132話 記憶の扉 Ⅰ 1
「――ルゥ。ルゥ、起きろ」
「んにゃ? ……、あじゅ、着いた……?」
「いや。まだだ」
ルナは目を開けた。
陽はとっくに暮れて真っ暗。店舗の灯りで、周囲が山中だとわかる。アズラエルがルナのほっぺたをぷにぷにつついて、起こしていた。
「椿の宿まであと一時間ってとこだ。……トイレは?」
「ううん。いい」
「腹減ってねえか」
「へった」
ルナは寝ぼけ眼をこすりながら、身を起こした。
数時間まえ、ルナは怒ってふて寝した。アズラエルとしばらく口を利かないと、かたくなに宣言して。アズラエルは呆れるだけでなにも言わなかったし、すぐ寝入ってしまったので、実際、口はきいていないが。
「……はれ? こんびに?」
アズラエルが車を止めているのは、コンビニエンスストアの駐車場だ。
「山ンなかは、ここ一ヶ所だけだな」
ルナは、はじめてK05区に来たときも車中で爆睡していたし、二度目にバスで行ったときも、朝早く出たせいか途中で眠くなり、着くまで寝ていた。
コンビニが道中にあるなんて知らなかった。こんな山の中に。
「椿の宿には電話した」
アズラエルは言った。
「宿内のレストランは二十時まで。ルームサービスは二十三時がラストオーダーだそうだ。チェックインは零時まで。今日はたぶんもう間に合わねえから、このコンビニでなにか買って食ったほうがいい。K05区は、夜遅くまで開いてる居酒屋もレストランもねえんだとよ」
「うん。わかった」
車内の時計は、二十二時を指していた。アズラエルは、ルナにおいで、というように両手を広げた。
ルナは気づいた。
「……アズ! あたしのサンダルがない!」
「分かってるよ」
今日のアズラエルは、呆れてばかりいる気がする。
「俺もさっき気づいた。エレナの家に忘れてきたんだな。明日、どっかで買ってやるから、今日は我慢しろ」
「うん」
ルナは寝ぼけたままなのか、半開きの目でアズの首根っこに抱きついた。いったん寝たせいで感情はリセットされたのか、今は拗ねても、怒ってもいない。寝ぼけているだけかもしれないが。
アズラエルは、かくん、かくん、と頭が揺れるルナを抱えたままコンビニへ入る。
「いらっさいませ~♪」
ずいぶん陽気な店員だ。店内は店員以外、だれもいなかった。アズラエルはカゴを持つと、まっすぐ軽食が置いてあるコーナーへ行き、寝ぼけたウサギを棚へ向けた。
「ほら、カゴに食いたいモン取って入れろ」
「あたし、アズと口きかないことにしたんだもん」
今ごろ思い出したらしい。アズラエルはチキンサンドやハンバーガーの類をカゴに入れながら言った。
「口きかなくてもいいから、食いたいモンを入れろ」
ルナは、アズラエルの片腕にぶら下がったまま、たらこのおにぎりをひとつカゴに入れ、それからぼうっとあたりを眺め、またたらこのおにぎりに手を伸ばしたので、アズラエルは制した。
「二個目はちがうやつにしろ。なんでおまえは好きなものっていうと、そればっか食うんだ」
「アズ、あたしのママより口うるさい」
「うるさいのはおまえだ」
「アズだってチキンサンドみっつもいれてるよ!」
「俺はほかにも食うんだよ。大体おまえは最近野菜不足だ。サラダは食わせるぞ、絶対にな」
「やさいもたべてるもん!」
「ウソつけ。菓子ばっか食いやがって」
「たらこおにぎりふたつがいい!」
「じゃあサラダも食うんだぞ? ちゃんとな」
アズラエルはサラダをカゴにいれた。
店員が、笑いをまったく堪えていないのを目撃し、アズラエルはアホなやりとりを後悔した。
「もういい、二つ買え。早く出るぞ――ダメだ。それは買わない」
ルナがカゴに入れようとしたプリンは、棚に戻された。
「あずのいじわる!!」
「――いいか。おまえはたらこのおにぎりを二つ買った。それを食って、どうせ俺のから揚げとパスタを一口くれとせがむ。サラダも食って腹いっぱいになったおまえは、プリンは残す。俺はそのプリンは嫌いだ。――俺が食う羽目になるのに、それは買わねえ」
「アズ、あたしの展開読まないで!」
「読めるんだよ! プリン買うならおにぎり一個やめろ」
「やだよ」
「俺はたらこも、そのおにぎりってやつも嫌いなんだ。おまえが残したって、食わねえぞ!」
「じゃあ、このゼリーは? アズ、ゼリーは食べるでしょ?」
「俺が食うこと前提かよ」
ダメだ。なにをしゃべってもマヌケな会話にしかならない。
アズラエルはあきらめ、ゼリーをカゴに入れて飲み物を選んだ。早くこのコンビニを出よう。なにをしゃべっても、恥の上塗りだ。
ためいきをつきながらルナに、「飲み物はなにが――」と聞きかけたら、ウサギは寝ていた。器用に腕にぶら下がって。
俺は、どうしてこんな生き物に振り回されているんだ。この、メフラー商社ナンバー3の傭兵が!
アズラエルは自棄になりながら缶コーヒーと紅茶を取り、レジにカゴを置いた。
「ポテト三つとから揚げ三つ。あとホット・コーヒーふたつ」
「やあ! おもしろいカップルだねえ~♪ 俺、大笑いしちゃった」
ちっとも悪びれず、店員は笑う。アズラエルは少し驚いた。ルナといても、親子か犯罪者(アズラエル限定)に間違われはするけれど、恋人同士だと認識されたのははじめてだ。
「笑いすぎだ」
「そうだよね、ごめんごめん。コーヒーならそこに淹れたてがあるけど」
「あ? じゃあそっちにするか。いくらだ?」
「いいよ。そっちはただで飲んで」
「は?」
「それは店の商品じゃなくて、僕が飲みたくて淹れておいてるやつだから! いいコーヒー豆をつかってるから美味しいよ! 急いでるみたいだから引き留めないけど、また帰り、良かったら寄ってよ! ここ、あんまり人が通らないからさあ、人恋しくってしょうがないんだ」
にっこりと、顔全体で笑う。どうも、憎めない男である。アズラエルは大量の軽食と、寝ぼけウサギを抱えていたので、一度車にもどることにした。
アズラエルが、車にもどったところで、店員がホット・コーヒーを大ぶりな紙コップに二人分、持ってきてくれた。
「悪いな」
「いいよ。どうせ今日はもうだれも通らないから、pi=poにまかせて僕はおやすみだ。じゃあ、また来てね♪」
「こっちを通ることがあったらな」
「僕は、ニック・D・スペンサー。L02の出身だよ。このコンビニの店長で、店員さ!」
「アズラエル・E・ベッカーだ。L18から来た。……コイツはルナ。L77だ」
「はっはあ! 軍人とL7系の子のカップルね! 君たちなかなかお似合いだよ。――あ~あ、彼女、すっかり寝ちゃってるね」
「ガキはおねむの時間だからな」
アズラエルは運転席に乗り、エンジンをかけた。ルナはおにぎりを持ったまま半分寝ている。かくん、かくん、と頭を揺らしながら。
「じゃあねええええ! また来てねえええええ!!」
夜だというのに大声を張り上げ――まあ山の中なのでだれの迷惑にもならないが――コンビニ店長は全身を揺らして、見送ってくれた。
その大声で、ルナはすっかり目が覚めた。びっくり顔でキョロキョロあたりを見まわし、やがておにぎりにかぶりついた。
「……おもしれえヤツ」
アズラエルは片頬をあげて、アツアツのコーヒーを啜った。お似合いだと言われたのははじめてだが、気分は悪くない。
――このコンビニで、意外なものを手に入れることになろうとは、アズラエルも、――そしてグレンも、気づくはずもなく――。
鳥居が見える道路に来るまで、アズラエルはあらかた、自分用に買ったものは食べ尽くした。アズラエルが展開を読んだとおり、ルナは結局、アズラエルのから揚げとパスタを食べたがったし、そのためにゼリーは残す羽目になった。
ルナは食事を始めたらだんだん目がさえてきたのか、鳥居が見えるころには、すっかり起きていた。アズラエルの、最後のハンバーガーの包み紙を剥いてあげながら、ルナはライトアップされた鳥居を見上げる。
「夜ってこんなふうになってるんだあ。知らなかった。ライトアップされた鳥居って、綺麗だね」
「ああ、なかなか見事な景観だ」
一分と経たずに、ハンバーガーの包み紙をゴミ箱へ突っ込んだアズラエルは、大鳥居に短い感想を漏らし、街灯で明るくはあるが、まったくひと気はない街中へ車を入れた。
「見たことねえ文化だ」
「そう? ――でもアズ、なんで椿の宿に来ることにしたの?」
「あ? だっておまえ、俺と一緒に椿の宿行きてえって、言ってたじゃねえか」
去年の話だ。アズラエルが覚えているとは思わなかった。
「ゆったけど……うん。……でもだいじょうぶ?」
「なにが」
アズラエルはグレンのことかと思ったが、ルナはちがうことを口にした。
「変な夢、見るかもしれないよ?」
「おまえがか、それとも俺が?」
「両方」
「……俺は、そういう厄介な夢は見ない。おまえが夢見て、一週間起きないってことも今回はねえ。起きなかったら俺が叩き起こすからな」
「アズが見ちゃったら?」
「おまえが起こしゃいいし、夢を見るのが嫌なら寝なきゃいい。カンタンなことだ」
「……ほんとにそうだね」
ルナは呆気にとられてアズラエルを見ていた。「ほんとにそうだ」
なにか得心がいったのか、ひとりで子ウサギはうなずいている。
カーナビに従って朱塗りの橋をわたり、椿の宿が視界に入ったところで、アズラエルは舌打ちした。
「どうしたのアズ」
「いや――こんなに小せえのか」
アズラエルは、椿の宿がこんなに小さな旅館だとは思わなかったらしい。椿の宿は、客室が五、六室あまりの、全体的に小作りな宿だ。ルナはそれをアズラエルに告げたと思ったし、アズラエルもチラシを見たはずだったのに。
基本的にアズラエルは、民宿や旅館の類を知らない。高級な宿泊ホテル、と聞けば、大きなビルしか想像できなかったのだ。いくら小さくても、高級ホテルがこんなにこじんまりとしたところだとは。
「これじゃ、モーテルと変わらねえじゃねえか」
「ぜんぜんちがうよアズ」
「……やべえな」
椿の宿目前の、道の真ん中でアズラエルは車を止めた。普段ならアズラエルは、宿泊先がどんなに狭かろうが小さかろうがボロだろうが、文句は言わない。だが、今日はちがう。
「こんなに小せえ宿じゃ、確実にグレンに見つかるじゃねえか……」
大きな宿だったら、よほど部屋が隣同士にでもならない限り、気を付けていればニアミスしない。これでは、どうがんばっても確実に顔をあわせてしまうだろう。
「ルゥ」アズラエルは苦い顔で言った。「……やっぱ、椿の宿がいいよな?」
ルナはびっくりして叫んだ。
「いまさらなに言ってるの!? アズ、予約したんでしょ?」
「――だってここに、グレンがいるんだぞ?」
「おう。いるぜ、ここに」
ルナは驚いて、「ぎゃあ!」と叫んだ。さすがのアズラエルも、「あァ!?」とでかい声を上げてルナをかばうように抱きすくめた。条件反射。
浴衣姿の、白い髪の男、が運転席の窓を叩いていた。
幽霊かと思った。
ようするに、運転席の窓を、浴衣姿のグレンが腰をかがめて覗き込んでいた――のだが。
二人とも最初は、グレンだと思わなかった。というのも、彼の髪型がちがっていたからである。たくさんのピアスと鋭い目、そしてきらめく銀髪のおかげで、ようやく彼はグレンだと認識された。
「なんだてめえか! ビビらせるんじゃねえ!!」
「グレン!? 髪形変えたの!?」
短い銀髪は伸びて、前髪ができていた。後頭部も、襟足にかかるくらいの長さになって。
「ああ。まあ――ハゲ防止にな。それより、ずいぶん遅かったじゃねえか」
グレンは、ルナたちが来ることを知っていたらしい。だれがグレンに知らせたかは、言わずとも分かる。
「だいじょうぶだよグレン! ハゲちゃったらあたしの髪わけてあげる。いっぱいあるし」
「そうか。助かるぜ」
目につくものことごとく殺しそうな顔で歩いているアズラエルの後ろを、ルナとグレンが仲良く歩いている。
グレンは、風呂上がりの散歩ついでに外をうろついていたら、見覚えのある車が橋の近くに止まったので、多分あれがルナたちだろうと思って、来たのだった。アズラエルとルナが椿の宿に行く、とカレンが知らせてきたのにはびっくりしたが、本当に来たのには二度びっくりした。自分が来ていると知っているなら、アズラエルは回避すると思ったからだ。
「グレン、浴衣ちっちゃいね」
セルゲイ同様、グレンもくるぶしは隠れないし、袖もずいぶん足りない。
「へえ、これユカタっていうのか。これで一番でかいんだと。でも、涼しくていいぜ、この衣装」
「これね、うちの近所では、夏祭りのころになると着るの。おんなのこはもっとカワイイの着るんだよ」
「おまえも着るのか」
「うん! あたし、ママに送ってもらおうと思ってるの」
「見てえな、おまえが着たとこ」
「浴衣はかわいいよ! いろんな柄があるの。宇宙船の中って夏祭りとかあるのかな~」
「夏祭りくらいあるだろ。――浴衣じゃなくて、浴衣を着たおまえが可愛いんだよ」
「そこ、俺の雇い人を口説くな」
「褒めただけだろ」
アズラエルは苦虫を噛んで飲み込んだような顔で、歩いている。
いかなる時でも笑顔をくずさないフロント係は、ある意味すごかった。アズラエルのMAX凶悪顔でも怯まない。
彼は、マイペースを保ちつつ、予約してあった部屋に彼らを案内した。
「こちら、いちいの部屋でございます」
「おい、いつまでついてくる気だ」
「俺が、おまえらの邪魔をしねえはずがねえだろ」
グレンは平然と言う。
「あっ!! いちいの部屋だ!!」
ルナは驚いて、睨みあっているグレンとアズラエルのわきを通りぬけて、従業員と一緒に部屋に入る。
櫟の部屋。ルナがはじめて来たときも、この部屋だった。
セルゲイが泊まったのは、「花桃の部屋」。ちなみにグレンも、この部屋を予約した。
すでに深夜近いため、布団はすでに敷かれていた。ルナは大きな窓ガラスから見える、ライトアップされた室内露天風呂に思わず顔がゆるんでしまう。
また来られるとは思わなかった。こんなに早い時期に。
ミシェルとリサと、今度は四人でここに泊まりに来ようと話していたのだ。
(ツキヨおばーちゃんも連れてきてあげたいなあ……)
ルナはひとりでウロウロ、キョロキョロ、落ち着かなげに部屋をうろつきまわった。
(もしツキヨおばあちゃんと宇宙船に乗っていたら、居住区はこの近くだったかもしれない。だとしたら、きっと絶対来てた。しょっちゅう来てた)
おばあちゃんに送るために、室内露天風呂の様子を写真におさめようと、バッグを探っていると、
「お客様、ドリンクはいかがなさいますか?」
ここは、ウェルカム・ドリンクのサービスがある。今は時間も時間なので、部屋に運んできてくれるらしい。
「アズ~、なに飲む?」
アズラエルはグレンと言い争っていて、ルナの声は届かない。ルナは勝手に決めた。
「じゃあ、アズの分いりません、あたしはバターチャイで!」
「申し訳ありませんが、バターチャイは、冬季限定でして……」
従業員は申し訳なさそうに言い、押し花のついた簡易メニューを開いて言った。
「今の季節は、こちらが」




