔でミシェルに向き直った。
「どうして!? このことは、君と俺のことには、なんの関係もないでしょ!?」
「関係なくないわよ。おかしいのは、異常なのはアンジェラってひとでしょ。それなのに、どうしてルナが降りなきゃいけないの。アズラエルがいったんルナと別れて、カタつけてくればすむ話よね!? それをお金でごまかそうとする男となんて、あたしはつきあえない」
「い、いや、お金でごまかそうとしたわけじゃ……」
クラウドはさっきまでのクールさがウソのように、オロオロとうろたえた。
「まあ――分かった」
ずっと無言でいたアズラエルがようやく口を開いた。
「ミシェルのいうことはもっともだ。もともと、俺の問題だ」
ルナはじっとアズラエルの横顔を見つめ、「あたしね」と言った。
「あたしね、アズには、もんのすごくしょっぱい、失敗した生姜焼きを出せるけども、」
アズラエルが、突然何を言い出すんだという目でルナを見たが。
「セルゲイさんにはね、出せないと思うの」
ルナの言いたいことが分かったアズラエルの表情筋は、わずかにゆるんだ。
本当に、ごくわずか――クラウドくらいにしか分からないような、表情の変化。
「セルゲイさんはかっこよすぎて緊張しちゃって、失敗したごはんは、出せないと思うの」
ルナはもそもそと言った。
「アイツがかっこいいっていうのには同意できかねるが」
アズラエルはルナのほっぺたを、むに、とつまんだ。
「……俺を待ってくれるって、そういうことか?」
「うん!」
ルナは満面の笑顔でうなずいた。
それを見て、クラウドはさっき一瞬だけ見せた情けない顔が幻でもあったかのように、「フッ」とクールな笑みを唇に乗せ、ミシェルは「感謝してよね、アズラエル!」とタトゥ入りの腕を、向かいからペチペチ叩いた。
「それでね、相談なんだけども――あたしがアンジェラさんのとこに乗り込んでいって、かんじゃうのはだめかな?」
ルナは真顔だった。
「かむの。あたし、歯はけっこうじょうぶだよ」
ふたりは、このちびウサギめなにを言い出したという顔でルナを見たが、クラウドだけはまともに応対してくれた。
「ずいぶん野性的な作戦だな。悪くはないが、噛んでみたところで、解決はしないだろう」
「そうだよね……」
ルナはしょぼんとうつむいた。
「まずさあ? どこから噛むって発想が出てきたの」
ミシェルのツッコミは容赦なくルナをつついた。
「一番いいのは、アズより容赦のない男を探すことだ」
クラウドは嘆息気味に、ひとりごとをこぼした。
「容赦のない男?」
「そう。君のツッコミのように」
「あたしのツッコミ、そんな激烈かな?」
「急所を突いてくるよね」
「容赦のない男……」
クラウドとミシェルの会話を聞きながら、アズラエルもつぶやいた。
「容赦のない男ってアズラエルのこと?」
ミシェルが言った。先日の生姜焼きは、アズラエル手製のポークソテーに変更された。生姜焼きがよかったとわめくミシェルの口に、「うまいから食ってみろ」と、ドライトマトごとソテーを押し込んだアズラエルは、たしかに容赦がなかった。
「でも、あのポークソテー美味しかったよ?」
ミシェルは、アズラエルを励ますためにそう言った。アズラエルはまったく聞いていなかった。別のことを考えていた。
「容赦のない……」
アズラエルが「あ」とひらめいたのは、ポークソテーのおかげではない。だが、来訪者のおかげで、思考は中断された。




